第99話 乙女達の戦い


「出てこないね」


「うん」


 人通りの少ない道の端っこで、テセアと僕はしゃがみ込んで『私の箱庭マイガーデン』を眺めていた。

 僕が公衆トイレを出てからそれなりに時間が経つが、四人が出てくる気配はない。

 中からは外の様子は窺えないので、僕が戻ってきた事に気づいていないのだと思うが、それにしても長過ぎる。

 辺りは既に夕陽に染められており、このままでは夜になってしまうだろう。一体何をしているというのか、瓶の中の複数の点は相変わらず激しく動いている。

 道端にしゃがみ込む僕らに、ぽつぽつと歩く通行人は度々奇異の目を向けるが、皆直ぐに興味をなくしたように歩き去っていく。


「アリスとも繋がらない」


 テセアは右耳につけたイヤリングを指で揺らし、そう呟くと僕が買ってきたホロホロフライ串を一口かじった。途端、頬に手を当てて「んー!」と満足そうな声を上げる。どうやら気に入ったらしい。


 ホロホロフライは、アリアレイクに棲息するホロホロという魚の切り身に衣をつけて揚げただけの簡単な料理だ。王都ではそこら中で売られている物だが、これが中々美味しい。

 ホロホロは、生きている時は固い身の引き締まった筋肉質な魚で、引きが強く釣り人にも人気があるルアーフィッシングでよく狙われる魚だ。


 見た目は中々に厳つく、背ビレや腹ビレ、尾ビレは棘のように鋭く尖っており、体表も濃い茶黒のため、一見すると食用には向いていないようにしか見えない。

 実際、生のままでは身も皮も骨も何もかもが堅牢であり、『ホロカッター』という専用の魔導具がなければ捌く事すら困難である。釣り針も特別製でなければまず掛からない。


 しかしこのホロホロ、加熱すると生前とは比べ物にならない程に柔らかくなるのだ。ほろほろと、身も皮も骨も崩れる程にふわふわな食感になることから、ホロホロと名付けられたらしい。そのままであるが、食べてみるとなるほどと誰もが納得するだろう。

 しつこくないさっぱりとした脂の乗った淡白かつジューシーな身を持つこのホロホロは、広大な湖、アリアレイクの上に建つ王都の特産品の一つである。


 ⋯⋯釣りが、したくなってきたな。

 もう放っておいていいんじゃないかな。いやだめだよなぁ⋯⋯『神具』を道端に置いたままこの場を離れられないよなぁ⋯⋯。


「今は多分、忙しいから⋯⋯落ち着いたら話せるようになると思うよ」


 そんな事を考えながら、僕はテセアにそう言った。

 アリスは今トイレで全力で悪魔と戦っていることだろう。気を抜いたら持っていかれるから、そっとしておいてあげて。


「そっかぁ」


 テセアは頷くと、先程より大きく口を開けてホロホロフライを食べる。彼女、というか僕らの周りには、店長達を待っている間に食べた物のゴミがどんどんと増えていた。

 散乱させる事はなく、ちゃんとまとめているため咎められる事はないが――テセアって、結構食べるね。


 暇だったので、テセアに見張りを任せて僕が度々その辺りから適当に食べ物を買って来ているのだが、とうに僕なら限界だと思える量を超えても、彼女は平然と食べ物を口に運んでいく。

 僕はまだお腹が本調子ではないため、買ってきた物のほとんどはテセアが嬉しそうに平らげていた。


 まあ、これまでまともな食事を食べられなかったテセアにとってはどんな味でも全てが新鮮で、幾らでも食べてみたいのだろう。

 気持ちは良く理解出来るし、何か食べる度に反応が一々可愛いので、僕としても幾らでも食べさせてあげたいのだが、彼女の限界は一体どこにあるのだろうか⋯⋯?


 歓迎会の時も思ったのだが、明らかにおかしな量を食べて何故平気なのだろうか。その細い身体のどこにそれだけの量が入っているのか。この世は不思議である。

 シアラだったら、今テセアが平らげた量の半分の、半分の、半分⋯⋯多分そのくらいで、可愛らしく「ぷふぅ⋯⋯」って声を漏らす。

 まあ、どっちも愛らしい事に変わりはない。


「テセア、ついてるよ」


「へ、ほんほほんと?」


 僕が自分の口元を指差して、衣がついていることを教えて上げると、口いっぱいにフライを頬張っていたテセアは、慌てたように手を伸ばそうとして、ぴたりと止めた。

 そして、何事か考えるように顎に手を当てたままもぐもぐと何度か咀嚼し、口の中の物を飲み込む。

 どうしたのかと見ていると、彼女は僕に向かって少し照れくさそうにはにかんだ。


「えへへ、取ってお兄ちゃん」


「うわなにかわいい」


 迷うことなく僕はテセアへと手を伸ばし――


「え」


「え?」


 突然栓が開いた瓶――『私の箱庭』の中へと吸い込まれるのだった。







「何でだ⋯⋯!」


 『私の箱庭』内部に広がった平原で、僕はまず状況を確認することすら忘れ、膝から崩れ落ち、地面を殴りつけた。

 あまりの悔しさに、涙が零れそうになる。

 もう少しだけ、テセアと穏やかで幸福な時間を過ごしていたかった。

 過酷な毎日で擦り減った僕の心は、癒やされていたところだったんだ。

 だというのに、何故こんな間違いなく面倒くさい事になっている空間に招待されなければならないのか。


「こんな仕打ちがあるかよ⋯⋯!」


 拳を地面に再度叩きつける。こんな横暴が許されていいわけがない。僕は店長という存在を絶対に許さない。


 そう思い、顔を上げた瞬間だった。

 目の前に、空色の細かな刺繍が施された下着に包まれたおっぱいが現れたのは。


「おぶっ」


「先輩!!」


 視界いっぱいにおっぱいが広がったと思った矢先に、僕の顔は極柔らかな感触に包まれた。

 温かくしっとりと汗ばんだ滑らかな肌。柔らかな双丘の間に顔を挟まれ、抱きしめられたらしい僕は、その常軌を逸したボリュームから、間違いなくフィオナだと確信した。


 ていうか、息が、あの息がこれ⋯⋯。


「んー! んー!」


「ああ、良かったです先輩。お腹は大丈夫ですか? どこも苦しくないですか?」


 凄く苦しいです。

 窒息しそうです。

 おっぱいで死にそうです。


「んー!」


「あんっ⋯⋯先輩、そんなに激しく⋯⋯!」


「ぶはっ! はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯」


 何とか力尽くで死地おっぱいから脱出した僕は、フィオナの両肩を掴んで引き離した。

 そして、呼吸を整えながら改めて彼女を見て――


「何で服着てないの?」


 そんな素直な疑問が口を衝いた。


 フィオナは何故か下着姿だった。

 銀翼と首輪――《ラヴァー》が妙なアクセントとなっており、背徳感といかがわしさがとんでもない事になっている。

 とんでもない事になっている。


「ああ、それは――」


 笑顔で答えようとしたフィオナの姿が、言葉の途中で一瞬で目の前から消えた。いや、何かに吹き飛ばされた。


「え、フィオ――」


「ノイル」


 慌てて彼女が吹き飛んだ方向に視線を向けようとした僕の顔を、誰かが両手で挟む。

 そして、無理矢理に顔の向きを戻された。

 視界に入ったのは、蕩けるような笑みを浮かべた――ノエルの顔だった。


「会いたかったぁ」


「の、ノエル⋯⋯? その、フィオナが⋯⋯」


 誰だ、これは。

 確かにその顔はノエルだ。

 けれど、誰だ、これは。

 普段の彼女の雰囲気からは、あまりにもかけ離れ過ぎている。

 ぞっと背筋を悪寒が駆け抜けた。


 まるで血を思わせるかのような深紅のドレスを纏った彼女は、あまりの衝撃に動く事のできない僕の背中へと両手を回す。

 そして、耳元でどこか淫靡に囁いた。


「大丈夫だよぉ⋯⋯ちょっと撫でただけだからぁ⋯⋯あはっ」


「あ、はい」


 撫でたって⋯⋯それはつまり、フィオナを吹き飛ばしたのはノエルだという事だろうか。そんなバカな。ノエルはそんな事はしないし、それにフィオナを吹き飛ばせる程の戦闘力もないはずだ。というより、集中していなかったとはいえ、僕にも見えなかった。


 ミーナを思わせる程の速度で動けるなど、あり得ない。一体彼女に何があったというんだ。


「それより、ね? 食べていい?」


「は?」


「いただきまぁす」


 僕が混乱していると、ノエルは突然そんな事を言い出し――僕の首筋を突然噛んだ。


「あ、がっ⋯⋯」


「んふ、んふふふ」


 一瞬鋭い痛みが奔り、次の瞬間には身体から何かが吸い取られる。

 今まで味わった事のないその感覚に、僕は堪らず声を上げた。だが、不快ではない。不快どころか、身体には甘い快楽が奔る。

 なん⋯⋯だ、これは⋯⋯。


「兄さんに、触るなッ!!」


 抵抗も出来ず、ノエルにされるがままだった僕の耳に、鋭い声が飛び込んで来た。


「ぐ、はぁ⋯⋯!」


 それと同時にノエルが僕から引き剥がされ、甘く痺れていた身体が自由を取り戻す。大きく息を吐き、噛まれていた首筋に手を触れると、べとりと血が流れていた。


「⋯⋯なんで、邪魔するかなぁ?」


 血の付着した自らの手のひらを見て、戦慄していた僕は、その声ではっと顔を上げる。

 口元を血で染めたノエルが、黒い鎖に絡め取られ、不快げに眉を顰めていた。

 彼女の手足に巻き付く黒い鎖の先に居るのは――


「シアラ! ノエルがおかしい!」


「知ってる。元からおかしい。化けの皮が剥がれただけ」


 幾本もの鎖を持ったシアラは、ノエルへと鋭い視線を向けていた。


「⋯⋯あはっ答えないなんて、悪い子だぁ!!」


「ッ⋯⋯!」


「速っ⋯⋯!」


 シアラへと駆け出したノエル、その速度に僕は目を疑った。視認困難なそのスピードは、本気でミーナと遜色がない。


「⋯⋯血を吸って、能力が上がった。面倒」


 しかし、それ程の動きをするノエルを見ても、シアラは冷静だった。

 《魔女を狩る者ウィッチハンター》の片腕だけを発現させ、片手で鎖を持ったままノエルの暴力的な踵落としを防いでいた。


「でも、『血染めの舞踏会オリジナル』には及ばない」


「あはっ、止められちゃったぁ」


「所詮、創ったばかりの魔装マギス。使いこなす前に――潰す」


 シアラの言葉と共に、未だノエルに絡まる鎖が蛇のように動き、彼女の軸脚を勢い良く引いた。当然ノエルは大きくバランスを崩す。

 瞬間、鎖は消え、シアラのもう片腕が巨大な漆黒の鎧と化し、ノエルへと拳を叩きつけた。

 その威力にノエルは吹き飛び、地面を転がる。


「⋯⋯⋯⋯兄さんの、血を吸った罰」


 僕はただ、呆然と見ている事しかできなかった。

 何が起きているのかまるで理解が出来ない。

 絶対に面倒な事になっているとは思っていたが、面倒な事どころではなかった。


 シアラが、ゆっくりと僕へと歩み寄ってくる。

 そして、目の前で立ち止まると両手を広げ――


「⋯⋯⋯⋯頑張った。ご褒美のちゅー」


 そんな事を言ってきた。

 いや、ちょっと流石に今は、状況を整理させて欲しいかな。

 絶対にそんな事をやっている場合ではない。

 フィオナとノエルが心配だし。


「シアラ、今はその⋯⋯」


「ちっ」


「え」


 シアラが突然舌打ちし、僕は動揺した。

 しかし、どうやらそれは僕に向けたものではなかったらしい。

 彼女が己の身を守るように《魔女を狩る者》の片腕を発現させた瞬間、複数の甲高い金属音のようなものが辺りに鳴り響いた。そして、鎧の表面では火や雷が発生する。


「調子に乗らないでもらえますか?」


「⋯⋯⋯⋯そのまま寝てれば良かったのに」


 シアラが忌々しげな視線を向けた先、そこには口の端から血を流したフィオナが立っていた。

 相変わらずの下着姿ではあるが、今はゴーグルも装着し、臨戦態勢となっている。凄く背徳的な姿な気がするが、多分臨戦態勢だ。


 鎧の腕を一瞥したシアラは、僅かに目を見開いた。


「⋯⋯⋯⋯傷?」


 魔法に対して絶大な防御力を誇る《魔女を狩る者》の腕だが、そこには極小の穴が穿たれている。それはフィオナの攻撃が、確かにダメージを与えている事を意味していた。


 ⋯⋯ていうかさ、何で戦ってるの君たち?

 ノエルがおかしくなっちゃったから止めてたわけではないんだね。

 じゃあ何で戦ってるの本当。


「うーん、ちょっと痛かったかなぁ。アハハハハハハハ!」


 うん、それで⋯⋯ノエルはシアラの一撃を受けてちょっと痛いで済むんだ。

 僕はいつの間にか立ち上がって狂ったような笑い声を上げるノエルに、驚愕した。


「不意打ちするなんて、本当に汚い女ですね。あなたは」


「あはっ、だってノイルが困ってたからぁ、消さないといけないと思ってぇ」


「⋯⋯⋯⋯本当、面倒。まとめて潰す」


 フィオナ、ノエル、シアラのそれぞれが言葉と視線を交わす。

 僕はもうテセアの元に帰りたくて仕方がなかった。

 というより、店長どこ? ねぇ、助けて店長。


「うわ!」


 僕がそう思った瞬間、突如背後から抱きかかえられ、身体が宙に浮いた。

 所謂お姫様抱っこというやつだ。そのまま上空(といっても瓶の中だが)に運ばれた僕は、その人の腕の中でほっと一息吐いた。


「まったく、何をやっておるんじゃ」


 聞き慣れた鈴を転がすような声。

 僕を抱きかかえていたのは、店長だった。

 まったく、遅いよ何やってんの。

 さあ、早いとこ三人を止めてください。


「――お主らの相手は、我じゃったじゃろう?」


 ああ、あなたが原因だったのね。


 僕はにやりと嗤う店長を見て、もうだめかもしれないと思うのだった。

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