第88話 テセア・アーレンス
「⋯⋯⋯⋯私は、間違っていた」
「⋯⋯うん」
『
彼女の向かいに座ったテセアは、神妙な面持ちで頷く。
「⋯⋯⋯⋯兄さんは、成長してた」
「⋯⋯うん」
いつも通りの淡々とした声。
しかし、二人の間に流れる空気は張り詰めていた。
「⋯⋯⋯⋯私も、このままじゃいけない」
「⋯⋯うん」
シアラの瞳は至って真剣だ。表情は変わらないが、彼女が本気で自分に語りかけている事がテセアにはわかる。
だから自分も真剣に応えなければならない。十六年振りに再会した、妹の相談に。
彼女と話すのはどんな事でも楽しいし、二人でもっと過ごしたい。これから二人で、失われた姉妹の時間を取り戻すのだ。
「⋯⋯⋯⋯だから、教えてほしい」
「⋯⋯うん」
しかし――
「⋯⋯⋯⋯どうやったら、そんな胸になる?」
「⋯⋯わかんないってば」
これにはほとほと参っていた。
もう何度目かのやり取りを繰り返したテセアは、自身の胸に視線を落としながら疲れたように口を開く。
「その、何度も言ってるけど、多分⋯⋯食べ物が良かったんだと思う」
「⋯⋯⋯⋯でも、それはもうない」
「⋯⋯そうだね」
「⋯⋯⋯⋯なら、どうしたらいい?」
「⋯⋯わかんないってばぁ」
テセアにはどうしようもない問題だ。彼女は別に胸を大きくしようと思っていたわけではない。自然と、そうなっただけだ。
テセアにどうにかできるような事ではなかった。
「⋯⋯⋯⋯もう一度、言う」
「待って、待ってシアラ。もういいから」
「⋯⋯⋯⋯私は、間違っていた」
「もういいから!」
再びループし始めたので、テセアは慌ててシアラを止めて額に手を当てた。そして一つ息を吐き、自分そっくりの、全く変化のない無表情な妹を見る。
「あのね、私はわかんないから⋯⋯フィオナさんに聞いてみたら?」
現在テセアはフィオナの衣服を借りている。それが、最も彼女の身体に合うサイズだったからだ。つまりはフィオナも自分と同じくらい――いや、それよりも少し大きい。まあそんな事は見ればわかる。
ならば彼女に聞いた方がいいだろう。自分よりもよっぽど的確なアドバイスをもらえるはずだ。
そう思い、妹へと提案したのだが――
「⋯⋯⋯⋯私は、間違っていた」
「嫌なんだね。嫌なんだねわかった一緒に考えよう」
シアラは再び振り出しに戻ろうとした。
テセアは仕方なく彼女を急いで止める。
ここ数日の間でなんとなく、というより明らかにそうだとは思っていたが、妹とフィオナは相性が悪いらしい。
かなりぎすぎすピリピリとした空気が漂っているのは見ていてわかった。
いや、どうやらノイルの周りの女性はほぼ全員が全員を敵と捉えている節がある。
一見笑顔を浮かべて会話をしているように見えても、どこか牽制し合っているように感じてしまうのだ。まだ人間関係などに疎いテセアですらそう感じるのだから、ほぼ間違いなくそうなのだろう。
今だって、まだ眠りについているノイルの側に居る人は交代制となっている。制限時間が設けられており、互いが互いを監視するためなのだろうか、一人での面会は基本的に許されていなかった。
はっきり言ってしまえば、意味がわからない。
仲が悪い⋯⋯わけじゃないんだろうけど⋯⋯やっぱり悪いのかな。
わかんない。
テセアには彼女たちの関係性がいまいちよく理解できなかった。
けれど、それすらも楽しく感じてしまう。
以前のテセアは、理解出来ない事に極端に弱かった。《
しかし今は、わからない事が楽しくて仕方がない。
外の世界は、見るもの触れるもの全てが新鮮だ。知らないからこそ、全てがテセアに驚きや感動を与えてくれる。
一つ一つ、知っていくことが楽しくて仕方なかった。
テセアはもう《
世界は未知のものに溢れていて、こんなにも素晴らしいのだから。
テセアは困り果てながらも、目の前の少し困った妹に笑顔を向ける。
「⋯⋯⋯⋯よろしく、姉さん。私は兄さんの成長したアレに相応しい、身体になりたい」
「⋯⋯⋯⋯」
そしてそのまま固まった。
「⋯⋯⋯⋯アレって?」
固まった笑顔のまま、少し変な妹に恐る恐る尋ねる。
「⋯⋯⋯⋯ちんち――」
「シアラ? シアラ?」
「⋯⋯⋯⋯何?」
「やっぱり⋯⋯言わなくていいかな」
躊躇せずにとんでもない事を口走ろうとした妹に、テセアは頭を抱えてしまう。
おかしい、この子は絶対におかしい。
流石にこれはテセアでも理解できる。
テセアは別に今の発言に羞恥などは感じないが、あまりそう言った事を口にするのはよろしくない事くらいは知っている。男性ならともかく女性ならばもっとよろしくない。
いくら外に出た事がなかったとはいえ、一応常識と言える範囲の知識は持ち合わせているのだ。
それに照らし合わせて考えると、今のは大変よろしくないはずだった。
しかも、妹は何故男性のそれと、女性の胸を比べているのか。全くの別物で大きさの差など関係ないはずだ。
関係ない、はずなのだ!
自分が間違えているのだろうか。男性のそれと女性の胸は釣り合ったサイズでなければダメなのだろうか。そんなわけがない。
そんなわけが、ないのだ!
テセアは頭がおかしくなりそうだった。
加えて妹は妹なのだ。
テセアにとってという意味ではない。
ノイルにとっても妹なのだ。
確かに血は繋がってはいないが、妹なのだ。
妹、なのだ!
何故、何故兄のアレと自らの胸を比べているのか。
何故、比べているのか!
ノイルの愛情は兄妹に対するそれであったように思う。シアラを愛しく思う今ならば、ノイルの彼女を思う気持ちがよくわかる。
しかし、シアラがノイルに向けている愛情は明らかに質が違う。
「⋯⋯⋯⋯そう。兄さんとえっ――」
「シアラ? シアラ?」
「⋯⋯⋯⋯何?」
「シアラにとってノイルは、兄さん、なんだよね?」
「⋯⋯⋯⋯そう。だからえっ――」
「シアラ? シアラ?」
「⋯⋯⋯⋯何?」
「私が間違ってるかもしれないから、確認するね? ⋯⋯普通の兄妹ってその、そういう事もするの?」
「⋯⋯⋯⋯そう。スキンシップとして、これは、常識」
「シアラ? シアラ?」
「⋯⋯⋯⋯何?」
「他の人にも聞いていい?」
「⋯⋯⋯⋯ダメ」
やはり一般的な兄妹はそういう関係にはならないらしい。だとしたらシアラの想いはあまりよろしくないのではなかろうか。
テセアは悩んだ。
悩んだ結果、頭がおかしくなりそうだった。
なので結局は全てをノイルに任せる事にした。
彼ならば、きっと上手くやってくれるだろう。悪いようにはしないはずだ。
シアラを泣かせるような事はせず、何とかしてくれるだろう。例えそれが禁断の恋であっても。
テセアは今となってはノイルへと全幅の信頼を寄せていた。
彼は彼女にとっての英雄なのだ。
普段のノイルを、テセアはまだ知らない。
彼の本来の責任感の無さといい加減さを、テセアは知らなかった。
「それと、その⋯⋯私も一応妹になったんだけど⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯ダメ。実は、常識じゃない」
「わかってる、するつもりないから⋯⋯」
大丈夫だろうか、この子は⋯⋯。
テセアは相変わらず無表情の妹の事が、少し心配になった。
それにしても妹――妹、か。
今のテセアのフルネームは、テセア・アーレンスという事になっている。
神天聖国の関係者であった彼女が厄介毎に巻き込まれないよう、シアラと瓜二つの容姿を不自然だと思われないよう、アーレンスを名乗る事となったのだ。
つまり、ノイルの妹――家族だということになる。
身分証や戸籍の問題は、ミリス・アルバルマが「そんなものは何とでもなる」と言って実際何とかしてしまった。
こうしてテセアはアーレンス家の一員となったのである。
見た事すらないノイルの父はこの事実を知らないが、後日手紙で伝えるとシアラは言っていた。
手紙程度で納得するのかと尋ねると、「父さんなら大丈夫」と返された。
突然全く知らない娘が一人増えたようなものなのに、手紙程度で大丈夫なノイルの父とは一体どんな人物なのだろうか。
気にはなったが、直ぐに挨拶と説明に行くことも出来ないため、テセアはとりあえずは皆の厚意に甘えさせてもらうことにしたのだ。
テセアは自身の頭にそっと触れた。
思い出すのは、優しく撫でてくれたあの温かな手の感触。穏やかな笑顔。
あれが兄という存在なのだろうか。
自分をシアラと重ねて見ていたのだとしたら、あれはノイルの兄としての顔や手付きだったのだろうか。
妹――妹、かぁ。
「早く起きないかな⋯⋯お兄ちゃん」
ぽつりと、小さな声でテセアはそう呟いてみた。
そして微笑む。突然自分がそう呼んだら、ノイルは驚くだろうか。どんな反応をしてくれるだろう。また頭を撫でてくれるだろうか。
早く一緒に服を買いに行きたい。美味しいご飯を食べに行きたい。
テセアは王都に来てから、あまり外に出てはいなかった。本当は今すぐにでも都市を見て回りたい気持ちはあるが、それはノイルと一緒でなければならない。服を選んでもらい、美味しいご飯を食べさせてもらう。
彼は、そう言ってくれたのだから。
兄が無事に目覚めるのを、テセアは心待ちにしていた。
「⋯⋯⋯⋯ダメ」
「え?」
突然そう言われ、テセアは顔を上げる。
気づけば、シアラにじっと見つめられていた。
「⋯⋯⋯⋯お兄ちゃんは、ダメ」
どうやら先程の呟きをしっかり聞いていたらしい。
「⋯⋯⋯⋯私と、被る」
被るから何だと言うのか。
「⋯⋯⋯⋯姉さんは、姉」
「う、うん」
「⋯⋯⋯⋯妹は、私」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯姉さんも兄さんの妹になったけど、姉さんは姉だから、妹じゃない」
「ごめん⋯⋯ちょっとわかんない」
「⋯⋯⋯⋯つまり、姉さんは姉さんで私は私だから私が妹」
「う、うん⋯⋯?」
「⋯⋯⋯⋯妹である私が妹だから、姉さんは姉さんで居て」
「う、うん⋯⋯」
私の妹は、本当に大丈夫だろうか⋯⋯。
テセアは不安になった。
まあつまりは、妹として兄に甘えていいのは自分だけ、と言いたいのだろう。
「⋯⋯⋯⋯姉さんは、私に甘えればいい」
そう言って、シアラは両手を広げた。
くすり、とテセアは一度笑って立ち上がり、彼女の前に移動するとその腕の中に遠慮なく飛び込む。
全くこれではどちらが姉かわからない、と満面の笑みを浮かべて。
「⋯⋯⋯⋯よしよし」
背中を撫でるシアラに抱きつきながら、テセアは提案する。
「たまになら、ノイルの前で妹になってもいいよね?」
「ダメ」
返事は鋭く早かった。
「⋯⋯一回だけ」
「ダメ」
テセアは頬を膨らませた。
特にノイルをどうこうする気などないのに、シアラは独占欲が強すぎる。仕方ないのでこっそりやろう。
そう思い、文句を言っておいた。
「ケチ」
「⋯⋯⋯⋯わがままは、妹の特権」
「私だって妹だもん」
「⋯⋯⋯⋯姉さんは、姉さん」
「もう、仕方ない妹だなぁ」
「⋯⋯⋯⋯甘えん坊な、姉さんだなぁ」
「ぷふっ」
「⋯⋯ふふ」
二人の口から、笑い声が漏れた。
そのまま、二人は笑い合う。テセアは楽しそうに声を上げて、シアラは目を閉じて静かに。
対照的な笑い方であるにも関わらず、そっくりな顔で。
双子の姉妹は、しばらくの間笑い合うのだった。
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