第192話 止まらない二人
「ふむ⋯⋯『魔王』、か」
「おじいちゃん、何か知っている事ってある?」
三千年前の真実、それから僕が今置かれている状況についての話を静かに食事を取りながら聞いていた学園長は、二本の棒――箸と言うらしい、それをテーブルに置くと目を細めて髭を撫でる。
相変わらず僕に密着しているフィオナが真剣な表情で訊ねると、彼はゆっくりと首を横に振った。
「いや⋯⋯儂は歴史や『神具』の専門家ではないからのぅ。そうであったとしても⋯⋯『魔王』についての知識を持つ者は、おらんだろうな」
「そう⋯⋯だよね」
フィオナが僅かに目を伏せた。やはり流石の学園長といえど、『魔王』という『神具』が存在するという事実は、初耳だったらしい。三千年前も今も、『魔王』とやらは随分上手く立ち回っているようだ。
「ノイル君」
「あ、はい」
学園長が僕の方を向く。フィオナと同じ空色の瞳が、心を覗くように真っ直ぐに僕を映していた。
「この話を聞いた以上、儂としては今すぐに君を保護したいと思うておる」
「⋯⋯⋯⋯」
「『魔王』に狙われているという君を隔離し、敵の出方を伺いつつ対策を立て、対処せねばならん」
確かに、きっとそうする事が正しいのだろう。これは決して僕だけの問題ではない。
学園長は小さな器――オチョコというらしいそれを持ち上げ、とんと、ローテーブルに置き直した。
「ボードゲームで言うならば、ノイル君は絶対に取られてはならん駒だ。君が取られればゲームは終わる。しかし同時に、過去に『魔王』を封印したという二人から力を借りられる君は最大の切り札とも言えるの」
学園長の言いたい事はよくわかる。そんな事は充分に理解している。今彼は、至極真っ当な意見を述べているだけだ。
「下手な運用はできん」
「おじいちゃん!」
フィオナが憤慨したかのように立ち上がった。しかし、孫バカのはずの学園長は彼女を見ることもなく、話を続ける。
「自由に動いてもらっては困るのだ。同情はするし理解はできるがのぅ、君がやろうとしておることは、愚かだという他ない」
「ッ⋯⋯何で⋯⋯!」
「フィオナ」
僕は学園長から目を逸らさないまま、動き出そうとしたフィオナに声をかける。
彼女はぴくりと動きを止めた。
「学園長が言っている事は正しいよ。フィオナもわかるでしょ」
フィオナは僕より遥かに賢い。どちらが馬鹿なことを言っているのかなど、わかりきっているはずだ。彼女は悔しげに顔を歪め、力なく肩を落とした。僕は一つ息を吐いて、学園長と改めて向き合う。
「わかってます。僕は自分勝手な人間です」
僕はいつだってそうだ。自分のやりたいようにしかやらない。だから、何の言い訳もできず――こうするしかない。
少しテーブルから離れ、姿勢を正し僕は額を畳につける。フィオナが息を呑んだのがわかった。
「それでも、力を貸してください」
僕のわがままに付き合ってくれと、頭を下げるくらいしか僕にはできない。リスクを承知で、それでも愚か者に手を差し伸べてくれと、情けなく頼み込む。プライドも責任感もなく、どこまでも自己中心的な男には、これくらいしかできる事はない。
「お孫さんの婚約者に、力を貸してください」
そしてさり気なく状況を利用する。正直後先は考えていないが、もはや逃げられぬのならば目一杯活用してやるぜ。僕を舐めるんじゃない。これが汚属性の頂きだ。相手の弱いところは全力で点いていく。
「お孫さんの幸せのために!!」
普通に考えれば学園長の提案の方が安全だし、上手くいけば別にフィオナとも問題なく結婚できるわけだが、勢いで押し切ることにする。何か流れで僕のやり方が最もフィオナの幸せに繋ると思い込ませる。
「先輩⋯⋯!」
フィオナから感極まったような声が漏れ、罪悪感という痛みが胸を襲ったが、僕は顔を上げない。
「僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!」
半ばヤケクソである。最低な事をしている。しかし先程そちらも無理矢理結婚の約束までさせたのだから、おあいこといったところだろう。学園長の力は絶対に借りたいが、彼の言う通りのやり方だと僕の望みは叶わない。だから黙って助力だけしてください。お願いします。
フィオナが頭を下げ続ける僕をぎゅっと抱きしめてきた。すごいぞこれ、まるで学園長が悪いみたいになってる。この中に悪人は僕しかいないのに、まるで正義がこちらにあるかのようだ。詐欺かな?
「⋯⋯変わらんな、君は」
理不尽を強いられた被害者といわんばかりの僕らに、理不尽を強いられている学園長がそう呟いた。
「学園に釣り堀を作らせろと、昔もそうやって毎日のように頭を下げに来おった。釣り堀があれば学園に幸福が訪れるなどと、わけのわからぬ事を言うてな」
「実際僕は幸福でした」
頭を下げたままそう言うと、学園長がふっと笑ったような声が聞こえた。
「儂もだよ」
「え」
そうだったのか。全然そんな素振りは見せなかった気がするが、やはり釣り堀は世界に幸福を齎すものらしい。僕の考えは間違いではなかったのだ。釣りの可能性は無限だ。
「フィオナが、笑うようになったからのぅ」
優しげな声。
ゆっくりと顔をあげると、学園長は慈しむように微笑み、こちらを見ていた。
「学園に幸福は訪れんかったが」
訪れんかったか。悲しい話だ。
「君は――フィオナに幸福を与えてくれた」
⋯⋯⋯⋯いや? それはどうだろう。
僕がフィオナの人生を狂わせた事は間違いないが、果たして幸福を与えたなどと言っていいのだろうか。記憶を辿ってみても、学園時代のフィオナは哀れなことに、最低な男に利用されていたとしか思えない。今だって結構やばい案件に巻き込まれている。僕は彼女にろくな事をしていない。
「故にきっと、今回もそうなのだろう」
そうはならないでしょう。いや、何かいい感じの流れになってるけど、信頼厚すぎない? 心が痛くなってきた。詐欺師かな?
見事に思惑通りいきそうな感じだが、何だろう⋯⋯信頼が重い。もうちょっとこう⋯⋯やれやれ、フィオナのためなら仕方ないのぅ、くらいの流れを狙っていたのに。想定以上に受け入れ過ぎじゃない?
僕は何をしてしまった?
「元より何もかも手探りなのだ。儂はノイル君を信じる事にするかのぅ。フィオナを救ってくれた君ならば、必ずや『魔王』を打ち倒してくれるとな」
学園長は髭を撫でながら、「ほっほっほっ」と笑う。あれぇ⋯⋯やっぱ何か違うんだよなぁ⋯⋯。もっと出ないかな、仕方ないのぅ感。
「そして、障害が取り払われたのならば、その時こそフィオナとの式を盛大に挙げるとするかのぅ」
何か好感度上がってない? この世界は不思議だ。
「もう⋯⋯おじいちゃん。最初からそのつもりだったんでしょ」
「え」
「ほっほっほっ」
ほっほっほっじゃない。
学園長はご機嫌な様子で髭を撫でる。あの髭引きちぎってもいいかな?
「フィオナの信じておる相手を、儂が信じぬわけがないからのぅ。それにノイル君のこれまでの実績も知っておる」
何で知ってるの? ああフィオナか。フィオナから僕がこれまで関わった事件の事を、聞いていたのだろう。その上で、最初から僕を保護するつもりなどなかったわけだ。この様子だと『
⋯⋯まあ、僕に対するあの言葉は、ちゃんと理解しているのか確認の意図もあったのだろうが。
「しかし、いい言葉を聞けたのぅ」
学園長はそう言うと、ニコニコしながら懐から何やら黒い手のひらサイズの箱のような物を取り出した。そして、真ん中についているボタンを押す。
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
個室に僕の声が響き渡った。
学園長はもう一度ボタンを押す。
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
学園長は更にボタンを押す。
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
何度も響き渡るその声に、僕の顔からはだらだらと冷や汗が流れ落ちた。
「これは最近流行っておる魔導具でのぅ」
説明は要らないよ。
「音を録音できるものなのだが――まったくフィオナは愛されておるのぅ」
ちくしょうこのじじいやりやがったな。
僕は、ニコニコとしながら懐に魔導具をしまった学園長を見て、いつの日か絶対に髭を引きちぎってやると決めた。
学園長はオチョコに酒を注ぎ、くいと飲み干した後、僕に柔和な笑みを向ける。
「よもやここまで言うておいて、フィオナを裏切ったりはせんだろう」
目が笑ってない。学園長はここに来て更に僕に脅しをかけていた。もし僕がフィオナとの結婚から逃げたのならば、間違いなくこの人は己の持つ全ての力を振りかざし、僕を追い詰めるだろう。元々非は僕にあるわけだが、あの発言を録音された以上、もはや何も知らない相手だろうと僕の味方にはならない。客観的に見て、これで結婚を拒否したらクズでしかない。
「のぅ?」
「あ、はい」
ここで反論する事は得策ではないので、僕は頷く事しかできなかった。学園長も満足そうに頷くと、再びお酒を飲み始める。
さて、とりあえず学園長は満足したが⋯⋯どちらかといえば今この場での問題は、彼ではない。
「はぁ⋯⋯ぁ、はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯」
大問題なのは、先程からもうずっと僕に抱きつき、身体を弄りながら息を荒げている――フィオナだ。
僕は顔を上げた辺りから、怖くて彼女の方を一度も見ていないが、物凄く距離が近い。フィオナの顔は間違いなく、僕の頬のすぐ側にある。
熱い吐息⋯⋯というか唇が殆ど頬に触れているからだ。
近いわ。いや近いわこれ。
「せんぱい⋯⋯」
甘い呂律と吐息混じりの声で囁かれると、ゾクゾクするもん。両腕は首に回されてるし、非常に柔らかで大きな二つの感触は、遠慮なく僕の身体に押し付けられている。お互いの身体を余すことなく密着させるように、フィオナは身体を擦り合わせて、両脚を僕の身体にいつの間にか器用に絡ませていた。
つまりあれだ、座った僕に両手両脚でしがみついている。以前アリスが飛びついてきた時は猿のようだったが、フィオナのはなんか⋯⋯エロい。表現は色々あるだろうが、とにかくエロい。
いかん怖いけど理性も飛びそうだ。フィオナがじっと僕を見ているのはわかるが、これだけ近くて果たしてちゃんと見えているのだろうか。
学園長は呑気にお酒を嗜んでないで止めてよこれ。フィオナが今どんな表情を浮かべているのかは知らないが、このままでは致す気だとしか思えないよ、僕は。
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
おいこらじじい。
何でもう一回鳴らしやがった。
やめろじじい。
「はぁ⋯⋯」
フィオナが僕の首筋に、鼻先を擦りつけてくる。さらさらの髪が頬をくすぐり、首を啄むように何度も吸われた。
学園長に構っている場合ではないと、流石に僕はフィオナに声をかける。
「あの、フィオナさん⋯⋯」
「ん、はぁ、なんですかぁ? せんぱぁい?」
ダメだこの子蕩けてる。声音がとんでもなく甘い。頭がくらくらしてきた。
「はなれ――」
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
じじいに構うべきだった。僕は再度響いた自分の声に、激しく後悔した。
「ああ! せんぱぁい!」
フィオナが一瞬で僕の正面に回り込んだ。僕にしがみつきながらどう動いたら、正面に回り込めるんだろう。いやそんな事よりも、これは非常にまずい体勢だ。
フィオナは相変わらず両手両脚を僕の身体に回している。両手は首に、両脚は腰の辺りに。この体勢に名称があるのかは知らないが、これはとんでもなくエロい体勢だ。
ノイルくんがやばい。この体勢でノイルさんになってしまった場合。それはもうエロ⋯⋯えらいことですよ。
「ふぃ、フィオナ⋯⋯これは本気でおおふぅ⋯⋯!」
流石に振りほどこうとすると、フィオナがお尻をぐりぐりと押し付けてきた。どこに押し付けてきたかは言えない。ただ、ノイルくんが大人の階段を上るまで、もう間はない。
やばいやばいやばい。
マジでやばい。
正面に来たことでフィオナの顔がはっきりと目に入ったが、この子脳が蕩けてる。理性とか一切なくなっているような表情をしている。ちくしょう僕が何をした。
『僕はフィオナを幸せにしたいんだ!!』
ああはいすいません。僕が悪かったです。だからもうそれ鳴らすんじゃないじじい。フィオナがそれを聴くたびに、蕩けるんだ。
「む!?」
こうなれば学園長が居るが、力尽くでと思った瞬間、フィオナに情熱的に唇を塞がれた。そしてすぐさま口内には彼女の舌が侵入してくる。
⋯⋯はっきりと言おう、フィオナのキスはエロい。
故に、ノイルくんは迷わず大人の階段を駆け上がってしまった。
「ふむ!?」
「⋯⋯⋯⋯」
その感触を何処かに感じたのだろう。フィオナは信じられない程に目を見開くと――
「ぁ⋯⋯」
幸せそうな表情で鼻血を流し、意識を失った。
彼女の唇が離れ、そのまま背後に倒れようとしたところを、僕はいやに冷静な思考で支える。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
しばしの間、フィオナの背を支えていた僕は、ゆっくりと学園長に視線を向ける。
「うむ、仲睦まじいようでなにより」
僕はノイルさんが落ち着いたら、今この場でじじいの髭を引きちぎると決意するのだった。
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