第9話 ほろ苦い誕生日
ある日の話。
いつものように俺が雑木林で先生特製のお弁当を食べていたとき、俺はふと考え込んでしまった。
それはきっと彼女が作ってくれた弁当に海苔で書かれた『午後からも頑張ってね』というメッセージを読んだせいだと思う。
先生は優しい。どうしようもなく先生は優しい人間だと思う。
だからこそ先生は貧乏なのだ。
まあ、凄く客観的に見れば彼女は俺の家に居候をさせてもらっているのだから、この程度の奉仕をしなければ釣り合いが取れないのかもしれない。それはきっと先生自身も自覚していてだからこそ、毎日毎日弱音もはかずに俺のために尽くしてくれているのだ。
だけど、そんな先生を見ていると、俺は本当にこんなことでいいのかふと考えてしまう。
俺は恥ずかしいけど、両親からの仕送りで生活をしている。だから、俺個人が先生に対して何か恩を売るようなことをしたという自覚は全くと言っていいほどないのだ。
だから、俺は先生に対しては感謝以外の感情を抱くことはない。
にもかかわらず、俺はこうやって当たり前のように先生の作った弁当を食べていることに、違和感を持つことがある。
俺は先生のために何かをしてあげたことがあるのだろうか?
そんなことを考えていたらいてもたってもいられなくなる。
きっとそんな気持ちになったのは、今朝、俺が偶然、ある事実を知ってしまったからだろう。
今朝、珍しく早く目を覚ました俺は何気なく、机の上に置かれた先生の財布が眺めていた。二つ折りの財布はたまたま開かれた状態でそこに置かれていて、相変わらずお札がどこにも入っていないなあ……なんて考えているととともに、カード入れの部分に先生の免許証が入っていることにも気がついた。
出来心だった。俺はふと、シャワーを浴びている先生の目を盗んで免許証を引っこ抜いた。
免許には原付と書かれていて、そういえば先生が昔、交通費を浮かせるために原付に乗っていたことを思い出す。
だが、気になったのはそこではない。それは免許証にも必ず書かれているもの。
それを見た俺はハッとした。
そして、ふと先生のために何かしてあげられることはないのだろうかと、ふと考えた。
こんな親の仕送りで先生を助けて自己満足しているような人間に俺はなりたくないと思った。
だから、その日から俺は先生に内緒である計画を実行することにした。
※ ※ ※
その日から俺の帰宅時間は遅くなった。
日によってまちまちだけど、早い日でも九時半、遅い日は十時半ごろに帰るようになった。帰る時間が遅くなればなるほど、先生の心配が募っていくのは当然だった。
「おかえり、今日も遅かったね」
「そうっすね。ちょっと喫茶店で本を読んでいたので」
そうあっけらかんと答える俺に先生は少し不満げな視線を送る。
「あんまり遅くまで出歩くのは良くないよ……。最近も隣町で他校の女の子が不審者に追いかけられたって事件があったばかりなのに……」
「大丈夫ですよ。俺、男子生徒ですし。それに課題だってなんとか毎日終わらせているじゃないですか」
「そのせいで、毎晩、二時ぐらいまで起きてるみたいだけど……」
「ま、まあ、六時間ぐらいは眠れているので大丈夫です」
「近本くん、最近目の下にくまできてるよ……」
そう言って先生はキッチンへと向かうと濡れタオルを数十秒レンジで温めて、俺のところに戻ってくる。そして、温まったタオルを俺の目の下に押し当てる。
タオルをあてがいながら先生は相変わらずの不満顔で俺を見つめる。
「本当に喫茶店にいたの?」
「え? は、はい……そうですけど……」
「本当に本当?」
「…………」
先生の真剣な眼差しは俺の全てを見透かしているようだった。が、それでも今は本当のことは言いたくなくて黙っていると先生はますます心配そうな表情を浮かべる。
「先生はね、思春期の男の子に色んな隠し事があることは知っているし、どうしても言いたくないのなら無理に詮索はしないよ。だけどね、近本くんが何か危ない目に遭うようなことは担任として放っておくわけにはいかないの」
「大丈夫です。別に非行をやっているとかそういうことじゃないんで」
「まあ、近本くんのことだから、そんなことはしないとは思っているけどさ。でも、駅前には歓楽街もあるし、何かのトラブルに巻き込まれないとも限らないんだよ?」
「大丈夫ですよ」
「どうして大丈夫だなんて言いきれるの? 近本くんは自分が大人だと思っているかもしれないけど、きみはまだ高校生なんだよ? 世の中にはまだ近本くんが、知らない危ないことがたくさんあるんだよ?」
「わかってますよっ!!」
高校生の俺はまだ未熟だった。先生が本気で心配してくれているのに、先生のことを小言のうるさい母親のように感じて思わずムッとした表情を浮かべる。
「だいたい、今どき、高校生にもなったら十時ごろまで外を出歩くのなんてそんなに珍しいことじゃないじゃないですか。先生は少し心配しすぎです」
そんなこと絶対言うべきじゃなかった。先生は俺の担任である以上、俺が何かよからぬことに巻きこまれないよう細心の注意を払わなければならない立場にあるのだ。
そんな俺の失言に先生は「ごめん……」と言って、俺からタオルをテーブルに置くと「先生、明日早いからもう寝るね。夕食は冷蔵庫に入ってるから温めて食べてね」とそそくさとベッドに入ってしまった。
俺に背を向けながら眠りに就く先生を眺めながら、俺はなんともやるせない気持ちで黙っていた。
※ ※ ※
それから三日ほど経ち、俺の帰りが遅くなってから一週間が経った。
土曜日。俺は色々あってついには帰宅時間が十一時近くになってしまった。きっと先生は怒っているのだろうなと内心ひやひやしながら、自宅のドアを開けると案の定先生はネグリジェ姿で、テーブルでお茶を啜りながら、全身に怒りのオーラを漂わせていた。
「た、ただいま……」
「…………」
先生は何も答えずに、先生の向かいに座ると急須のお茶を注いで少し冷めたお茶を啜る。
すると先生は「十一時だね……」と一言、むっと口を噤んだ。
「そうっすね……」
「そうっすね。じゃないの。流石に今日は帰るの遅すぎだよ」
「ちょっと、友達の長話をしてしまって」
「そのお友達はなんていう子?」
「それは…………」
嘘を吐いているのだからすぐに名前が出てくるわけがない。すると先生は俺を睨み付けた。
「先生はね、近本くんに感謝しきれないぐらい感謝しているから、あんまり近本くんには偉そうなことは言えないの」
「すみません……多分、明日以降はちゃんと九時前には帰って来るので心配しないでください……」
「どういうこと?」
先生は少し不思議そうに首を傾げる。
なんというか空気は最悪だ。俺は決して先生を悲しませるようなことはしたくなかった。いや、むしろ先生を喜ばせたかった。なのに、俺の行動は先生を悲しませていた。
だけど、それも今日で終わりのはずだ。
「こういう空気でこんなことを言うのは何ですが、これ……」
そう言って俺は両手に掴んでいた紙袋の片方を先生に手渡した。それを受け取ると先生は少し驚いたように紙袋の中身を取り出す。
それは駅前のケーキ屋で買ってきたホールケーキだった。箱を開けた先生はケーキに書かれた「happy birthday」の文字に目を見開いた。
「先生ごめん。俺は先生を喜ばせるためにやったのに、先生に心配をかけたのは本当に申し訳ないと思っています……」
そして、今度はもう片方の手に握られていた紙袋を先生に差し出す。
先生は驚いたように紙袋を受け取ると、紙袋の中身を取り出した。
それはワンピースだった。それは先生が前々から指を咥えながら眺めていたファッション誌に載っていたワンピース。
「なんだか、俺が空気をぶちこわしちゃいましたけど、お誕生日おめでとうございます……」
実は免許証をたまたま見たあの日、俺は先生の誕生日が今日だということを知って驚いた。そして、これまで俺のために尽くしてくれた先生に何か恩返しがしたいと本気で思い短期のアルバイトをやっていたのだ。
だからこそ、先生にはずっと黙っていた。
けど、結果は最悪だった。
先生はワンピースを掴んだまま、目を見開いたまま俺を見つめていた。
が、次第に先生の瞳には涙が浮かび、しまいには頬を伝って流れ始める。
俺は先生を泣かせるためにそんなことをするつもりはなかったのに。
「先生、本当にごめんね……」
そう深々と頭を下げると先生は立ち上がり俺のもとへとおぼつかない足取りで歩み寄ってくると、唐突に俺の顔を自分の胸に押しつけてぎゅっと俺を抱きしめた。
「本当にきみはバカだよ……」
「すみません……」
「私はね、近本くんが私のことを助けてくれただけで感謝してもしきれないんだよ。近本くんがこれ以上、私のために何かしてくれる必要なんて何もないんだよ」
「でも、先生は俺のために炊事とか洗濯とかいろんなことをしてくれているわけだし」
「それはね、あくまで私が近本くんにそうしてあげたいからやっているだけなの」
「でも、それは先生の負担になるじゃないですか」
「近本くん、人間ってのはね、自分のためにならなくても他人のために何かをしてあげたいって思うんだよ。もちろん、近本くんへの恩返しの意味もあるけど、それだけじゃないんだよ」
そう言って先生は俺を抱きしめる力を強める。
「私はまだ先生として未熟だね。私は近本くんに、ちゃんとそのことを教えられていなかったもんね……」
俺は頬に先生の胸を押し当てられながら、先生の胸の暖かさを感じていた。そして、俺は所詮まだ高校生なんだということを痛感する。
「先生は近本くんが、私を住ませてくれるって言ってくれたとき、人間もまだまだ捨てたものじゃないなって思って本当に嬉しかった」
俺は気がつくと涙をポロポロと流していた。
先生の言葉の意味を理解できたからだ。
俺はだから先生に誕生日プレゼントをあげようと思ったのだ。俺は損得感情でしか動かないこんな世界を裏切りたくて、それで、先生を心配させてまでこんなバカなことをしたのだ。
でも、それは俺の勘違いだった。
世界は俺が思っているほど悪くない。
だってこの世界には先生みたいな人もいるからだ。
そんなことにも気づかない自分が情けなかった。
俺と先生はいつまでと抱き合いながらわんわんと子どもみたいに泣き続けた。
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