第218話 愛故に


「んでよ、ソフィ」


「はい」


 円形闘技場、その最前列の客席に座ったレット・クライスターが、ぼんやりとした顔で柵に寄りかかるように身を乗り出し、ぽりぽりとポップコーンをつまみながら、隣に姿勢を正し座るソフィ・シャルミルに訊ねる。


「実際のとこ、ボスは勝てそうなんか?」


「わかりかねます」


 両手を差し出したソフィの答えを聞きながら、レットは彼女の手にポップコーンを一掴みほど乗せた。


「ですが」


 ソフィは一度目を閉じると、レットから受け取ったポップコーンを一つ静かに口へと運び咀嚼して飲み込む。


「ソフィはマスター派です」


「それは知ってるって」


 いまいち締まらないソフィに、レットも気の抜けた声を返した。そして、ソフィの隣に座るミーナ・キャラットへと視線を向ける。


「うふふ」


 ありゃダメだな。


 ミーナはまだ先程のノイルの戦いに浸っているらしく、心ここにあらずという顔で両手を頬に当てていた。


 獣人族という種族は本能的に強き者に惹かれる傾向がある。半獣人ハーフであるミーナも例外ではない。

 元々好意を寄せている相手の、あれ程の活躍を見せられれば今の惚けた態度も仕方ないとは言える。


 どんどんアホになってくな⋯⋯。


 しかしレットはそう思いながら白けた目を向けるしかなかった。


 一度我慢し諦めようとした反動なのだろうか、ミーナの頭の中は日増しにノイル一色になっていっている。

 『魔王』の件がありいずれにせよそんな事をしている場合ではなくなったが、もはやエルシャンとどちらが上か白黒つけるという当初の目的も、どうでもよくなっている様子だ。


 アリス・ヘルサイトに度々色ボケ猫などと言われ本人は憤慨しているが、端から見ればその通りでしかなかった。


 今のミーナの頭の中には花が咲いている。

 そう思いながらレットは視線を闘技場に戻す。流石に試合が始まれば目を覚ますだろうが、今は声をかけても無駄だろう。


「お前ら落ち着いてるな」


 と、ソフィとは反対の、レットの隣に座るガルフ・コーディアスが呆れたようにそう言った。


「まあ俺らが気ぃ張ってもしゃーねぇし」


 レットもエルシャンが並々ならぬ覚悟を持ち『絶対者アブソリュート』に挑むことはわかっているが、だからといって個人間の戦いに何かできるでもない。

 それに当然応援はするが、エルシャンが勝っても負けても、彼女が『精霊の風スピリットウィンド』の信頼の置けるリーダーであるというところは何も変わらないのだ。


 つーか、ボスがあんだけ気合入れるって事は『絶対者』ってあいつだろ。


 レットはそう思いながらまた一つポップコーンを口に投げ込んだ。


 何がどうなってそうなったのかレットにはわからないが、それならば尚の事気楽に観戦できる。


 勝てれば良し、負ければどうせノイルがフォローする。

 つまり、どちらに転んだとしても何も問題はないのだ。


「結局いつもの喧嘩の延長だしなこれ」


「そう言っちまうと身も蓋もねぇな」


 レットがガルフにポップコーンの袋を差し出すと、彼は目を細めながらポップコーンを一掴みほど取って一つ口へと運ぶ。


「ん飲み物を、ん買ってきたんよ!」


 と、そこへ席を外していたクライス・ティアルエが人数分の飲み物を乗せたお盆を持って戻ってきた。

 それぞれがお礼を言い、彼はガルフの隣に腰を下ろすと隣へと飲み物を回していく。


 流れ作業で各々の手に飲み物が行き渡り、ソフィが少し考える素振りをした後、未だ惚けているミーナの両手を頬から外し、代わりにカップを持たせていた。

 そして何故かストローだけをミーナの鼻にそっと差し入れようとしているソフィから視線を外し、レットは一度ぼんやりと空を見上げる。


 ⋯⋯いつもみてーによ、早いとこ、またノイルんとニケルベンベ釣りにでも行きてぇなぁ⋯⋯。


 そう思いながら、レットはストローに口をつけ闘技場へと視線を戻すのだった。







 失敗した⋯⋯。


 テセア・アーレンスは、客席最前列の一角に座り心の中でそんな事を考えていた。


「ああいうのはズルだよね。まあ今回はノイルのためにもなるから仕方ない部分もあるけど、やっぱりズルいよね? ね? テセアちゃんもそう思うよね?」


「あ、はい」


 膝の上に両手を置いた彼女に、隣に座るノエル・シアルサが微笑みながら問いかける。笑顔だが、明らかに機嫌が良くない様子だった。


「ズルい、ズルいなぁ⋯⋯ね?」


「あ、はい」


 ノエルの機嫌が悪いのは、無事に一回戦を勝ち上がったノイルが、すぐさま彼女では入れないとある場所に連れて行かれたからだ。いくらしたたかなノエルだとはいえ、こればかりはどうしようもない事だった。


「こういうことされたら、私も今度ちょっとくらいズルしたっていいよね?」


「あ、はい」


 テセアはこくりと頷いた後、ちらりと視線を客席の一角に向ける。そこには黒スーツにサングラスの集団――『紺碧の人形アジュールドール』の皆が座っていた。


 やっぱりあっちに行けば良かったなぁ⋯⋯。


 テセアはただならぬプレッシャーを隣から感じながら、自身の選択を後悔する。


 ノイルは『紺碧の人形』に苦手意識を持っているようだが、テセアはそうではなかった。アリスを慕う皆は、話してみれば良い人たちばかりだ。テセアには優しく接してくれるし、皆食べ物をくれる。中でも流行に敏感らしい新二号との会話は楽しかったし、一層たくさんのお菓子をくれた。

 一号も基本的には寡黙だが、テセアが話しかけると優しげな笑顔を返してくれる。


 確かに皆、アリスに対しての思い入れが少々強すぎるきらいはあるが、決して悪い人たちではないどころか愉快で裏表のない気持ちのいい人たちだ。


 ノイルの妹であるテセアは、『紺碧の人形』の面々にとってはもはや実質アリスの妹であり、本人の性格も相まって大層甘やかされていた。


 当人にちやほやされている自覚はないが、大層甘やかされていた。


 当然ながらそんな場がテセアにとって居心地が悪いわけがないのだ。


 無論、『白の道標ホワイトロード』もテセアには特別な場所であり、そこに集まる皆が好きだ。中でもノエルは適切な心地良い距離感を保ち接してくれる相手であり、話しやすく普段の彼女へのテセアの好感度は高い。


 しかし、スイッチが入った場合は最も恐ろしい相手でもあった。わかりやすく感情を表に出し行動するフィオナ達とは違い、ノエルの考えは読めず何をするのかわからないのだ。


 気づいた時には手遅れで、彼女の術中に嵌っている。わかりやすい過激さはないが、抵抗の余地を残さず確実に事を進める。そういう恐ろしさがノエルにはあった。


 今回は間違いなくスイッチが入る。


 テセアにそんな事はわかりきっていたが、それでも『紺碧の人形』の元へ行く事を選択しなかったのは、アリスが居ないというのもあるが、何より手のかかる妹を見ていなければならなかったからだ。


 テセアはノエルとは反対側の隣に座る妹の手を、何かやらかさないようにしっかりと握りしめていた。ちらりとその横顔を見て、小さく息を吐く。瞳孔が開いていた。


 ノイルが連れて行かれ、穏やかではないのはノエルだけではない。むしろ、感情的に動くことが多いシアラの方が直近の危険度は上だ。ノエルは遅効性だが、シアラは即効性がある。


 流石に今回はノイルのためでもあるので馬鹿な真似はしないだろうが、それでもテセアは不安だったのだ。現に、手を離せば何かやらかすような気配がある。ギリギリの所でシアラは理性を保っていた。


 故にテセアはシアラの側に居ることを選択し、笑顔のノエルもそこにやって来た。結果的に二人の間に緩衝材のように挟まれる事になったテセアの精神は疲弊の一途を辿っていた。


 あっち、いいなぁ⋯⋯。


 仕方のない選択だったとはいえ、『紺碧の人形』の元へ行っていればきっと楽しかっただろう。お菓子も貰えた。


 別にノエルやもちろんシアラの事が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。

 けれど、今この状況ではどうしてもテセアには『紺碧の人形むこう側』の方が魅力的にしか見えなかった。


 せめて『精霊の風』の皆の近くならまだ――


「ね、テセアちゃん?」


「あ、はい」


 ぼんやりとそう考えていたテセアの目の前に、ノエルがひょっこりと覗き込むように顔を出しにこりと微笑む。

 テセアはドキリとしながらも、慌てて頷いた。


「ふふ⋯⋯」


 すると、ノエルは口元に手を当てて可笑しそうにくすくす笑う。


「やっぱり、何だか反応がノイルに似てきたね」


 テセアが首を傾げていると、ノエルは変わらず可笑しそうに笑いながらそう言った。

 本人が聞いたら酷く落ち込みそうだと思いながらも、テセアは悪い気はしなかった。


「まあそうだよね、テセアちゃんはノイルとよく一緒に居るし、純粋だし、大好きだし、影響受けちゃうよね」


 ノエルは椅子に座り直しながらうんうんと一人頷く。


 ⋯⋯嫉妬、だろうか。嫉妬なのだろうか。


 テセアにはわからなかった。

 ノエルという女性の怖い所はこういう部分だ。感情も、考えている事も他の人に比べてわかりづらい。


 テセアも以前と比べると、人の考えや感情を察する事がだいぶできるようになってきているが、スイッチの入ったノエルに関しては難解を極める。


 大好きだという言葉に反応して、痛いほどに手を握り締めてきたシアラとは大違いだ。


 テセアはそう思いながら、瞳孔の開いた目を向けてくるシアラをとりあえず努めて意識から外して、ノエルに恐る恐る訊ねてみた。


「えっと、どうしてそんなこと?」


「別に深い意味はないよ? 似てきたなぁって思っただけ」


 嘘だ、とは思ったが、テセアは人好きのする笑顔を浮かべるノエルに笑顔を返す。


「そっか、あはは」


 そして、素早く自然に視線を闘技場へと戻した。シアラはまだ自分をじっと見ていたが、ここは何も言わないのが正解だと判断した。


「⋯⋯そうかぁ⋯⋯そういうのもありかな⋯⋯」


 と、何やらノエルが小声で呟いている。

 客席のざわめきに消えるそれを、テセアは聞き逃さないようマナを耳に集めた。


「⋯⋯⋯⋯ノイルは、テセアちゃんを可愛いと思ってるし⋯⋯私の⋯⋯口調、仕草⋯⋯癖⋯⋯染付かせて⋯⋯ううん⋯⋯まずは⋯⋯見た目⋯⋯そうしたら⋯⋯自然と⋯⋯私のことも⋯⋯もっと⋯⋯無意識⋯⋯内に⋯⋯」


 テセアはそっとマナを元に戻した。


 同時に、ノエルが両手を合わせ、テセアはビクリと身を震わせる。


「ね、テセアちゃん?」


「あ、はい」


「私とお揃いの髪型にしてみない?」


「なんて事思いつくの!?」


 笑顔で提案してきたノエルに、テセアは悲鳴のような声を上げるのだった。







「⋯⋯やあ、ミリス」


 エルシャン・ファルシードは、闘技場へと続く通路、そこに立つ人物に笑顔で声をかける。


 『絶対者』――クイン・ルージョンは何も言わず静かに振り向いた。


「久しぶりだね」


「⋯⋯⋯⋯」


 二人の絶世の美女が向かい合う。


「繕う必要はないよ。ボクにはもうキミの事情も正体も殆どわかっている」


 エルシャンは一度肩を竦めると、笑みを崩さないまま言った。


「だからいつものように振る舞ってくれ――魔王と勇者の娘、ミリス・アルバルマ」


「⋯⋯⋯⋯ノイルが話したのかのぅ」


「いや、まさか。彼はそんな事を許可なく勝手に話すような人間じゃないだろう? キミの事は伏せていたよ。ボクは単に、これまでの情報からそう推測しただけさ」


「ふん⋯⋯」


 腕を組んで顔を逸らした『絶対者』――ミリスへとエルシャンはゆっくりと歩み寄る。


「少し安心したよ。キミにも怯えという感情があったんだね。わかるよ、ボクだってキミの立場ならノイルと顔を合わせづらいだろう。キミの気持ちは、よくわかる」


 ミリスの目と鼻の先に立ち、エルシャンは「けれどね」と、言葉を続けた。


「――いい加減にしろ。ミリス・アルバルマ」


 すっと笑顔を消し目を細め、エルシャンは低い声を発する。


「今、ノイルにはかつてない程の危機が迫っている。いつまでも逃げ回っていないでノイルと話をするんだ」


 ミリスがゆっくり、不快げな表情でエルシャンと視線を合わせた。


「⋯⋯何故、貴様ごときに――」


「それがノイルのためだからだ」


 ミリスの声を、エルシャンは遮る。


「ボクがこんな事を言いたいと思うかい? ノイルとキミの仲を取り持つような真似を、本心からしたいとでも思っていると?」


「⋯⋯⋯⋯」


 至近から、エルシャンはミリスを睨みつける。


「ふざけるなよミリス・アルバルマ。虫酸が走るよ。ノイルからの無条件の信頼を得られているキミが、ボクにこんな事まで言わせるなんてね。本当なら、ボクはキミなんていつまでも彼の反応に怯えてノイルと向き合えなければいいと思っている。けれどそういうわけにもいかない。何故かわかるかい? ノイルがキミを必要としているからだ。ノイルを救うにはキミの力が必要不可欠だからだ。だから、ボクは、やりたくなくともキミにノイルと話せと言っている。全てはノイルのためにだ」


 激情の込められた、されど決して荒らげない凛とした口調で、エルシャンはミリスに言葉をぶつける。

 そして、ふっと目を伏せた。


「⋯⋯本当に腹が立つよ。未だその位置に立てて居ない自分にね」


 自嘲気味に呟き、エルシャンは再びミリスと向き合う。


「ただ、いつまでも自分だけがそこに居られると思わないことだ」


 そう言って、エルシャンはミリスの脇を通り過ぎ歩き出した。


「⋯⋯この試合が終わったら、ノイルと話すんだ。いいね? それとこれだけは先に伝えておく。ノイルは『魔王』に狙われている」


 その言葉に、ミリスが目を見開いて勢いよく振り向く。


「もちろんキミのお父様にではない。キミの両親が命を賭して封印した存在が、居たんだよ。少しは事の重大さがわかっただろう?」


 エルシャンは一度立ち止まり、振り向かずにミリスへと問いかける。


「⋯⋯【湖の神域アリアサンクチュアリ】で、キミは動きボクは動けなかった。あの時のボクの気持ちが、後悔が、キミにわかるかい? だからキミが動かずともボクは動く。同じ過ちは二度と繰り返さない」


 強い決意を込めた瞳を、真っ直ぐ正面に向けたまま、エルシャンは再び歩き出した。


「この試合は証明だ。あの時のボクはもう居ないことの。いつまでもキミだけがノイルに最も頼られる存在ではないということの。そして、ノイルへの愛のね。その腑抜けた態度で――ボクの愛に勝てると思うな、『絶対者』」


 何も言葉を発しないミリスを置いて、エルシャンは闘技場へと歩みを進める。


 この日のために、地獄の苦痛を伴うノイル断ちまで自身に過せた。


 ⋯⋯まあ、それでも八対二というところだろうけどね。


 自身の低い勝率を、エルシャンは決して驕ることなく見据えている。


 しかし、相手がそれほど遠い存在であるミリスだからこそ――彼女に負ける気は微塵もなかった。

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