ダブルアウト

依田 真

ダブルアウト

 オリンピックイヤーのこの夏、とある都市の体育館の中で、佐々岡シンは水が入ったグラスを慎重に口に運びながら、腹の中で大声で叫んだ。

 ―――国を背負う覚悟、とかいう台詞せりふなんて俺の性分じゃない。そんな期待した目で俺を見るな!


 ダーツという競技が、驚くべき速さで社会に浸透したのは、約四年ほど前のこと。今ではダーツのプロリーグが発足し、ダーツプレイヤーの熱戦が、連日テレビで放送されている。

 最早もはや、幼い子供達は野球選手ではなく『ダーツの一流プレイヤーになる』ことを、頬を紅潮させながら話すのが、この時代ではありふれた一幕となっていた。

 もちろん佐々岡も、このダーツブームに見事に流されてダーツバーに通い詰めた一人だったが、凝り性な性分が幸いしたのか、国内で抜きんでた存在になるまでには、それほど時間はかからなかった。

 ダーツの代表選手として、しかもファイナリストとしてこの場に立っているとは、四年前の自分が聞いたら腹を抱えて笑うことだろう。

 そんな佐々岡が唯一不満に思っていることは、試合中はあまりにも無表情であること。そして、勝利しても喜びを全身で表現することもないその振る舞いから『クランキー・ガイ不機嫌な奴』と付けられたあだ名のほうが、自分の姓よりも浸透しているという点であった。


 飲み干したグラスを粗暴な動作でテーブルに戻し、佐々岡は顔を上げたついでに、辺りを見渡す。

 『JAPAN』と書かれた横断幕が、いろんな場所に飾られている。

『必勝』と書かれた鉢巻きを締めて、誰かがこちらに向かって何やら叫んでいる。

 そして―――、国旗が描かれている小旗。旗が振られるたびに、この場所はオリンピックの競技会場なのだと、佐々岡に自覚させるには十分だった。

 ダーツ男子01ゼロワンシングルス決勝戦。

 ルールはベストオブ35レッグ―――、先に18レッグ取った者が金メダルを手にすることができる。

 対戦相手は『ザ・クール冷静』のニックネームを持つ、ダーツの世界の伝説のプレイヤー、ヒギンスだ。

 佐々岡が奮闘し、17レッグ取ったところで、日本人が金メダルを獲得するところを想像したのだろう。観客からの大声援という名の巨大なかたまりが、佐々岡に直撃した。

 するとこの場の期待を裏切るかのように、佐々岡は一気に調子を崩してしまった。

 精神メンタルを制御できなくなった男のすきを逃すまいとして、ヒギンスはニックネーム通りのダーツプレイを披露した。

 30レッグと31レッグを連続してブレイク。レッグカウントは17対14、佐々岡が一方的に有利な試合だったが、一瞬にして、どちらが勝者になるかわからない展開になった。


 佐々岡は少し苛立ちにも似た、なにやら体が熱くなるような感情を抱いた。

「ここからどうやって立て直せばいいのか………。まずいな、思いつかん」

 ダーツは精神メンタルを制御することが大事とされている競技だ。筋肉が緊張してしまうと、普段通りにテイクバック狙うしたつもりであっても、軌道に若干のずれが生じる。

「これがオリンピック代表の重みかよ、………やばいくらい重すぎる」

 ―――頑張れ! もう少しだ!

 自分の事のように応援している観客の声が耳に届く。

「皆のためにダーツを投げているわけじゃねえ! 頼むから俺一人でダーツをやらせてくれ!」

 苛立ちながらも、この声の主はなんら悪くないということはわかっている。

『勝つ』と、この試合中ずっと思っていたが『勝てる』確信めいた自信がなくなった自分に苛立っているだった。

 もう少しで次のゲームが開始される時間になるが、気持ちの立て直しが出来ていなかった。

「………困ったな」

 まずは気楽に投げてみよう、と、コップの横に置いてあった3本のダーツを再び握りしめて、ダーツボードに向かおうとしたその時だった。

 ―――シン! おい、シン! そこの『クランキー』!

 自分を呼ぶ、ひとこと余計な声が聞こえる。

 「―――ここだ! シン! こっち!」

 大袈裟な身振り手振りをしている一人の男―――、先ほどの『必勝』鉢巻きの男だった。

 顔は白塗り、しかも顔の中央はぐるりと赤い丸が描かれている男と目が合った瞬間、佐々岡は驚愕した。

「………マスター!? なんだ、あの格好は!」

 佐々岡がダーツの世界に足を踏み入れるきっかけとなった、ダーツバーの店主が、別の意味で過激なちとなって、観客席から佐々岡に呼び掛けていた。

 何をしている、何か用か、という想いを目に込めてマスターの口元を見つめる。

 ―――ぬるいんだよ!

「ここで売られてるビールがよお、ぬるくて飲めたもんじゃないんだ! おい、シン! さっさと俺の店に行って乾杯しようぜ!」

 この突拍子もない会話に一瞬ぎょっとしたような顔を佐々岡は見せると、げらげらと笑った。すると、佐々岡を励ますために鳴り響いていた声量が一瞬弱まる。急に笑い出した男の様子をうかがっているからだ。

 

 ―――あの親父、気になっているのは俺じゃなくて、ビールの温度かよ!

 あまりにも馬鹿げた会話だったので、心の中で指摘するも思わず笑ってしまった。


『32レッグズ。佐々岡、トゥースロゥ、ファースト。ゲーム、オン!』

 ここで試合再開のブザーと同時に、審判コーラーのアナウンスが流れた。

 佐々岡が先攻で試合再開。

 二人のファイナリストはダーツボードへと足を進める。

 佐々岡は、マスターの顔を再確認し、ふん、と鼻で笑いながらダーツを持っている腕を軽く曲げて見せる。

 ―――あぁ、終わらせてやるさ。そして『ただ酒』で乾杯だ。


『さあ、ダーツ男子シングルス決勝戦も、いよいよ大詰め! 佐々岡対ヒギンスの試合再開です。終盤に、調子を一気に上げてきたヒギンスと、最後までこの勢いを維持できるか、佐々岡!』

 ―――みたいなことを実況席では話してるんだろうな。

 ダーツボードをまっすぐ見据えてセットアップ。構える

 T2020トリプル

 縦1cmセンチメートル程度しかない、その狭いエリアに向けてテイクバック狙いをつける

 視線はT20から外さない。狙ったところを見ながらリリース投げる

 投げ終わった後のフォロースルー腕の伸びを確認。

 フローリングを伸びた爪で軽く鳴らしたような、耳に心地よい音と共に、投げたダーツは、ボード内のT20のエリアに刺さる。この動作を3回、繰り返して1ラウンド終了。審判コーラーが、いま獲得した点数を読み上げる。

180!ワン・ハンドレッド・エイティ

 会場は拍手や口笛などの『鳴り物』で盛り上がる。佐々岡の次はヒギンスのラウンド。落ち着いた動作でダーツを3投する。

140ワン・ハンドレッド・フォーティ


『1ラウンド終了! 佐々岡は残り321、ヒギンス、残り361。いきなり佐々岡がトン・エイティ最高得点を出して順調な滑り出しを見せました! つぎの2ラウンドも、この歓声が後押しとなるか、注目です!』

 2ラウンド。

 ダーツボードの前でセットアップを行っていた佐々岡は、空気が少しひんやりするような、それでいて、体の芯が、みぞおち辺りにあるような感覚を覚えていた。

 ―――俺、知ってる。この感覚の時って………


 会場が『鳴り物』一点張りから、大声援に変わった。

180!ワン・ハンドレッド・エイティ

 ヒギンスも負けてはいない。

141ワン・ハンドレッド・フォーティワン


『佐々岡が魅せました! 残り141! 追うヒギンス、残り220! オリンピックという大舞台の中、佐々岡が奮闘! これは………、これはもう、期待していいんじゃないでしょうか!? ナインダーツ完全試合を!』


 ダーツの01ゼロワンゲームである501は、最短だと九投で勝つことができる。1ラウンド、2ラウンド共にT20にダーツが入って、残り141にする。そして3ラウンドで、T20、T19と入れて、残り24。そして最後にダブルアウト―――、D1212ダブルで残り0点にしたら勝利。

 幅わずか1cmくらいのエリアに入れ続けなければいけないのだから、並大抵のことじゃない。

『一流プレイヤーでも滅多に出すことのできないパーフェクトゲームを、オリンピックのこの地で! 期待しましょう!』


 会場内の様子は、お世辞にも熱心に両選手を応援しているとは言えなかった。地方の祭りで馬鹿騒ぎしているような下品な盛り上がり方だ。

 3ラウンドが開始されると、佐々岡はボードの前に立った。

 表情は―――、その不機嫌な表情は、いつもと変わらない。


 1投目。テイクバックからのリリース。

 ダーツは綺麗な軌道を描いてT20に入った。残り81点。

 地鳴りのような歓声。その声が収まる前に、2投目のセットアップに入る。いつも立っている位置より2cmほど左に移動する。

 佐々岡の腕から2投目のダーツがリリースされた。ダーツはT19に見事に入った。

 英単語の『YES』の発音に似たような―――、ここにいる皆が一斉に『YES!』と大きな声で叫んだような声援が聞こえる。

 あと24点―――、D12のダブルアウトで決まる。

『さあ、佐々岡! オリンピック史上初のナインダーツを成し遂げることができるのか!? あと1投、12のダブルにダーツが入れば佐々岡、金メダルです!』


『………いつもより時間をかけて立ち位置を確認していますね。佐々岡の今の感情は、その表情からは読み取れません。さあ、セットアップ完了! ダブルアウトできるか―――、どうだ!』



 そこから先のことは、あまり覚えていない。後で録画を視ればいい―――、佐々岡は、そう思っていた。

 D12にダーツが入った瞬間、ヒギンスから握手を求められたので握手をしたが「おい、もっと笑顔を出せよ。ここにいる皆が、お前を称えてたたいるんだぜ? 応える義務があるだろう?」というアドバイスを受け、精一杯の笑顔で観客に応えたこと。

『今いちばんやりたい事は何ですか?』の質問に対して忖度そんたくせずに『ビールが飲みたいですね。マスターの奢りで』と答えてしまったこと。


 ―――そして、佐々岡という人間に対して世間の見方が変わったこと。

クランキー不機嫌』から『ファニーひょうきん』へ―――、新聞に書かれた新しいあだ名を見て、顔を紅白に塗りたくるよりはセンスがあるなと、馴染みのバーのマスターと、笑い合った。


















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