第1話

「行ってきまーす」


少年の言葉に対し、二人の女性が反応する。

一人は少年と年が離れてはいるもののまだまだ若いであろう女性。

そしてもう一人は、女性というには若すぎる少女だった。

三人は家族である。


「いってらっしゃい、ウィル」


「お兄ちゃん、早く帰ってきてね」


ウィルと呼ばれた少年は、眠たいのか目をこすりながらも、家を後にする。


「そうよ。この前みたいに遅くなったら駄目よ。今日は雨が降りそうだし」


念には念をと注意する母親に、「わかってる」という意味を込めて少年は手をひらひらとふる。



ウィルと呼ばれていた少年は、母と妹、三人で山奥に暮らしている。


そしてこれはウィルの日課の一つ、薪拾いである。


父親がいないウィルの家では、力仕事は彼に任される。

だからと言ってウィルはいやいややっているわけではない。

ウィル自身、家事全般をやってくれている母親や、体の弱い妹のために、常日頃からお手伝いは率先してやっていた。



しかし、薪拾いは六歳の少年には少し無理がある仕事でもある。


勿論、薪を割るどころか、斧を扱うこともできないので、折れた枝を集めて乾燥させるだけであるが、それもそれで拾うのに時間がかかり面倒なのである。


最近は体の調子が良くなってきていた妹が、健康維持のため散歩がてらついてきていたので、億劫な気持ちも少しましだったが、数日前に妹が体調を崩してしまったため、また一人に戻ってしまった。



ウィルの妹のリリィは病弱であった。

昔は今以上に体が弱く、ひどいときは数日間寝たきりになることもあった。しかし家は森の奥にあるので、医者に診てもらうことができず、母とウィルは心配するほかなかった。

そのためか、最近ではあの明るかった笑顔も見なくなっていた。

しかし、ただ家族に迷惑をかけているわけではなく、リリィはとても賢かった。

落ち着いた性格のためか周りがよく見えているのだろう。

ウィルや母が気づかなかったことに気づき、ウィルたちを救ったことも少なくない。



そして今日も一日が始まる。



薪拾いも慣れたものだとウィルは思う。

始めは母と行っていたものの、今ではひとりで行けて迷うこともない。

それでもこの仕事が好きになることはなかった。


そのため、ウィルはいろいろ考えた。どうすれば楽に集められるかと。

その一つが「ぐるぐる拾い‼」だった。名の通り、家の周りを回って拾う方法であり、これはリリィのアドバイスをもとにウィルが作ったのだが、とても効率がよかった。

家を中心に円を描くようにして拾って行くので、すべての枝を拾うことができる。

また、右周りなら右、左周りなら左を向けばいつだって家があるので迷う心配もない。

しかしこれにも欠点がある。毎日、同じところを通ることになるので、日に日に遠くまで行かなくてはいけない。雨が降った翌日などはいいのだが。


今日は雨が降りそうなので明日は楽かもしれないが、近ごろは雨が降っていないので、今日も遠くまで行く必要がある。

そう考えていると、ため息が漏れた。



空が灰色に染まり、生暖かい風が通り過ぎる。


「はやくしないと」


家に周り数十メートルは開けてはいるものの、三十メートルもすればそこはもう森の中だ。

春の心地よい日だと緑が生い茂るさわやかな空間だが、今日のような天気の日に入ると、森は薄暗く不気味な世界へと一変する。

しっとりとした薄暗い世界に響き渡る動物たちの声が、ウィルの背中に冷たい汗をかかす。

それでも足が進むのは慣れのおかげなのだろう。

十分くらい歩いただろうか、昨日の最終地点まできた。

だいぶ奥のほうにまで来たようで、家の方向はわかるものの、もう家は見えない。


少し急ぎ気味で薪拾いをはじめる。

今日も少し進行方向を右にしながら進む。

雨が近いからか、風が夜明け前から強く吹いていたため、思った以上に枝が落ちていた。

「ここまで奥に来なくても済んだかもしれないのに」

そう思いながらも、早く終わりそうなので少し気が楽になった。

薪拾いも終盤に差し掛かったころ、雨特有の生暖かい風に乗って、森の奥のほうから何やら奇妙なにおいが漂ってくる。

今まで嗅いだことのないにおいだが、どこか自分を引き寄せるようなにおいで、ウィルはそのにおいにつられ、不覚にも森の奥に足を踏み入れてしまった。




三分ほど進み少し開けた場所に出る。


雨のにおいのせいで少しにおいを辿るのに時間がかかってしまった。


だがにおいを見失うことはなかったはずだ。


しかしそこにあったのは、野犬の死骸。


腸がきれいに食いちぎられ、周りの草木に血が飛び散っている。

食われてからまだそれほど経っていないのだろうか、微量ではあるがまだ鮮やかな血が垂れていた。

ウィルはその光景による吐き気に襲われるとともに、頭が真っ白になる。


しかしそうもしてられない。


止まった思考が再び動き出す。


恐怖の波が押し寄せてくる。


遠くから、背後から声が聞こえる。人の声。人の悲鳴だ。


想像が恐怖を際立だせる。


恐ろしい想像に終わりはなかった。


得体の知らない何かに押しつぶされそうになるのをぐっと堪える。


身体の震えを押し殺し、家に向かって全力で走り出す。


躓きながらも走り続ける。擦り傷など関係なかった。ただただ走り続ける。


早くしないと嫌なことが起こる気がした。


早くしないと取り返しのつかないことが起こる気がした。


そしてそれは現実となる———。





五分くらい走り続けただろうか。

驚くことに疲れはほとんど感じなかった。


やっと視界に小さくだが、わが家が現れる。


家に近づくにつれ覚えのある匂いが漂ってくる。


さっき初めて知ったにおい。


吐き気を覚える臭い。


そして、僕の理性を貪る匂い。 


僕はこの匂いの正体を知っている。


そう、これは『血』の匂いだ。




———僕は家に帰ってきた。


何の変哲もない、いつもの我が家。


木造の小さな我が家。


今朝も、家族に見送られ後にした我が家。


しかし、しかし辺りのにおいだけは違っていた。


ウィルは恐る恐る家の扉を開け、家に入る。


確実に、家族ではない誰かがいる。


明かりのない木造の我が家は、昼間だというのに薄暗い。


冷えた床が、いつも以上に大きく聞こえる歩く音が、そして恐怖が、ウィルの体を震え上がらせた。


部屋に近づくつれ、血の匂いも濃くなる。


部屋の前までやってきた。


しかし、手が動かない。


この扉の向こうにはいつもの楽しげな日常が待っているはずだ。


この扉の向こうには母が妹が、家族が待っているはずだ。


この扉の向こうには……。


それでも手は動かない。


部屋の中からは、音が聞こえる。


バキ、クチャクチャ

バキバキ、クチャクチャクチャ

バキ、クチャクチャクチャ、バキバキ

咀嚼音。



いつの間にか扉は開いていた。


この密閉された空間には、血の匂いが充満しており、頭痛を引き起こす。


「あ……」


思わず声を上げてしまう。



そこには真っ赤に染まった日常が広がっていた。

そしてその奥には———、母と、妹を食べる巨体の男が二人。

否、男に見えるが、その食べ方は獣そのものだった。


二人と目が合う。

が、すぐに逸らす。

気づかなかったのだろうか。

いや、興味がないだけなのかもしれない。

こちらを向いた眼は再びそれに戻る。


そして———、

ブチブチッ、バキッ

クチャクチャクチャ、バキッ

バキッ、クチャクチャ、ブチッ


何もできない。


もう、どうしようもない。


この状況を作った自分に苛立ちを覚える。


「……ウィ、ウィル…?」


微かだが声が聞こえた。


母の声。


最後の力を振り絞ったような弱弱しくも強い声。


「逃げて……」


母は生きていた。そして、生きながら食われている。


「…母さん……?」


理解しきれない状況に頭を抱える。


バキッ


血というものは思いのほかよく飛ぶようだ。


母の折れた足から飛び出した鮮血は、血飛沫となりウィルの足から頭をなぞる。


口の中に、鉄のような生々しい味が広がる。


家族が失われる光景を前に何もできない自分に苛立ちを覚える。


苛立ちが、悲しみが、怒りが沸き上がる。


身体が熱い。

激しい目眩に襲われる。

鼓動とともに締め付けられるような頭痛。

血によって染め上げられた視界が、焦点を失い辺りを彷徨う。



「母さんを…リリィを、返してよ……」

喉の奥から声を絞り出す。


奴らは手を止めようとしない。


変化が起きるはずもない状況に怒る。


「…みんなを……返せ‼」


怒りに任せ、たまりにたまった思いを叫びだす。


プツンッ


そして、意識が途切れる。






鬱蒼とした森の中に、低く重たい断末魔が響き渡った。

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