第82話 兄の背中
暗闇の中に落ちて落ちて――沈み続ける感覚。
それが、妙に心地良かった。
『――イル』
ん?
『ノイル』
誰かが――僕を呼んでいる。
何だろう。一体何の用だろうか。
悪いけど、今は応えられないよ。
もう、起き上がれないんだ。
⋯⋯⋯⋯?
僕は何で起き上がれないんだ?
何を――してたんだっけ。何か大切な事をしていた気がする。どうしても、成さなければならなかったことがあった気がする。
いや、もういいか⋯⋯何だかすごく疲れている。このまま眠ってしまおう。
あれ? そもそも今僕は起きているんだろうか、それとも眠っているんだろうか。
⋯⋯よくわからないな。
身体の感覚がない気がする。意識もあまりはっきりしない。何も見えないし、何も聞こえない。
聞こえないはずなのに――
『君がもう無理だと言うのなら、自分たちもそれに従うよ。君と一緒にいくことに、躊躇いはない。誰も君を責めないし、君は本当に良く戦った』
頭に――心に響くようなこの声は、何なのだろうか。
『だけど、まだやるんだろう?』
うるさいな。静かにして欲しい。眠れないじゃないか。
『違うよ、君は初めから眠るつもりなんてない』
⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
何で、そんな事までわかるのだろうか。
そうなんだ。このまま何処までも沈んでいけたら、眠ってしまえば楽だとわかるのに――何故か眠れないんだ。
どうしたらいいんだろう?
『立ち上がってくれ』
どうやって?
『手を貸すよ』
身体が動かないんだ。
『大丈夫、彼女が治してくれた』
彼女?
『目を覚ませばわかるよ』
そっか⋯⋯そうか。
『ああ、だから起きてくれ、自分たちの王よ』
王? はは、面白い冗談だね。
僕には似合わないにも程がある。
『ふふ、ノイルはそれでいいよ。自分たちが勝手に思っているだけだ。君は忠義を尽くすべき相手だとね』
君は――君たちは一体誰?
『自分たちは『
六重奏?
『音楽を奏でるわけじゃないけどね。君に捧げよう、自分たちの力を。既に準備は出来ている』
身体が――意識が徐々に暗く沈んだ世界から引き上げられていく。僅かに差し込む光へと、浮上していく。
『さあ、目覚めの時だ――』
その声は、暗い泥濘に囚われた僕を救い出す。
「
導かれるがままに、僕は自然とその言葉を発する。
「《六重奏》」
瞬間、柔らかな光に包まれ――意識は覚醒した。
◇
シアラの視界は、部屋へと突入し、血溜まりに倒れ伏すボロ雑巾のようになったノイルを見た瞬間、真っ赤に染まった。
側に立つテセアなど、もはや全く視界に入らなかった。
ただ――ノイルを、最愛の兄を見るも耐えない程の姿にしたであろう機械兵へと、その筆舌に尽くし難い怒りを瞬時にぶつける。
平時からは想像もできない咆哮を上げ、何の計算もなければ、勝算すら度外視した感情のままの稚拙とも呼べる特攻を、機械兵へと仕掛けた。
殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
絶対に、許しはしない。
殺意と怒りに支配されたシアラは、冷静さを完全に失っていた。
ただ力任せに殴る。蹴る。反撃をされようが、それを意にも介さず拳を、足を振るい続けた。
単純、余りにも単純な動きではあるが、《
大抵の者なら成すすべなくその嵐の様な暴威に呑まれ、蹂躙されただろう。
しかし、相手は《魔女を狩る者》に劣らない機械兵だ。力技だけで押し切れるような相手ではない。
その上、最も正常な常態であるアイゾンの魂が入り込んでいる。
アイゾンの戦闘能力は高い。長きに渡り生きてきた男に、いくら天才といえどたった十六の、しかも冷静さを欠いたシアラの動きなど、脅威にはなり得ない。
まともに受けたのは、不意を突かれた初めの数発だけだ。
勝敗など、火を見るより明らかであった。
「フゥー⋯⋯フゥー⋯⋯殺す、殺すぅ⋯⋯!」
「まったく、野生の獣の方がまだ知性的だぞ、冒涜者が」
両腕を失い、漆黒の鎧の至る所がひしゃげ欠けた姿となっても、未だ荒い息を吐き殺意を迸らせるシアラ。対するアイゾンの方には大したダメージは見受けられない。
シアラが冷静であれば、もう少し結果は変わっていただろう。
少なくとも、これ程早く深手を負うことはなかったはずだ。
戦闘が行われた時間は短かった。
防御や回避すら行わなかったシアラは、僅かな時の間に両腕を失ってしまった。
そして――
「ぐ、あッ⋯⋯!!」
アイゾンの手の平から放たれた光線により、片脚すらも失う。
膝辺りから脚を吹き飛ばされたシアラは、大きくバランスを崩しその場に倒れた。
もはや打つ手はない。
「あああああああああああああッ!!!!」
「何ッ!?」
しかしそう思われた瞬間、シアラの叫び声と共に漆黒の鎧の全身から幾本もの黒い鎖が伸びた。
それは空中を蛇のようにうねり、機械兵の身体を拘束する。
《
再会した際には二度とノイルを離さないという強い想いから生まれたその魔装が持つ力は、対象の捕縛、拘束。
だが――
「こんな粗末な物で! リュメルヘルク様の至高の品を止められると思うなぁッ!」
あくまでも、《絆ぐ鎖》が絶大な効力を発揮するのは、ノイルに対してだけだ。
ノイルを対象として創造した力は、他の者には働かない。
それでもその魔装自体が強力なものである事には変わりはないが、機械兵を止められるほどではなかった。
シアラの最後の足掻きでしかない。
あっさりと、いとも簡単に《絆ぐ鎖》は引き千切られた。
そして、アイゾンはもはや動く事もままならないシアラへと悠然と歩み寄り、残った片脚へと光線を放つ。
「ころ、す⋯⋯殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すぅッ!!」
「醜い。やはり地上のゴミは醜いな。汚物と変わらん」
四肢を失ったシアラは、アイゾンに頭を掴まれ、高く持ち上げられた。
「神域を汚した罪、その身を持って償え!!」
そして、目を覆いたくなるほどの勢いで、床へと投げつけられる。
「あっ、かはっ⋯⋯」
叩きつけられた衝撃に、シアラの息は詰まり、鎧の中で吐血する。
一度大きく跳ねた漆黒の鎧は、重い音を立て再び床へと落下した。
ダメージが限界を超えた《魔女を狩る者》は消失し、後に残されたのは虚ろな目で仰向きに倒れたシアラだけだった。
「こ、ろ、す⋯⋯ころ、す⋯⋯⋯⋯⋯⋯ご、めんな、さい⋯⋯にい、さん⋯⋯⋯⋯」
うわ言のようにアイゾンへの殺意を呟いていたシアラの口から、謝罪の言葉が漏れ、その瞳からは涙が零れた。
自分が、自分がついていなかったから。
ノイルは自分が居ないと何もできない人なのだ。何もできないのに――頑張ってしまう人なのだ。
だから自分が側に居て、助けてあげなければならなかった。それが、出来なかった。
だからノイルはあれ程傷ついてしまった。
その上、傷を負わせた相手にも、こうして無様に敗北した。
彼の為に、何もしてあげられなかった。
何と、不甲斐ないのだろう。
もうシアラは何もできない。
ノイルを助けてあげることも、己を失う程に憎い相手を殺すことも。
「ごめん、なさい⋯⋯⋯⋯!」
「ふん、今更謝罪したところで終わると思うな。貴様を嬲り殺した後、直ぐにもう一人も⋯⋯む?」
顔をくしゃくしゃに歪め、涙を流すシアラを見たアイゾンは、歩みを止めた。そして、驚愕したかのように一歩後退る。
「ま、まさか⋯⋯いや、そんな⋯⋯こ、こんな事が⋯⋯」
そして、明らかな歓喜の声を上げた。
「神子様が! お戻りになられたぁッ!!」
シアラの顔を見て気づいたのだろう。彼女が、十六年前に消えた赤子であることに。
「おぉ⋯⋯おおぉぉぉぉ⋯⋯!! 素晴らしい! このような奇跡が! やはりリュメルヘルク様は私を愛して居られるのですね!」
その場に片膝をつき、アイゾンは両手を組む。
「だが⋯⋯ふむ、《
喜びに打ち震えていたアイゾンは、しかし次の瞬間には思い直したように呟く。先の戦闘で、シアラが二つの魔装を用いた事を思い出したのだろう。
「お労しや⋯⋯それ程の才を持ちながら⋯⋯私が側に居なかったばかりに⋯⋯申し訳ありません」
突如襲いかかられた事など、もはやアイゾンの頭にはないのか、それとも何か都合良く解釈したのか、シアラへの態度は激変していた。
だが、それは彼女にとって決して幸運などではない。
「しかし大丈夫です。現神子様の魂をその身に移しましょう。それにより、神子様は完成するでしょう。双子の身ならば相性も悪くはないはずです。元々一つだったのですから、元に戻るだけですよ。さあ、それではまずその邪魔な魂は破壊してしまいましょうか」
アイゾンの言葉は、もはやシアラの耳には入っていなかった。
共に来たノエルの戦闘力では助力は期待できない。『血染めの舞踏会』も血を使い果たしている。戦力にはならないだろう。
終わりを悟った彼女は、ぼんやりと、過去の事を思い出していた。
兄は――ノイルは、敢えて離れるまでは、何時だって自分に優しかった。
彼はどこまで自分を大切にしてくれるのか試したくて、シアラは色んな事をやった。
わざと森の中に隠れた時は、彼はぼろぼろになりながらシアラを探し出してくれた。
そして、自身のほうが遥かに汚れて傷を負っていたにも関わらず、シアラのために傷を癒やす魔装を生み出し倒れた。
わざと野良犬にちょっかいをかけ、追いかけられている振りをした時は、彼は震えながらも、野良犬の前に立ちはだかった。
そして、守るための魔装を生み出し、上手く扱えないながらも、その盾は決してシアラの側を離れず、自身は野良犬に襲われていた。
その他にも、彼がシアラのために頑張ってくれた思い出は、沢山ある。
ノイルにとってはどれも失敗しただけの苦い思い出かもしれないが、シアラにとっては何よりも心が満たされる思い出だ。
シアラはノイルを試す時、決まってある台詞を口にした。
助けて、兄さん――と。
本当は助けてもらう必要など一切なかったが、そう言えばノイルも必ず
ちっとも頼りにはならないし、結局はシアラは自分で起こした事件を自分で処理していたが、そんな日常がシアラはどうしようもなく嬉しくて、温かくて、何度も兄に迷惑をかけた。
「助けて⋯⋯」
ぽつり、とそんな言葉がシアラから漏れた。
何かを、期待したわけじゃない。
ノイルは生死すら定かではない状態だ。
『命の雫』が、どれ程の効果を持つのかもシアラは知らない。
それに回復し、立ち上がれたとしても、彼に一体何ができるというのか。
シアラですら敵わない相手なのだ。頼りないあの人に、何かできるとは思えない。もう一度痛めつけられるだけだ。
むしろ、立ち上がれたのなら直ぐに逃げていて欲しい。
今回はシアラが起こした事件とはわけが違うのだ。本当に、危険なのだ。
だから、何もできなくても頑張ってしまうから、ノイルには逃げていてもらいたい。
大好きな人には、生きていてもらいたい。
「助けて⋯⋯」
助けを期待したわけじゃない。
シアラは一度だって、本当に助けて欲しくてこの言葉を口にした事などない。
ただ、最後に何となく言いたくなったのだ。
「助けて⋯⋯」
それだけの、はずだ。
思い出深いこの言葉を、口にしておきたかった。
ただ、それだけ。
そうすれば、素敵な想い出と共にいける気がして。
「助けて⋯⋯」
それだけの、はずなのだ。
ノイルに今の自分を救う力などないと、わかっているはずなのだ。
危ない目に合わせたくなど、ないのだ。
「助けて⋯⋯」
なのに、何故この口は未だ言葉を漏らすのか。
「たす、けてぇ⋯⋯」
シアラの瞳から再び涙が溢れた。
彼女へと歩み寄ったアイゾンが、ゆっくりとその手を伸ばす。
シアラは、ぎゅっと目を瞑り、気づけば叫んでいた。
「たすけてぇっ! にいさぁん!!」
その瞬間、彼女を温かな光が包む。
過去に感じた事のある、温かな光が。
傷ついた身体が、癒やされていく。
シアラは呆然と、目を開いた。
アイゾンの方を見れば、金色に光輝く半透明の盾が、機械兵の手を止めていた。
これも、色は変わっているが、過去に見た事のある盾だ。
十枚のそれは瞬く間に形を変え、薄い膜のように変化すると、シアラを包み込み、浮かび上がる。
盾の中に包まれているだけで、みるみる内にシアラの傷は癒え、彼女をある場所へと運んだ。
広い部屋の中央付近。
ノイルの倒れていた場所へと。
そこに立っていた彼に、シアラは直ぐに気づいていた。けれど、昔の情けない雰囲気とは似ても似つかないその姿、自らを救ったその力に、目を疑っていた。
「
「ぁ⋯⋯」
しかしその優しげな声、いつもの言葉に、シアラの瞳から涙が溢れる。
金色の膜が解かれ、シアラは彼の背後へと庇われた。
暗色の、フードが付いた衣を纏ったその姿。
何度も見たはずの頼りなかった背中は、会えなかった内に――随分大きくなっていた。
途方もない安心感がシアラの身を包む。
「妹まで泣かせたな。クソ野郎」
成長した兄の――ノイル・アーレンスの背中が、そこにはあった。
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