第220話 一方的
一度目の鐘の音が鳴り響き、会場中から熱狂的な歓声が上がる中、せり上がる地面の上でエルシャン・ファルシードの集中力は極限まで高まっていた。
距離を置いて相対するのは、ルビーのような美しい長髪の女性、『
声を発することはなく、静かに立ちすくむミリスを見て、エルシャンは思っていた。
まだ⋯⋯迷っているのか。
エルシャンから見れば、ミリスにいつものような覇気はない。意識は散漫で、目の前の自分に集中できていないのは明らかだった。
エルシャンは組んでいる自分の腕を強く握る。
元々、エルシャンはずっと自分がミリスの眼中にないことはわかっていた。彼女からすれば、エルシャンなど取るに足らない相手。ノイルとの関わりがなければとうに興味など失っていただろう。ノイルに付随する玩具、その程度の認識だ。
ミリスに悪気があるわけではない、ただ、彼女に本気で関心を抱かせる域に、自分は達していないのだとエルシャンは感じていた。
現に今も、あれ程の言葉をかけた自分との勝敗など、ミリスは重要視していない。
それでは意味がないんだ。
全力を出したミリスに勝利しなければ、意味はない。
まずはミリスを本気にさせる。
エルシャンはそう考えながら組んでいた腕を解いた。
せり上がっていた地面が止まり、結界が展開され下方には水が流れ込み始める。
「⋯⋯殺すつもりでやるよ」
最後にかけたエルシャンの言葉に、ミリスはそれでも何の反応も示す様子はなかった。
二度目の鐘が鳴り響くと同時に、エルシャンは凛とした声を上げる。
「〈精霊顕現〉」
エルシャンの身体を風――ではなく、鋼鉄じみた土が覆い形を成す。
細身の騎士鎧。
「大地の母よ、風の乙女よ、迅雷の優女よ」
風がまるで大翼のようにその背に集まり、紫電が紋様のように騎士鎧と化した土に奔り、兜の双眸に輝きを宿す。
「そして、激流の益荒男よ」
満ちていた水が、壇上へと浮かび上がり、会場中からどよめきが上がる。
多量の水はみるみるうちにその姿を変え、蛇――いや、巨大な龍へと変貌した。
エルシャンの周りを囲むように、宙に浮く水龍はその身をゆっくりと静止させミリスを双眸に捉える。
「さあボクと踊ろう――〈騎龍演舞〉」
ふわりと浮かび上がったエルシャンが龍の頭へと静かに、着水する。
瞬間、砂塵が吹き荒れた。
突如巻き上がった砂嵐は、会場中の――ミリスの視界を塞ぐ。
水龍は砂嵐の範囲外へとエルシャンを乗せたまま高く飛び上がり、再度静止する。
眼下を見下ろしながら、エルシャンは口を開いた。
「キミの弱点の一つはね、目が良すぎることだ」
マナが見えるからこそ、ミリスは目に頼りすぎている。エルシャンの狙いは、まずはミリスの視界を塞ぐことにあった。
しかし、次の瞬間には砂嵐の中から無数の魔力の針――魔針が飛び出し、吹きすさぶ砂塵は消滅する。
⋯⋯やはり。
マナ生命体である精霊自体にマナの綻びは存在しない。しかし、放出したマナであれば話は別だ。魔人族同様、精霊も攻撃を行う際にはマナの性質を変化させ自身の身体から放出する。
そして魔人族が行使する魔法とは、あくまでも火ならば火、風ならば風と、それにほど近い性質にマナを変化させているだけだ。
通常の状態であれば精霊のマナに綻びはない。しかしそれを変化させ身体から放つとなると、綻びが生じてしまうのだろう。
ならばミリスは容易くそれを破ってくる。
しかし、だ。
精霊は魔法を放つだけではなく、火や風、そして――水などに直接宿る事もできる。
それこそが、精霊のみが持つ特質であり――
「頼んだよ」
エルシャンは自身へと跳躍し向かってきたミリスに、片手を翳した。
水龍が唸りを上げ、彼女を飲み込む。
「マナによって生み出したものでなければ、キミも破壊できないだろう?」
圧倒的な質量がミリスを押し流し闘技場へと叩きつけた。
例えそれを操る精霊のマナを破壊したとして、水自体は消えることはない。一度ついたその勢いが消えることも。
ここが闘技場という限られた空間ではなく、普段愛用している『
「さてどうする『絶対者』」
この場においては、体術しか持たぬミリスにエルシャンへの明確な対処法は存在しなかった。
エルシャンは倒れたミリスの周りに再び砂嵐を作り出す。直ぐに破られることはわかっているが、それでも僅かな時は稼げる。
その間に、一度流れきった水龍は、再び形を成しエルシャンの元へと浮かび上がった。
しかし、その姿は先程よりも幾許か縮んでおり、眼下には操り切れなかったのであろう水が残っている。
⋯⋯しっかりと削ってはいるか。
とはいえ、それはエルシャンにとって想定内だ。こちらも水の精は削られるが、ミリスのマナも同じこと。
魔針に身体強化、ダメージの治癒。
ミリスのマナは魔人族の中では決して多いわけではない。マナボトルも使えぬこの状況では、精霊の疲弊よりもミリスの消耗の方が早いとエルシャンは踏んでいた。
加えて、今のところミリスが削ることができるのは水の精霊だけだ。この戦法を破ってエルシャンにたどり着けたところで、その他の精霊は十分に余力を残している。
更に〈精霊顕現〉はマナを放出する技ではない。精霊がその姿を変え顕しエルシャンに力を貸すものだ。それでもマナを操る分綻びは生じるだろうが、それはごく僅かなものでしかないだろう。でなければ、ミリスはわざわざ宙空に陣取った自分に接近を選ばず魔針を飛ばしているはずだ。
そうしないという事は、魔針では綻びを狙えないという事実の証明に他ならない。
ミリスはエルシャンに接近する前に酷く消耗し、近づいても容易には〈精霊顕現〉は破られないだろう。
エルシャンの戦術は盤石とも言えた。
唯一の懸念は、ミリスが【
一度見た動きだ。対応する自信はあるよ。
そう思いながら、エルシャンは眼下のミリスを見下ろした。
砂嵐を再び止め、こちらを見上げている。
⋯⋯笑いもしない。
自身が圧倒的不利な状況で、エルシャンも容易には倒せぬ相手だと先程の攻防でわかっているはずだ。普段の彼女ならば面白いと笑うだろう。しかし、今のミリスは笑うでも怒るでもなく、ただ無感動な瞳でエルシャンを見上げていた。
まだ、足りないようだね。
エルシャンは兜の奥で歯を噛み締める。自身が押しているにも関わらず、気分は良くなかった。
と、ミリスの周りに無数の魔針が出現する。次の瞬間には、それは水龍に向けて一斉に射出された。
ああ、ダメだよ。
エルシャンは慌てることなく両翼を羽ばたかせる。ミリスの魔針に劣らぬ数の羽が射出され、魔針とぶつかり互いに消滅した。
遠くからマナを削ることも、キミにはできない。
水龍が再び大口を開けながらミリスへと向かう。闘技場全てを範囲内に入れたその攻撃を、ミリスに躱す術はない。
濁流は、ミリスを圧し潰し闘技場に平伏させる。
「もっと苦しんでくれ。足掻いてくれ。必死になってくれ」
倒れ伏すミリスを見下ろしながら、エルシャンは静かに呟いた。
「そうして全力を出した結果、ボクの愛には叶わないと、折れてくれなければ意味がない」
エルシャンはミリスが立ち上がるより早く、今度は闘技場をあまねく打ちつける落雷を落とした。
しかし、それは立ち上がる事もなく放たれたミリスの魔針により、彼女へは届かない。
激しい轟音と振動、衝撃でたわむ結界に、会場からは悲鳴が――上がることはなかった。
あまりにも一方的かつ圧倒的な――まさに『精霊王』に相応しき戦いに、会場中はいつしか異様なほどに静まり返っている。
『絶対者』を平伏させる女王に、客席中が畏怖の目を向けていた。
「どうした『絶対者』。いつまで寝ている」
エルシャンは再び砂嵐を起こし、その間に水龍は彼女の元へと戻る。
後二、三回かな。
先程よりも更にその姿を縮めた水龍から伝わる声に、エルシャンはそう考えていた。
一度目より二度目の方が消耗が激しい。ミリスもただでやられているわけではない。確実に動きを最適化させている。とはいえ、だ。
「まあ、それだけあれば十分だね」
収まった砂嵐、自身に向かってくるミリスを見下ろして、エルシャンはそう呟き水龍は彼女を容赦なく襲う。三度闘技場の上に倒れたミリスは、その衝撃に吐血した。
「⋯⋯見当違いだったかな。過大評価し過ぎていたのかもしれない」
ミリスがふらふらと起き上がるのを待ちながら、エルシャンは彼女に落胆したかのような声をかける。
「もしかして、これが既にキミの本気かい?」
砂塵が、ミリスを包み込んでいく。
「だとしたら、もういい」
一度目よりその姿をかなり縮めた水龍が、彼女の元へと戻った。
⋯⋯思ったよりもダメージを受けたね。次が限界か。
砂嵐が魔針により止められる。これまでの繰り返し。
「この程度ならば必要ない。彼にも伝えておこう。キミは⋯⋯そうだね。遠くから見ているといいさ、ボクと彼が結ばれる所を。その時には――キミの手はもう二度と届かない」
向かってくるミリスに、エルシャンは水龍を放つ。激流が彼女を飲み込み闘技場に叩きつけ――今回はそれだけでは止まらなかった。そのまま荒れ狂う水はミリスを取り込み。エルシャンはそこに一筋の紫電を放つ。
「〈龍水雷電〉」
水に揉まれるミリスを、水中で炸裂した雷撃が襲った。肌を焼き焦がし、断続する雷は容赦なく痛苦を刻み込む。それだけでは止まらず、水龍は一度高く飛び上がると、その身体ごとミリスを闘技場に叩きつけた。
あまりの衝撃に激しい戦闘を想定して作られた闘技場が陥没する。
水が全て流れ落ちた後にはうつ伏せに倒れたミリスが残った。見るからに大怪我を負った彼女の傷は徐々に癒え始めるが、起き上がる気配はない。
さて、もう余裕はないだろう。
エルシャンは消耗しきった水の精霊を身体に戻し、圧倒的高みからミリスが起き上がるのをただ待つのだった。
◇
「⋯⋯⋯⋯」
僕は、何も言えずにその光景をただ見ていた。
あの店長が、手も足も出せず、エルに一方的にねじ伏せられる姿を。
僕だけではない、フィオナも、アリスも、国賓席に居る全員――会場中の皆が言葉を発することもできず、半ば呆然としたように目の前で行われる試合を見ていることしかできていなかった。
⋯⋯いや、エルのご両親だけは別か。あの二人は今のエルの強さを知っていたのだから。
風と大地の精霊だけではなく、水と雷の精霊。四体の精霊をその身に宿したエルの強さは、異常だとしか言いようがなかった。
あの店長が、一度たりも触れるどころかまともに攻撃できてもいない。
最強だと思っていた。
あの人は、誰にも負けることはないと思っていた。
しかし、こうもあっさりと。
完璧に抑えられるものなのか。
確かに調子はよくなさそうだった。出てきた時から何か変だなあの人とは感じていた。だが、調子の悪さを差し引いても、あまりにも一方的すぎる。
⋯⋯信じられないな。
負ける、のか。
ミリス・アルバルマが。
僕はエルを応援している。それは今だって間違いなくそうだ。彼女に勝って、店長を少し懲らしめてやってほしいと思っている。
だからまあ⋯⋯笑ってしまうのだ。
なんだ、大したことないじゃないか。
あの人も人間だったというわけだ。
まったく仕方ない人だ。これに懲りて二度と僕に大口を叩いて無茶な要求はしないで欲しい。大いに反省しなさい。
僕はあんたのことを心配なんてしないぞ。
これで落ち込んだら腹を抱えて笑ってやる。
そうさ、心配なんてしない。だから安心して負けていいですよ、店長。
僕はここで、笑って見てるから。
そう思い、一つ息を吐いて椅子に座り直すと、思った通り今にも倒れそうな様子で起き上がったあの人は、こちらを見た。
そして、僕の事が見えているのかは知らないが――あの人も笑った。
ああしまったな。
こんな事なら、思いっきり馬鹿にした顔にしておくんだった。ジェスチャーも入れておけば良かったかもしれない。
僕は惜しいことをしたと思いながら、笑顔で試合の行方を見守る。
頑張れ――エル。
そして最後にやはり、そう念じておくのだった。
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