夜色 — よるいろ —

宮杜 有天

夜色

 ガラス一枚隔てた向こうは、ひたすら闇の支配する世界だった。抗うように光の点が見えるがそれも僅か。田舎の夜はまだまだ闇が強く、街のように光が溢れることもない。

 その光の中に一瞬、人影が浮かんだような気がして僕は流れていく光のかけらを目で追った。街灯か何かの下を歩いている奴でもいたのだろう。こちらをまっすぐに見ていたような気もする。

 それがどんな人間だったかを思い起こす暇もなく、また闇が目の前を覆った。

 それは夜色よるいろの景色だ。

 夜色の中をこの電車がいくら進もうとも決して抜けられない。どこにもたどり着けない。


 そんな錯覚にとらわれて、僕は車内に視線を戻した。

 夜の侵食を恐れるかのように明るい車内はとても静かだ。電車が走っていることの証であるあの「ガタンゴトン」という規則的な音も、この静寂を邪魔することはない。

 むしろこの音があるからこそ、車内という閉じられた空間が静かであることを思い知らされる。


 空席が目立つほど乗客はまばらだった。

 ヘッドフォンをして音楽を聞いている大学生に、スマートフォンをひたすら操作している女子高校生。文庫を読んでいるサラリーマンに、俯いて寝ているOL。みなそれぞれの世界に入っている。一人でいることが当たり前であるかのように。

 乗車口の横の二人席に陣取っている僕のことを、誰も気にする事はない。もちろん僕も他人を気にしない。

 この電車は快速だから簡単に駅に止まったりもしない。降りる人もいなければ、乗って来る人もいない。


 ここは僕にとって一つの閉じた世界だった。停滞した世界。

 人嫌いのくせに寂しがりやの僕が落ち着ける、数少ない場所がこの快速電車だった。これに乗っていれば何もかも忘れられる。仕事のごたごたも、家族のことも。恋人のことさえも。

 僕と社会を繋ぐ全てのものから遮断してくれる。そのくせ人の姿が見える場所。

 ここは夜色の景色に包まれた、つかの間の楽園だ。


 全てがどうでも良くなる時というものが僕にはあった。今がその時だ。

 世の中のすべてに対して無気力になるのだ。仕事には向かうが、それも惰性でこなしているに過ぎない。

 休日ともなれば彼女と会うことすら億劫になり、部屋にこもりっきりになる。そしてなにもすることなく一日を終えるのだ。

 よく災害にあった場合、生きようという意志の強い人間ほど長く耐えられる。けど、その意志の弱い人間は弱るのも早いと言われる。今の僕は間違いなく後者だ。

 今ならどんなに素早い救助でも間に合わない自信がある。

 諦めにも似た倦怠感が常に僕につきまとう。いや、実際に生きることを含むすべてを諦めているかもしれない。

 これを僕は諦感期ていかんきと呼んでいた。諦めしか感じない時期。ちょっとした言葉遊びだ。

 「諦観」と違い、悟っているわけでもなく、ただひたすら諦めしか感じない。

 ネットで「諦感」と検索しても「諦観」しか出てこない所をみると、たぶんこんな言葉はないのだろう。でも当てられた漢字がこの時期の僕に似合っているような気がして僕は気に入っていた。


 眠気を覚えて僕は目を閉じ、頭を窓に預けた。ガラスにのめり込んでしまうような重さが後頭部に生まれる。そのままどこかに落ちていくような感覚。なんだか妙に疲れている。今日は朝からそうだった。

 今朝は本当に辛かった。充分な睡眠を取ったにも関わらず、朝起きたときに体が妙に重い。これが諦感期の始まりだ。

 本当は仕事にも行きたくなかった。特に今日は仕事の山場を越えたばかりで、暇になる日だったからだ。諦感期の時に仕事が暇なことほどつらいこともない。雑用ですら身が入らない。今日は本当に……。


 僕はふと目を開けた。今日、僕は仕事に行ったのか? 一日を振り返ろうとして、会社に行った記憶がないことに気づく。

 だが、会社に行かなければこの電車に乗っていないはずだった。これはいつも帰りに乗っている電車なのだから。

 朝、起きたのは覚えている。鬱屈としながら家を出たのも覚えている。駅でいつもの電車を待っていたのも。だが、そこから何も覚えてない。

 ……いやまさか、そんな。多分疲れているだけだ。きっと、何も思い出したくないくらい疲れているのだ。そう、なにもかもどうでもいいくらいに。何せ今は諦感期なんだから。

 僕は、再び目を閉じた。


     ☆


 僕は夜色の中を歩いていた。線路沿いの、すっかり古くなってひび割れてしまったアスファルトの上を、とぼとぼと歩いていた。頼りない街灯が道の一部を照らし続けている。

 歩いている僕は、まだ大学生だった。

 これは夢だ。そして十年近く昔の記憶だ。


 なぜ、歩いているのかは思い出せない。随分と遅い時刻だったのを覚えている。日付が変わるほどの時刻だったはずだ。大学に入って半年が過ぎ、新しい友達も彼女もできて本当に楽しかった時期の記憶だろう。

 今ではすっかり人嫌いになってしまったが、この頃は友達も多くよくつるんで遊んでいたものだった。

 だからこれは多分、その帰り道なんだろう。


 夢特有の理不尽さで、僕は昔の自分が歩いている様を、テレビドラマを撮影するカメラのアングルで見ることができた。

 歩いている僕は、疲れたような、でも満足そうな表情で歩いている。今では考えられないような晴れやかな表情だった。

 このころは希望に満ちていた。色んな未来を思い描いていた。

 今とは大違いだ。

 今の僕は希望なんか捨てていた。ただなんとなく仕事に行って、なんとなく帰ってきて。そんな日々の連続だ。それ以外に何もする気が起きない。このときに築いた僅かばかりの人間関係にしがみつきながらもそれを鬱陶しく感じている、矛盾した人間だ。

 諦感期でなくとも、基本的に僕は無気力だった。


 いつからこうなってしまったのだろう。

 一度、就職に失敗したときからだろうか?

 それは当たっているような気がするし、でも違うような気がする。

 大学生の僕は相変わらず歩いている。時々空を見上げ、星と月を眺めていた。

 静かな夜だった。

 と、その静けさを打ち破るように「ガタンゴトン」という規則的な音が聞こえてきた。

 僕は視線を線路に移した。遠くにポツンと明かりが見える。電車のライトだ。田舎の路線をこんな時刻に走るのは、貨物列車か寝台特急ぐらいだろう。

 やがて光は近づいて来て、電車の車体を僕の前に見せた。


 予想に反して電車は普通の車両だった。窓からまばゆいばかりの光を漏らし、夜色の中を我が者顔で走り続ける。

 車内には僅かばかりの乗客。それだけならなにもおかしなところはない。こんな深夜に走る電車で乗客ま満員などと言うことは、そうそうあるものではない。

 だが、妙な違和感を僕は感じていた。


 ヘッドフォンをして音楽を聞いている大学生に、スマートフォンをひたすら操作している女子高校生。文庫を読んでいるサラリーマンに、俯いて寝ているOL。ここまではいい。

 しかし母親らしき女性と、その側で窓から外を覗く小学生くらいの子供を見たとき、違和感は不安へと変わった。

 とても深夜の乗客にふさわしいとは思えなかった。僕はいったい、何を見ているのだろうか? こんなものを見た記憶はない。だとしたら、この夢は何を見せているのか。

 電車が通り過ぎようとするその瞬間、大学生の僕は見た。

 乗車口の横の、二人席に陣取って外を見ている男の姿を。

 あれは――


     ☆


 どれくらい寝ていたのか、目の前に人の気配を感じて目をあけた。ずいぶんと寝ていたような気がするのに一向に駅に着く様子がない。


「切符か定期券を拝見できますか?」


 車掌だった。不健康そうな顔色をした中年の車掌が、僕を見下ろしていた。

 僕は訝しんだ。この時間の電車で切符の確認をされたことなど、ただの一度もなかったからだ。


「切符か定期券を拝見できますか?」


 顔色に負けず劣らずの、陰気な声で車掌が言う。僕は逡巡したが、素直に定期を出すことにした。車掌が定期を確認しようがしまいが、僕にとってどうでも良いことなのだ。

 車掌は僕が定期を差し出すと、意外そうな顔で受け取った。キセルをしているとでも思ったのだろうか。だとしたら随分と失礼なやつだ。

 だが続く車掌の言葉は、僕にとって意外なものだった。


「ほう、間に合ってしまったのですね」

 車掌の顔に陰気な笑顔が浮かんだ。それは泣き笑いのようにも見えた。

「間に合った?」


 定期を受け取りながら、僕は思わず声を出していた。間に合うもなにも、僕は電車に乗っている。間に合っていないのならそもそもこの車掌に定期券を見せているはずがない。おかしなことを言う車掌だ。

 そんな思いが顔にでたのだろうか、車掌は陰湿な笑顔を張り付けたまま言葉を続けた。


「何かの間違いで乗ろうとされる方が、まれにいらしゃるのですよ。そういう方はたいてい間に合いません」


 何を言っているのだろうか。僕が乗る電車を間違うわけがない。

 新手のいたずらだろうか。僕は無視を決め込むことにした。再び眠ろうと定期をスーツの内ポケットに入れ……ようとして手が止まった。

 僕は納めようとした定期をもう一度引っ張り出して、まじまじと見つめる。


「これは……」


 僕は車掌を睨んだ。やはり新手のいたずららしい。僕の定期には駅が一つしか書いてなかった。いつも朝に乗る駅だけしか。

 双方向の矢印の先に、駅名はない。おまけに日付も変だ。定期の開始の日付は三月一日で今日。だが、僕がこの定期を買ったのは、二ヶ月前のはずだ。肝心の期限は書いてなかった。

 僕が睨んだ理由を理解しているのか、彼は肩をすくめた。陰気な笑顔は引っ込んでいたが、無表情であることが逆に馬鹿にされているような気がして、僕はむっとした。


「返してもらえませんか?」


 やや強い調子で、僕は言った。この車掌が僕の定期をすり替えたのだ。でなければ、何事もなく定期を返してくるはずはない。


「何をですか?」

 車掌は相変わらずの無表情で言う。

「とぼけないでください! 僕の定期です!」

 僕は立ち上がり、思わず叫んだ。乗客が一斉に僕の方を見た。

「定期なら、返したじゃないですか」

「これがですか!」


 定期を車掌の前に突きつけた。そしてこのいたずらをしかけた車掌を糾弾するために周りの乗客を味方につけようと、僕は辺りを見回した。

 だが僕の口からは、車掌を非難する言葉は続かなかった。僕を見るみんなの視線に言葉を遮られたのだ。

 みんなは哀れむような視線を僕に向けていた。それは、いたずらに引っかかった者に対する同情なんかではなく、もっと深く悲しい同情だった。


「思い出せませんか?」

「なにを……」


 言っているんだ、こいつは。確かに僕は今日一日のことを覚えていない。だが、それをこんな見ず知らずの人間に指摘されるいわれはない。なにより、定期券がすり替えられたことと記憶が曖昧なこととはなんの関係もないはずだ。


「今朝のことですよ」


 いつのまにか車掌の顔が目の前にあった。不健康そうな顔色をしていると思った車掌の顔は血色が悪く、体温などないかのように青白かった。触れれば冷たいと確信できるほどの青白さだ。


「本当に思い出せませんか?」


 車掌の声が囁きに変わる。しかし驚くほどはっきりと僕の耳に届く。届いた声すらも冷たく感じる。

 車内の温度が下がったような気がして、僕は身を震わせた。


「あなたは駅にいたんです。いつもの電車に乗るために」


 そう、そこまでは覚えている。朝、起きたのは覚えている。鬱屈としながら家を出たのも覚えている。駅でいつもの電車を待っていたのも……。

 だが、そこから何も覚えてない。まるでそこで眠ってしまったかのように覚えていないのだ。

 次にある記憶は、この電車の中から外の景色を眺めていたところだ。その間の記憶がない。


 その前の日のことは……覚えている。仕事の山場を越え、残業疲れて家に着いた。彼女からの電話を手早く切り上げようとして喧嘩になったのも覚えている。なのになぜ、今日のことを覚えていないのか?


「あなたはいつもの電車に乗れましたか?」


 車掌の囁きは続く。周囲の温度がどんどん下がっていく。

 乗ったはずだ。会社行かなければこの時間に、この電車に乗っていないのだから。

 この時間? そう言えば、今は何時なのだろうか? 随分と電車に乗っている気がするのに、一向に降りるべき駅に着かない。それどころか途中の駅すら通り過ぎない。

 僕は違和感を感じて腕時計を見た。

「!」

 時計のガラスはなぜかひび割れていた。針は七時十五分で止まっている。

 七時十五分……それは僕がいつも朝に乗る電車の到着時刻だ。


「よく思い出してください。本当にあなたはいつもの電車に乗れましたか?」

「僕は……」

 僕はいつもと同じ電車に――

「乗れなかった」

「そうです。あなたは乗らなかった」


 思い出した。そうだ、僕は駅にいた。電車を待ちながら、今日一日の始まりを呪っていた。世間を呪い、家族を呪い、友達を呪い、恋人を呪い、何より自分を呪った。

 今までの諦感期の中で一番ひどい朝だった。本当に全てがどうでもよくなっていたのだ。

 そして僕は――


「代わりにこの電車へ〝飛び込み乗車〟されたのですよ」


 飛び込んだのだ。

 そしてもう一つ、僕は思いだした。

 夢の中で見たものを。いや、僕が大学生のときに見た奇妙な電車のことを。

 友達と遊んだ帰り道、終電を乗り過ごした僕は、無謀にも七キロ以上離れた駅まで歩こうとしていた。

 そして線路沿いの道をとぼとぼ歩く僕の横を、走らないはずの普通電車が走ったのだ。

 その電車に僕は乗っていた。今と同じ乗車口の横の二人席に陣取って外を見ていた。

 あのとき、大学生の僕は十年後の自分を見たのだ。

 それが何を意味するのか分からない。ただ一つ言えることは、僕は死んだのだ。


「残念ながら、あなたは間に合ってしまわれたのです。もう降りることはできません。あなたには止まる駅がないのですから」


 車掌の囁き声は、僕の中に染み込んでくる。冷たい声が僕の体温を奪う。

 もう降りれない? 止まらない? ずっと? 永遠に?

 ズットコノバショニイルノ?


「ふふふ、あはははは」

 僕は笑った。心の底から笑った。そして自分でも驚くほど、晴れ晴れとした声でしゃべった。

「そうですか。それは、すばらしい!」


 車掌の底冷えするような声とは裏腹に、僕の中に言いしれない喜びが沸き上がっていた。

 この場所にずっといられるのだ。僕が愛してやまない、この閉じた世界に。僕の楽園に。

 車掌は少しだけ驚いた顔をしたが、それもすぐに引っ込めた。


「では、ごゆっくり」


 そう言うと、車掌は去って行った。他の乗客も、ひとりまたひとりと自分たちの世界へと浸り始める。何事もなかったかのように以前の風景が戻ってくる。


     ☆


 ガラス一枚隔てた向こうは、ひたすら闇の支配する世界だった。抗うように光の点が見えるがそれも僅か。

 それは夜色の景色だ。

 夜色の中をこの電車がいくら進もうとも決して抜けられない。どこにもたどり着けない。

 乗車口の横の二人席に陣取っている僕のことを、誰も気にする事はない。もちろん僕も他人を気にしない。

 この電車は駅に止まったりしない。降りる人もいなければ、乗って来る人も――ほとんど――いない。


 死者を乗せた列車は夜空を駆け上がり銀河を目指す。昔にそんな話を読んだような気がする。だが、この列車は空へはのぼらない。ただひたすら夜色の中を走り続けるのみだ。

 ここは、僕にとって一つの閉じた世界だった。停滞した世界。

 そして夜色よるいろの景色に包まれた、永遠の楽園。



        了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜色 — よるいろ — 宮杜 有天 @kutou10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ