第122話 ラブボトル
頭が、身体が、痺れるような甘い快楽に支配されていた。
頭頂部からつま先まで駆けめぐるように筆舌に尽くし難い快感が押し寄せ、上手く考えが纏まらない。僕は動く事も出来ず、ただその背徳的な悦びに浸る。バカみたいに開いた口から涎が伝うのがわかったが、それを拭おうとさえ思えなかった。
やがて、僕に覆い被さるようにして首筋から血を吸っていたノエルが、名残惜しそうにゆっくりと口を離す。
身体を支配していた快楽は止み、途端に酷い虚脱感に襲われると共に僕は――もう終わってしまったことが酷く残念に思えてしまった。
ベッドに仰向けで寝ている僕に馬乗りとなったノエルは、こちらの心を見透かしているのか、まるで「どうしてほしい?」とでも言っているかのような表情で見下ろしている。
ベッドランプに照らされたその顔が、どうしようもなく蠱惑的に、艶やかに見え、僕は必死に喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
ノエルはそんな僕の情けない顔を見て、一度満足したような表情を浮かべると、次にぐっと衝動を抑え込むかのように目を瞑り、近くに置いていた大きめのグラスへと、口に含んでいた血を静かに吐き出す。グラスの中は、幾度か同じ行為を繰り返し溜まった僕の血液で満たされていた。
口の端から垂れた血を赤い舌で味わうように舐めとったノエルは、暫くじっと眺めた後グラスを置き、僕へと向き直る。そして、ゆっくりと身体を倒して耳元で囁いた。
「もっと、してほしい?」
誘惑するかのような淫靡な声に、欲望が鎌首をもたげる。
頭の中が、あの快楽をよこせと叫んでいた。
僕に出来た抵抗は、ノエルの声に応えないということだけだ。口を開けば、僕は彼女に吸血してほしいと懇願してしまうだろう。
ノエルがそっと首元に口を寄せ、舌を這わせた。
ぞくぞくと身体が期待に震える。
しかし――
「あは⋯⋯だめだよ、ノイル。これ以上は、危ないから、ね?」
彼女は悪戯っぽくそう囁き、軽く首を甘噛みすると、身体を起こした。
安堵、するべきなのだろう。そうしなければいけない。彼女に血を吸われない事を不満に思うなど、絶対に間違っているのだ。
だから、これでいい。
僕は落胆する気持ちを抑え、無理やりにでも自分を納得させる。
悶々と自分と戦っていると、ノエルの深紅のドレス――《
そして、次第にその顔は赤く染まり始める。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
先程までの妖艶な空気は霧散し、僕らはお互いに無言となった。
徐々に徐々に正気を取り戻していく内に、どんどんと気まずさがこみ上げてくる。
気づけば、僕の身体は動くのも億劫――というよりろくに動けない程に重くなっていた。
全身を酷い脱力感と疲労感が襲い、先程までの天にも登りそうな程の心地とは違い、気分もあまり良くない。血とマナが身体から結構な量抜けてしまったからだろう。
予定では、少量で済ませることになっていたはずだ。
しかし、僕らはお互いに歯止めが効かなくなってしまったのである。いつの間にかこれ程体調が悪くなるほどに、吸血行為を楽しんでしまっていた。
気まずい。非常に、気まずい。
どうしてこうなった。僕が止めるべきだったのに、あまりの気持ち良さに全く抵抗ができていなかった。死にたい。
なんていうか、死にたい。
《深紅の花嫁》を解除したノエルも、思考が正常に戻ったのだろう。その顔はもはや真っ赤に染まっている。自分がどんな振る舞いをしてしまったのかを思い出し、羞恥心に襲われているはずだ。
まあ、その⋯⋯吸血中のノエルは⋯⋯うん。結構凄かったから。
「あ、あはは⋯⋯ごめんね、やりすぎちゃった」
「いや⋯⋯」
恥ずかしそうに苦笑するノエルから、僕はあまりのバツの悪さに目を逸らすのだった。
◇
ああ、血が足りない。明らかに血が足りない。
僕はハート形に照明石が埋め込まれた天井を見つめながら、自身の愚かさに嫌気がさしていた。
ノエルはともかく、素面だった僕は何も言い訳ができない。ただただ欲望に負けただけである。
しかし、それでも言い訳させてもらえるならば、あんなのは無理です。耐えるとか耐えられないとかそういう話ではない。例えるなら、ソフィのマッサージだ。抗えない快感だったのだ。死にたい。
「はぁ⋯⋯」
僕はこんなに心の弱い人間だっただろうか。いや心の凄く弱い人間だったな。なるべくしてこんな状況になったんだな。
まあでも、これでしばらくはノエルに血をあげなくても済むだろう。
何度もこんな行為をするよりは、結果的に良かったのかもしれない。繰り返し吸血されていては、その内定期的に血を吸われないと生きていけなくなってしまいそうだ。危ない薬かな?
僕は全く力の入らない身体をゆっくりと動かし、首だけを横に向けた。
二人がけのソファに丸テーブル。そして今僕が寝ている大きくてふかふかなベッド。観葉植物にアンティーク調の調度品が飾られた部屋は、高級宿の一室と遜色ないだろう。照明は壁や床、天井などに埋め込まれており、暖色の灯りがほんのりと室内を染めている。絨毯やシーツの模様、照明にソファにテーブルなど、いたる所にハートの装飾があしらわれているが、主張し過ぎず、決して下品ではなかった。
そんな素直に良い部屋だとしか言えない仄かに甘い香りに満ちた一室で、僕と同じくバスローブ姿のノエルはソファに腰掛け、グラスに満ちた僕の血を幾本かの細い瓶――マナボトルの瓶に移し替えていた。
マナボトルに使用される容器は保存性に優れている。いつの間に用意したのかは知らないが、今回ノエルが血を飲み込まずに吐き出していたのは、こうして小分けにして保存しておくためだった。
僕の視線に気づいたノエルが、にこりと微笑む。
「どうかした?」
「それで、しばらくはもちそう?」
尋ねると彼女は人差し指を顎に当て、考え込むように視線を上に向ける。
「んー、どうだろう。直接よりは効果は落ちるし⋯⋯案外すぐになくなっちゃうかも」
「あ、はい」
できるだけノエルが血を摂取しないで済むようにしよう。僕は何故かおかしそうに笑う彼女を見てそう思った。
というか、今度は別の方法で血を抜こう。保存しておくだけなら、わざわざノエル自ら吸血する必要はないだろう。
まあ、ノエルが吸えば傷は残らないんだけどさ。傷なんかいつでも店長が喜んで治してくれるし。いや、マナごと吸うから意味があるのかな。どちらにしろ、しばらくは遠慮したい。
ノエルは作業を再開しながら、会話を続けた。
「なんでそんな事訊くの?」
「えっと⋯⋯」
「ノイルも嫌じゃなかったでしょ?」
「嫌じゃないから、嫌なんだよね⋯⋯」
ノエルの吸血行為に伴う快楽は、他では味わえないような心地良さだ。何故そんな効果があるのかはわからないが、依存性が高すぎる。あまりにも危険だ。僕のような弱い人間では、いずれノエルの吸血だけを求める生き物になってしまいかねない。今でさえ最底辺を這うような生き方をしているのに、ダメ人間というレベルですらなくなってしまう。
「ふふ、ノイルは正直だね」
「誤魔化してもしょうがないしさ⋯⋯」
気持ちよすぎてダメになるからやめてくれなど気持ち悪いことこの上ないが、制止すらせず物欲しそうにされるがままだった醜態を見せ、その結果こうして動けなくなっている現状、みっともなさはとっくに上限を振り切っている。今更取り繕った所で意味などない。そもそも僕にプライドはない。
「大丈夫だよ、ちょっとやりすぎちゃったけど、その分たくさんもらったから。血を飲むのも我慢できたし制御できるようになれば、衝動的に吸血する事もなくなると思う」
それは⋯⋯逆に言えば《深紅の花嫁》は制御できないと衝動的に血を吸う可能性がいつでもある、ということではなかろうか。
ねえ、もうその
「ねえ、もうその魔装使うのやめない?」
考えが声に出た。
「やだ」
「あ、はい」
即答だった。
ノエルは最後の一本に血を詰め終わると、しっかりと蓋をして両手で持ち上げる。
「出来た! ラブボトル!」
「それはおかしいね」
「えへへ」
えへへじゃない。
可愛らしいがえへへじゃない。
と、その時部屋に軽やかなベルの音が鳴り響いた。これは先程ノエルが頼んだルームサービスだろう。
何やら壁の中に取り付けられた管を前に、四苦八苦しながら貧血の僕のために食事を注文してくれたのだ。
僕は利用していないのでよくわからないが、ノエル曰く管の中に専用のケースを入れるとフロントまで届くという仕組みらしい。極力他の人と会わず、会話もしないで済むように考えられている。僕もうここに住もうかな。ここはプライバシーが守られている。
「はーい」
ノエルが返事をしながら部屋の入り口に歩いていったが、多分返事はする必要ないと思う。
すぐに料理を載せたワゴンを押して戻ってきた彼女は、照れくさそうにはにかんだ。
「料理だけ置いてあった。よく考えたらそうだよね、えへへ」
「そっか」
僕はクールな笑みで応える。急に普通に可愛いのはやめてほしい。リアクションに困る。最近のノエルは緩急が凄まじい。まるでスイッチでもついているかのように雰囲気が変わる。何とかこういう純粋な方面だけでいてくれないものだろうか。
「わっ、凄い! 美味しそうだよノイル」
ワゴンをベッドの脇まで運んだノエルは、皿を覆っていた銀の蓋――クロッシュを外し、瞳を輝かせた。
照りのあるレバーのステーキに、魚貝類と野菜がふんだんに使われているらしいシチュー、ほうれん草のソテーにおそらくあれはチーズオムレツだろう。それと、綺麗にカットされたフルーツがワゴンには載っている。
「貧血に効くものって注文しただけなのにね!」
この宿すごくない?
それに応えられるこの宿すごくない? もう僕本気でここに住むよ。
ノエルは感動したように手を合わせると、ベッドに腰掛けた。そして、まずはシチューとスプーンを手に取り――
「じゃあはい、ノイル。あーん」
何度か息を吹きかけて冷ますと、ごく自然な流れでシチューをすくったスプーンを差し出してきた。
「いや⋯⋯」
「起き上がれないでしょ?」
「あ、はい」
「じゃ、あーん」
にこにこしながら、ノエルは僕の口元へとシチューを運ぶ。無駄に抵抗しても意味がないので、僕は大人しく口を開けた。
具材の味が溶け出した濃厚なシチューは、しかしどこかさっぱりとしており、不思議な味がする。
「おいしい?」
「うん、普通のシチューじゃない気がする」
「え? んー⋯⋯ああ、豆乳かな」
シチューの匂いを改めて嗅いだノエルは、納得したように頷いた。どうやら僕の舌よりノエルの鼻の方が優れているらしい。実際に食べた僕は何か違うくらいにしか思わなかったのに。
「考えてくれてるね」
「うん」
「じゃあ、次はー」
僕にはわからないが笑顔のノエルを見る限り、多分貧血に良いのだろう。ノエルは機嫌良さそうにレバーをナイフとフォークで切り分け、自分の口に運んだ。
そして何度か咀嚼し――
「ノエルさん?」
僕へと顔を近づけてきた。
「ん?」
「何を?」
鼻が触れ合いそうな距離で動きを止めたノエルに、僕は必死に顔を逸らしながら尋ねた。彼女は一度口中の物を飲み込み、顔を離す。
「口移し」
「それはおかしいね」
「そう?」
「そう」
「でも寝たままじゃ食べにくくない?」
「僕、寝たまま食べるの得意なんだよね」
「そうなんだ?」
「そうなんだ」
だからやめようね。別に得意ではないけど。今得意になったからさ。本当やめてくださいお願いします。
別にさ、嫌悪感があるとかそういうのじゃないんだ。ただ明らかにおかしいんだよ。ノエル、それはおかしいんだよ。
「そっかぁ、わかった」
幸いにも、ノエルは口移しにはこだわらなかった。笑顔で頷き、今度はちゃんとフォークを使って僕の口へとレバーを運んでくれる。そうして、やたらテンションの高いノエルに手伝ってもらいながら、僕は食事を続けるのだった。
◇
「はーい、ノイル。大きく口開けてーごしごしするよー」
「はーい」
今日のノエルは、やはりかなりおかしい。
僕は半ばヤケクソ気味に口を開いた。身体がまともに動かないのもあるが、今のノエルを止めるのは難しい。
「ごしごし、ごしごし、ごしごし」
彼女は満面の笑みで僕の歯をブラシで磨いていく。まるで幼子に対する態度である。ノエルの中で僕はどんな存在なのだろうか。
「はい、いーってして」
「いー」
「えらいえらい」
頭を撫でられながら、ノエルから歯磨きされる。なんだろうこれは。僕は、何なんだろう。
「飲んじゃだめだからねー」
うん、僕飲まない。
ノエルからコップの水をゆっくりと口に注がれる。
「じゃ、くちゅくちゅくちゅ、ぺってしようか」
僕は顔を横に向け、ノエルの持った小さなボウルの中に、くちゅくちゅくちゅ、ぺってした。
「よくできましたー」
「わぁい」
あたまをなでられると、うれしいなぁ。
「じゃあ、ちょっとだけ待っててね。これ片付けてくるから」
「うん」
ノエルは僕の歯磨きに使った道具を片付けるため、洗面所の方へと歩いていった。
僕は、ノイル・アーレンス。二十歳。
立派な、大人。
彼女が片付けをしている間に、僕は自分を取り戻す。天井を見つめながら、僕は幼子じゃないと必死に自分に言い聞かせた。
その内に、ノエルが洗面所から戻ってくる。
そして、部屋の明かりを落とした。
「じゃあ、そろそろ一緒に寝ようね」
「僕はノイル・アーレンス。二十歳。立派な、大人」
「うん、そうだねー」
「僕はノイル・アーレンス。二十歳。立派な、大人」
「うんうん」
「だから、駄目だよ。一緒には寝られないんだ。大人だからね」
「ミリスとはよく一緒に寝てるのに?」
「僕はノイル・アーレンス。二十歳。立派ではない大人」
「もういいから」
ノエルはおかしそうに笑うと、躊躇うこともなく僕の隣へと潜り込んできた。こうなってしまえば諦める他ない。
寄り添うように横になったノエルの温かな体温が伝わり、鼻孔を花のような香りがくすぐる。僕はまーちゃんの事だけを考える事にした。
「ねぇ、ノイル?」
「⋯⋯⋯⋯何?」
必死に彼女を意識しないように努めていた僕に、ノエルは小さな声で囁きかける。
「こういうの、いいね」
良くないよ。
適切な距離ではないよこれは。
「⋯⋯こういうのって?」
「私が、ノイルのお世話をするの」
そう言って、ノエルは僕にそっと抱きついてきた。心臓がうるさくなり始める。
「このまま、私が血を吸ったら、ノイルはずっと動けないね?」
鼻先をノエルは首元に擦り付けてくる。
「そうしよっか?」
そして、殆ど口付けるように、耳元で囁いた。彼女の吐息と声が耳をくすぐり、ぞくぞくとした感覚が身体を奔る。
僕はゆっくりと、静かに大きく息を吐き出した。
「釣りにいけなくなるからやだ」
僕の答えを聞いたノエルは――
「言うと思った! ふふっあははは!」
心底おかしそうに笑いながら、僕から離れる。
もう一度、僕は大きく息を吐き出した。
「はぁ、もう寝ようよ」
「うん、そうだね。ふふ」
まったく、とんでもない冗談を言うものだ。まあ、ノエルがそんな事をするはずがない。それにこの様子だと、彼女はこれ以上は変な事をしないだろう。何か満足そうだし。
いや、一緒のベッドに入っている時点で変なことにはなっているが、そこはもう諦めている。
「おやすみ、ノエル」
「おやすみ、ノイル」
お互いに声を掛け合って、僕は目を閉じた。
眠れるか心配だったが、マナも血も足りていない今の状態の僕には杞憂だったらしい。
ベッドの寝心地が最高なのも手伝って、すぐに抗えない睡魔が襲ってくる。
「⋯⋯⋯⋯やっぱり、私が一番わかってる」
うつらうつらとした意識の中、そんな声が微かに聞こえた気がした。
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