虚の箱
カガ
第1話
深い緑の上を、黒板消しが左へと滑っていく。その動きに合わせて、白色の文字たちが伸ばされ薄い帯になって後を追った。
それを何度も繰り返して往復したころ、黒板はようやく綺麗になった。最後の仕上げに「日直」という文字の下の名字を消し、ふうと一息つく。
開いた窓の向こう、すっかりオレンジ色に染められた校庭からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。戸締りも日直の仕事だ。時折聞こえてくる明るい笑い声を聞きながら、サッシを滑らせ簡素な鍵をかける。さあ帰ろうと荷物を取り上げようとした時だった。
コンコン。
軽い音がして、ふと顔を上げる。決して大きな音ではなかった。ぴったりと閉められた教室のドアを見る。教卓側も、後側にも人が立っている気配はなかった。ドアの小窓には影すら映っておらず、聞き間違いかと荷物を取り上げる。
コンコン、とまた音がした。今度こそ聞き間違いではない。誰かいるのだろうかと思い、はい、と声を上げる。けれども返事はなく、再び軽いノックの音がした。なぜ入ってこないのかと疑問に思ったところで、1つの可能性に思い当たった。
——まさか、不審者では。
中に人がいるのか確かめていたのだったらどうしよう。今自分は返事をしてしまったのではなかったか、と血の気が引いた。息を潜めて隠れるべきか、それとももう返事をしてしまったのだから、走って逃げるべきだろうか?
そこまで思案したところで、突然、ノック音がバシンという激しい音に変化した。簡単な作りのドアがカタカタと小さく揺れ、向こうにいる人物が激しく何かを叩きつけたのだとわかった。
それを理解した途端、音がしているのとは反対の方へと走り出していた。相手は中に私がいることがわかっているのだという恐怖で体が動き、力任せにドアを開ける。廊下に飛び出し、そして反射で後ろを向き——そのまま立ち尽くした。
教室の前には誰もいなかった。
それどころか、廊下そのものに人の姿は見当たらず、音もなく静まり返っていた。
「以上がこの学校の七不思議の1つ『2-Bのノック音』なんだよねぇ」
跳ねるような声が教室に響く。声の主は得意げな表情でこちらを見ていた。どう思う、飯島くん、と言葉を続けて、彼女は隣から覗き込むように俺を見た。
「……ええと……」
不意のことで言葉に詰まる。
「それは、ノックの音がするだけなの?」
目の前の席に座っている、赤いスカーフの――つまり、一つ上の先輩だ――が、助け舟なのか、微笑みながら言葉を発する。
「扉の外にいる音の主に出くわすと呪われる、って噂もあるよ」
その現象に出くわして無事かどうかは運の問題、ということだろうか。
その時、窓の外から、わあっという歓声が聞こえた。今自分が座っている席は窓際である。少し振り返って首を伸ばして覗けば、拍手とともに人が校庭の中心に集まっているのが見えた。大方、運動部が試合か何かをしていたのだろう。西日が目に飛び込んだ。慌てて首を元に戻す。
「それで、」
戻した流れで、二人に声をかける。
「その『2−Bのノック音』について検証しようってことになったんですか?」
先輩たちは二人して、その通りだと嬉しそうに頷いた。そうですか、と頷き返して、俺はくっつけられた三つの机、その中央に立てられた簡素な筒に視線を落とす。
『オカルト同好会』
そこには黒マジックでそう書かれていた。――俺たちが所属する部活の名前だ。
所属人数は現在俺を含めて三人であり、そのうち二年生が二人、一年生が俺一人という内訳になっている。二年生の二人——正面の落ち着いた雰囲気の人が部長の速水 椿部長、隣の元気な人が中野 真菜先輩だ。
速水部長によると、同好会という名前の通り、学校で正式な部活動として認められていないらしい。
「きみが入るまで中野さんと二人きりだったんだから、当然よね」
というのが彼女の談なのだが、オカルト同好会という怪しげな名前に加え、活動実績も何もここの活動は「怖い話をして駄弁る」というもので、それで部活として認めてもらうには無理があるんじゃないかと思う。けれどその二人に一人加わり三人になったということで、なにかそれらしい活動が必要だということになったらしく、まずは七不思議だと二人は至り、更にそれを検証、という結論になったようだ。しかもそのために、わざわざ普段活動しているのとは違う、噂の教室を勝手に活動場所として使わせてもらっているらしい。
「……でも俺、そういうの、遭遇したことないんですけど……」
遭遇したことがあっても困るが、俺には霊を見たとか、不思議な体験をした、ということが一切ない。多くの人がそうなのだろうと思うが、そういうものが本当に存在するのなら、「霊感」というものがないのだと思う。
「大丈夫、あたし達はあるから!」
中野先輩が胸を張る。何が大丈夫なのだろう。この部活の怪しさについてだけれど、先輩たちの「自分たちは霊感がある」という主張も大きな要素になっているんじゃないだろうか。
『オカルト同好会』は元々、「見える」二人が意気投合して立ち上げたものなのだという。
「さて、じゃあそろそろ始めましょうか」
放課後の2−Bで扉も窓も全て閉めた状態にしておくと『ノック音』は起きる、という噂だ。いよいよということになって、窓が閉められ、外からの声がほとんど聞こえなくなった。
しん、と教室が静まり返る。普段はおしゃべりな中野先輩も、一切の音を聞き逃すまいと真剣な顔をして口を結び、扉をじっと睨んでいた。
俺は黒板の上、壁に取り付けられた時計を見ていた。――五分、八分……先輩たちはどれだけ待つつもりなのだろうか、と思ったとき、
コンコン。
軽い音が、教室の中に響いた。
その瞬間の中野先輩の動きは速かった。そういえば運動は得意だと言っていた気がする。そんなことを考えていると、扉の窓部分にゆらりと暗い影が差した。誰かいる。
声を上げる間もなく、出入口へと辿り着いた先輩がものすごい勢いで扉を開けた。
「うわっ……!」
悲鳴が上がる。先輩のではなく、開け放たれた扉の向こう側、つまり廊下に立っていた男子生徒のものだった。彼はうろたえた様子で半歩後ろに下がる。その上履きに描かれた線の色は青色をしていた。つまり、俺と同じ一年生だろう。
「あ、その、すみません……!」
中野先輩は何か言おうとしたようだったが、その前に見知らぬ男子生徒は慌てたように立ち去ってしまった。パタパタという足音が遠ざかっていく。
「うーん、悪いことしちゃったなあ。あたし絶対『誰?』みたいな顔してたよ……」
トボトボと戻ってくる中野先輩はため息をついた上に肩を落としていた。たぶん、その落ち込みようはどちらかというと男子生徒に「悪いことをしてしまった」より、ノックの音が怪異によるものではなく、あの彼によるものだったことの方が大きい気がする。
「残念だったわね」
その様子が面白いのか、速水部長の声は少し上ずっていて楽しげだった。中野先輩は更に長いため息を吐いてバッグを取り上げる。今日はこれでお開き、ということらしい。
俺も帰り支度とし、立ち上がる。先導する先輩について教室を出ていき、振り返り、先程開け放たれた扉を閉める。その時に、扉の端と、合わさる壁の部分が当たり、コツ、という音を立てた。
その音が、小さなノックの音に聞こえてどきりとする。
「どうかした?」
「あ……いえ、なんでもないです」
今行きます、と返事をして、少し先に行ってしまった先輩たちを追いかける。
オレンジ色の光を浴びて、影が長く廊下に伸びていた。
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