私たちは夜に溶ける

七夕ねむり

第1話 私たちは夜に溶ける

 きっと消えてしまうのだと思う。

この一瞬も、いずれはこの感情も。グラウンドからはけたたましい声が少なくなって、皆無になって。

外には黒い夜が伸びはじめていた。ああ何もない。何も。いや、何も無くなろうとしているのだ。

「なんだ、まだ居たの」

とっくに帰ったと思ってた。聞きなれた声が耳を打つ。

「言ってくれればよかったのに。俺が先に帰ったらどうするつもりだったの?」

「別に。どうもしない。一人で帰る、それだけ」

「何怒ってんの。ああもしかして先輩写真撮ってくださーいとかされたかったクチ?」

「まさか」

いつもなら流せる冗談も苛々する。語尾が硬く冷たく響く。

「何、じゃあどうしたの」

目の前の椅子を引き寄せて柔らかく笑む表情が憎らしくて、泣きそうになる。桐は何も分かっていない。目の前の彼が知らない人のように見える。

「志麻」

「なに」

「泣いてる」

ああ泣いているのか。でも桐は怒ってると言っていた。悲しくなどないのに。怒ってなどいないのに。私は何故泣いているのだろう。

泣くな。とも、泣いていいよとも言わない彼の前で私はぼとぼと涙を流す。

「きり、桐」

「うん」

桐は優しくて、狡い。

いつもはどうでもいい軽口で私の気持ちをいとも容易く変えてしまうのに、今日はそうしない。意地の悪い冗談も一言も言わない。私の言葉をじっと待っている。

「桐は、」

「俺は?」

「桐は、やっぱり何でもない」

言っても何にもならない。けれど、確かめてみたくなったのだ。

「俺は、変わらないよ」

「・・・」

「今も、これからも、志麻の一番の味方だ」

ああ、そうだ。この男はこういう人間なのだ。でもきっと、きっと今この瞬間の立坂桐という人物はもう居ない。未来の一片にだってもう存在しない。さっきの言葉が私を裏切る言葉だということも桐は知らない。

「桐、今だけは、私の知ってる、私の桐でいて」

「そんな簡単なこと、今更言うな」

嬉しそうに、頬を緩める彼を私は目に焼き付ける。痛いほどの感情が涙腺を緩くする。

「今だって、明日だって志麻のもんだよ」

普段からは信じられないような甘い言葉が刺さって痛かった。

ぐるぐる廻る桐の恋情が私をここへ縛り付ける。もう二度と帰れない瞬間に私達は自らのこころを置いてゆく。桐が愛しいと思う。だけど明日にはこの愛しさに何かが混じって、明後日には別の何かが混じって。もう別の桐を愛おしく思う私がいるだろう。その私はもう今の私ではない。そのことがこんなにも痛いのだ。


 すっかり日の落ちた教室に私を宥める男の声が耳を打つ。甘くて、ぶっきらぼうなその声が誰のものなのか私はわからなくなる。夜がそこまでやって来ている。最後の私達を笑っているようだと思った。

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私たちは夜に溶ける 七夕ねむり @yuki_kotatu1

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