第8話 G線状のさくら
勉強は基本的に好きではない。
まあ、全国どこの高校生に聞いたとしても、その多くは俺と同じ返答をするだろうが、俺もまたその例に漏れず、勉強は嫌いだ。
特に課題は最悪だ。
学校というやつは何時間も勉強という苦行を無給でさせられているというのに、そこから家に帰ってきても課題を押しつけてくる。
そして、今日もまた俺は課題を持って家に帰ってきた俺は、それをテーブルに広げて渋々ながらも課題に取り掛かる。
が、学校で配られた英語の課題は俺にはちんぷんかんぷんだった。
そう、もちろんその課題を作ったのは俺の同居人で俺の担任、さらに言えば元アイドルの織平さくらだ。
俺は基本的に先生のことは大好きだ。俺は彼女の人柄の良さにも惹かれているし、いくら居候をさせているとはいえ、彼女は炊事洗濯やその他の雑務も完ぺきにこなしていてくれて、それに関しては全く頭が上がらない。
が、先生の出す課題だけは嫌いだ。
もともと英語は全科目の中でもっとも苦手な部類には入るのだが、何より英語の課題は他の科目と比べても圧倒的に量が多いような気がする。
今日の課題も、英語の長文を全て和訳しろというもので、貰った瞬間、反射的に殺意に似た何かを感じた。
そして、その課題を作った女は俺の目の前で、いつものスーツ姿でのん気にお茶を啜っていた。
いつものように先生のワイシャツは少しサイズが合っていないのか、胸の辺りが窮屈そうで、ついに今日は休み時間にちょうど胸のあたりを留めている第三ボタンが、先生の豊満な胸の圧迫によって弾け飛んだらしい。
が、予備のボタンを持ってきていなかったらしく、午後からはボタンの代わりに研修などで使う名札で代わりにワイシャツを留めていた。
正座でお茶を啜る先生の胸には『英語 織平さくら』と書かれた名札が垂れ下がっていて、その姿がなんとも間抜けだ。
「先生……」
「なあに?」
「ここの和訳全然わからないんですけど……」
「そこは今日の授業で教えたよ。私が話したことをよく思い出して頑張って解いてねっ」
と、先生は柔和な笑みで俺を励ましてはくれるものの、具体的にどう和訳すればいいのかまでは教えてくれず、涼しい顔でお茶を啜るだけだ。
「先生、覚えてないってば……」
俺は思わず泣き言を漏らすが先生の表情は変わらない。
さっきからずっとこの調子だ。
「先生だって本当は教えてあげたいよ。近本くんの悲しそうな顔を見ていると私まで悲しくなるし。だけど、近本くんにだけ教えるのはアンフェアだと思うの。だから、一人で頑張ってね」
というありさまだ。まあ、俺のためを思って一人で頑張れと言ってくれているのは重々承知の上だが、それでも英語が苦手な俺には先生のそんな態度はかなり響く。
渋々ながら、教科書を開いて今日習った部分を読み返してみるが、そもそも基礎ができていない俺には応用的な解説を読んだところでちんぷんかんぷんだ。
それでもなお、自分のできる範囲で和訳をしていると、先生が「そこはそうじゃなくて――」と言いかけて慌てて両手で口を覆う。
「もしかして間違えているんですか?」
「え、ええ? そ、それはどうかな……」
と、下手すぎる嘘を吐いてそっぽを向く。
どうやら間違えているらしい。
俺は教科書の初めの方のページを捲って、自分がどこの部分で確認してみるが該当する部分は一向に見つからない。そんな俺を先生は少しもどかしそうに眺めていた。
そして、
「さ、三十五ページ……」
思わずそんな声が漏れる。
「三十五ページを読めばいいんですか?」
「そ、それはどうかな……」
と、今度は下手な口笛を吹いて誤魔化そうとする。
なんだか優しいのか厳しいのかよくわからない。が、先生のヒントを頼りに三十五ページを開いて何とか和訳を続ける。
が、そこが終わったところで結局、次のセンテンスになると、またちんぷんかんぷんになる。
「先生、今、何時ですか?」
「え? 八時だよ?」
「先生、ここの文は何ページですか?」
「そこは、にじゅ――」
と、そこまで言って先生は口をつぐむ。
ちっ……。
「先生、そんな古典的な手にはのらないよ」
「いや、半分のりかかってたでしょ……」
「そ、そんなことないよっ!!」
と、そう言って先生は、ベッドに置かれたファッション誌と枕を手に取る。そして、枕を胸の下に敷いて寝そべるとパラパラとそれを眺め始めた。
どうでもいいけど、先生の大きな胸が枕に潰されて妙にエロい。
先生は足を上下にパタパタさせながら「わぁ……この服可愛いなぁ……」とモデルの着ている服を指を咥えながら眺めている。
どうやら先生の覚悟は本気のようだ。かくなる上は自分で頑張るしかないようだ。
それからどれぐらい時間が経っただろうか、俺が相変わらず超スローペースで合っているのか間違っているのかも分からない和訳を続けていると、不意に先生が「ひゃっ!?」と素っ頓狂な声を上げる。
先生を見やると、先生は雑誌を開いたまま硬直していた。そして何故か先生は雑誌ではなく、その奥の窓を眺めている。
それにつられて俺も窓を見やると、そこには奴がいた。
別にこのボロアパートでは珍しくもなんともない。その小さくて茶色いあいつはしばらく窓にへばりついていたが、不意にカサコソと動き始める。
「きゃああああっ!!」
直後、先生の叫び声が部屋中に響く。そして、先生は今まで見たことのないような機敏な動きで俺のもとへと駆け寄ってくると、俺の腕にしがみついてぶるぶると震えている。
先生が無意識に胸を俺の二の腕に押しつけてくるので、俺も別の意味で声を出しそうになった。
「ち、近本くん、ゴキブリっ!!」
「そうっすね」
「そうっすねじゃないの。ゴキブリだよ。人類最大の敵だよっ!!」
「別に珍しくとも何ともないでしょ。ってか、先生の部屋にも一匹や二匹ぐらい出てたでしょ……」
「う、うちは週に二回バルサム焚いてたから、出なかったもん……」
「いや、どう考えてもやりすぎでしょ……」
「そ、そうだけど……」
と、先生は泣き出しそうな顔で俺を見つめて何かを訴えてくる。
どうやらゴキブリ退治をしてくれということらしい。
まあ、男の俺にとってゴキブリ退治など朝飯前だ。
だが、虫に怯える先生を見ていると、何故だろうか妙に意地悪な感情が湧きあがってくる。
「先生、俺が退治したんじゃ先生のためにならないですよ」
そう言うと先生は目を見開いてブルブルと首を横に振った。
「わ、私無理だよ。昔から虫だけはどうしてもダメなのっ!!」
「これを機に虫嫌いを克服するってのはどうですか?」
そう言うと先生は瞳に涙を浮かべ始める。
「なんで、そんな意地悪なこというの……」
「そうですか? 俺は先生のためを思って言っているんです」
「ねえ、お願い。退治してくれたら先生、近本くんの言うことなんでも聞いてあげるから」
「なんでもですか?」
俺は思わず聞き返す。すると、先生は顔を真っ赤にする。
「な、なんでもって言ってもえっちなのは、なんというかその……先生もまだ心の準備ができていないよ……」
そう言われて、俺はふと先生の淫らな姿を想像して卒倒しそうになったが、今、俺が先生に求めているのはそんなことではない。
「先生」
「な、なに……かな?」
「ゴキブリぐらい俺が退治してあげますよ」
そう言うと先生はほっとしたように柔和な笑みを浮かべる。が、それも束の間次の俺の言葉で再び先生の表情は硬直する。
「その代わり、課題手伝ってくれますよね?」
「そ、それは……ダメだよ……」
「おやおや、さっきよりも歯切れが悪いですね」
「私、近本くんのこと嫌いになっちゃいそうだよ……」
「どうするんですか? お互いにとって悪くない“ディール”だと思いますけど」
「そんなとこだけ、無駄に英語で言わないで……」
先生は俺の腕にしがみつきながら、恐怖の眼差しで窓のゴキブリを眺める。
俺は心底、自分が酷い人間な気がして少し自分が嫌になる。
先生は俺とゴキブリを交互に見やって、人生最大の決断を迫られているようだった。
が、不意に立ち上がる。
「いや、私がこんなところで虫なんかに怯えていたら、生徒たちに顔向けができない。先生、頑張るっ!!」
そう言うと床に放り投げられていたファッション誌を手に取ると、それをクルクルと丸める。
俺にとって予想外の決断だった。
俺は先生を少しだけ見直した。
「先生、頑張ってくださいっ!! 先生の頑張りを見て、俺も課題を何とか自力で頑張りますっ!!」
「うん、先生頑張るよっ!! 先生の頑張りちゃんと見守っていてねっ!!」
「はいっ!!」
先生はぽろぽろと涙を流しながらも、右手に雑誌を振り上げたまま、一歩、また一歩とゴキブリへと歩いていく。そして、何とか手の届きそうな位置まで近寄ると大きく右手を振り上げた。
「先生頑張れっ!!」
俺がそう言うのと同時に先生は振り上げた腕を勢いよく振り下ろした。
が、空振った。
腕が振り下ろされる瞬間にゴキブリがわずかに移動したのだ。しかも最悪なことにゴキブリは自分を殺そうとした先生に怒ったのか、反撃をするように羽を広げると宙を舞って先生目がけて突進していった。
先生の眉間にゴキブリがコツンと頭突きを食らわせると、踵を返して再び窓へと戻った。
「ひゃあああああああああああああっ!!」
先生は大声を上げると再び、俺の方に突進して抱き着いてくるので勢いのあまり、俺は後ろに倒れた。
先生は俺に覆いかぶさるような形で俺を強く抱きしめる。先生の胸が俺の薄い胸板を圧迫して、俺は気が気じゃない。が、先生の方は恐怖で、そんなことを全く気にしていないらしく、俺の身体を力いっぱい抱きしめると俺の耳元で泣き始める。
「ねえ、先生何でも言うこと聞くっ!! だから……だから、あいつを何とかしてっ!!」
その後、俺はものの数秒で奴を退治して何とか事態は収まった。
それから我が家では週に三回バルサムを焚くのがルールになった。
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