第49話 ソフィ・シャルミル

 

 その半魔人ハーフの少女には、愛というものがよくわからなかった。


 少女が生まれたのは、王都から離れた小さな田舎町だ。特筆すべき点のない平凡な町であったが、そこが彼女の母親の故郷だった。


 少女の母は旅好きであり、愛する人と出会ったのも旅先でのことだったらしい。結婚した普人族の二人・・・・・・は、仲睦まじく新婚旅行へと出掛け――野盗に襲われた。

 結婚相手は命を落とし、そして――彼女は少女を身籠った・・・・・・・


 少女は、祝福されて生まれた子供ではなかった。


 絶望する程の傷を心に負った母が、それでも少女を産んだのは、たとえ望んだ子でなくとも愛する為ではない。

 気を狂わせるほどの憎悪、その全てを悪夢の子である少女へとぶつけるため――ただそれだけの為だった。

 好都合にも、生まれた娘は魔人族の特徴を色濃く受け継いでいた。


 生かさず殺さず、痛めつけられるだけ嬲る。

 そうすることで――そうすることでしか、少女の母は生きていく事ができなかった。


 少女の記憶にある母親は、いつだって自分を殴り、罵倒の言葉を吐き、怨恨の瞳を向けていた。狂気に染まった顔で笑いながら、死ぬ寸前まで自分をいたぶり続けた。そんな生活の中で、少女は生きる為に幼くして治癒の力の扱いを覚えた。死に瀕することで、マナの扱い方を本能的に理解したのだ。


 一日中殴り続けても、翌日には傷の癒える自分を見た母は、やはり悪魔の子だと叫び、更に苛烈さを増した。

 少女は、どうすることも出来なかった。ただ無感動に、無抵抗に、憎悪と怨嗟の声を受け続ける。やがて、痛みすらも感じなくなった頃――母が手首を切った。

 とっくに彼女の心は壊れきっていたのだ。


 母が最後に遺したのは、爪で掻き毟るように書き綴られた、「死ね」という文字だけだ。

 母が眠っている間に家にある書物などを読み、彼女の言葉と照らし合わせ、拙いながらも言語を理解していた少女は、しかしそれでも母の最後のメッセージに、何も思う事はなかった。


 ただ、この先どうすればいいのかわからず、母の遺体が横たわる血生臭い部屋の隅に、膝を抱えて座り込んだ。

 何も映さない瞳でじっと母を見つめ、何をする事もなく一日を過ごす。お腹が空けば家にあった食べ物を少しだけ食べ、再び部屋の隅に蹲る。生まれてから一度も外に出た事すらない少女には、行く場所など何処にもなかった。


 そうして数日立った頃、ふと、窓の外から笑い声が聞こえてきた。

 食べ物も無くなり、虚ろな目をした少女は、ゆっくりと顔を上げる。

 以前窓から外を眺めた時、母に気を失うまで殴られた少女は、それ以来外を見たことはなかった。

 しかし、今はもう彼女は動かない。


 薄暗い、きつい腐臭の漂う部屋でふらふらと立ち上がった少女は、ゆっくりと窓へと近づき、カーテンの隙間から外を覗き見る。


 知らない世界が、そこにあった。


 夕陽に染まった町を歩く、二人の人影。

 母親らしき人に、手を引かれる自分と同じくらいの女の子。

 笑い合う親子――。


 あれは、いったい、なんだろう?


「おかぁさん! あれやってー!」


 おかあ、さん。


「んー? もう、仕方ないわねぇ」


 しゃがみ込んだ女性が、女の子の頬を両手で優しく挟み、額をくっつける。


「お母さんはぁ、デイジーを愛してるぞー! このこの〜!」


「あははははっ」


 女性はすりすりと額を押し当て、女の子はきゃっきゃっと笑う。


「おかあ、さん⋯⋯」


 再び手を繋いで歩いて行く二人の姿を、見えなくなるまで眺めていた少女は、ぽつりと呟いて、部屋の中を振り向いた。

 そのままふらふらと歩き、母親――だったものに近づくと、傍に座り込み、両手を持ち上げた。ぐちゃっと腕が千切れるが、少女は気にせず自分の頬へとそれを押し当てる。


「おかあさん、あれやって」


「もう、しかたないわね」


「おかあさんは⋯⋯⋯⋯」


 一人ぽつぽつと呟いていた少女の言葉が一度そこで止まる。少女には、名前がなかったからだ。母親から名前を呼ばれた事もなければ、元より名付けすらされてはいなかった。


「⋯⋯あいしてるぞー、このこのー」


 少女は、とりあえず完全に腐りきった遺体の頭へと額を当てる。


「あはははは」


 そして、笑った。感情の籠もらない声で、ぎこちない笑顔で――生まれて初めて、笑った。そうすれば、あれが何だったのか、理解できるかもしれない、と。

 けれど、何一つわかることはなかった。


 すぐに表情を消した少女は、遺体の両手を離し、再び部屋の隅へと戻って膝を抱えると、目を閉じ考えた。


 愛とは何だろう――と。







 十数日後、少女は町の領主の屋敷に居た。

 清潔な給仕服を着せられた彼女の周りには、同じような年齢の子供たちが数人並んでいる。

 不安そうな表情の者、期待するように目を輝かせている者、無表情の少女以外は、皆そわそわと落ち着きがない。


「さて、君たちにはこれからここで働いてもらうわけだけど――」


 いくつかの調度品に囲まれた部屋で、少女たちの前でソファに腰掛けた中年程の男が、にこにこと微笑みながらそう言った。優しげな顔つきで、線の細いその男は、この町の領主だ。


 十数日前、異臭に気付いた町民により、少女は保護された。しかし身寄りのない彼女は、どこにも行く宛てなどない。孤児院へと入れられる予定だった彼女を引き取ったのが、この人物である。


 領主の男は町民にも気さくに接し、悩みを真摯に受け、町を治めていた。

 そして度々こうして身寄りのない子供たちを引き取り、面倒を見ている優しい人だと、町民から慕われている評判の良い領主だった。


「最後まで残った優秀な者は、愛してあげよう。だからすぐに死なないように」


 表向きは、だが。


「あいってなに、です、か?」


 子供たちが彼の言葉にざわつくなか、少女は拙い言葉で訊ねる。その頬に鞭が飛び、彼女の小さな体は床を転がった。


「質問は許可していない」


 蛇のような長い鞭を持った領主の男が、にこやかに微笑む。


「罰を与えよう」


 魔装マギス――《死痛ペインウィップ》を手で玩びながら、男は傍に控えた使用人に指示を出す。かつてこうして集められた子供たちの中で、生き残れた者だった。


「あの子以外は全員連れて行って仕事を教えろ。逃げ出そうとしたら私の所に連れてこい」


「かしこまりました」


 無表情に一礼すると、使用人は怯える子供たちを連れて部屋から退出する。後には領主の男と、慣れきっていたはずの痛みが身体中に奔り、苦痛に悶える少女が残された。


「あ、ぁ⋯⋯ぁう」


「この鞭はね、傷はつけない。代わりに耐え難い激痛を与えることが出来るんだ。けれどあまりの痛みに、すぐに皆ショック死するのが難点なんだが⋯⋯君は中々期待出来そうだ」


 厭らしい笑みを浮かべた領主の男が、再び少女へと《死痛》を叩きつけた。


「あ、ああああああああああああッ!!」


 全身を突き刺され掻き回されるかのような鋭い激痛に、少女は絶叫を上げ脚をバタつかせながら己の身体を掻き毟り、転げ回る。涙が溢れ、涎がこぼれ落ち、尿を垂れ流し、意識が飛びそうになるが、そこに休む間もなく男の鞭が打たれる。

 少女は、再び悲痛な叫び声を上げた。

 男が興奮したようにもう一度鞭を打つ。


「凄い! いい! いいな! 実にいい! 君は素晴らしい!」


 罰は、数時間続いた。







 少女が領主の屋敷へと来てから、三年が経った。

 他の子供たちはもう居ない。皆鞭の痛みに耐えることが出来なかった。残ったのは少女ただ一人だけだ。


 何かミスをする度に、領主の男は子供たちへと鞭を打った。だから、少女は必死に仕事を憶え、言葉も習った。男の機嫌を損ねないように、優秀であり続けた。


「さて、最終テストだ。これを突破できたのなら、君を正式に傍においてあげよう」


 領主の男はにこやかに手を叩き、そう言った。

 もはや少女は何の為に生きているのかわからない。


「愛して、頂けるのですか?」


 ただ、それだけを知りたかった。


「ああ、もちろんだとも。おい」


 男は使用人へと声を掛けた。彼女の身体が僅かに震え、一歩前へと出る。


「今から君たち二人に交互に《死痛》を打つ。気絶せず、より長く耐えられたほうが勝ちだ」


「負けた方は、どうなるのですか?」


「そのまま死ぬまで鞭を打つ」


 その言葉に思わず少女が彼女へと視線を向けると、もう一度、使用人の女性は身を震わせた。

 三年間、共に過ごした相手だ。仕事を教えてもらい、言葉も何もかもを彼女から習った。余計な会話はなかったが、これまでで唯一まともに接してくれた相手だ。

 殆ど何も感じることはなくなっていた少女は、僅かな躊躇いを覚え、目を伏せる。


「言っておくが、わざと負けようとすることは許さない」


「⋯⋯はい」


 少女は、せめてもの礼儀として、彼女に頭を下げようとし――男に止められた。


「何をやっている?」


「⋯⋯これで、最後ですので」


「物に挨拶は不要だ。憶えておけ」


「⋯⋯はい」







「あ、ぎゃぁあぁあぁぁぁぁあ!」


 聞くに耐えない、そんな叫び声で、少女の飛びかけた意識は戻ってきた。

 人とは思えない程のそれは、少女の隣で両手を鎖で拘束され、屋敷の地下室に吊るされた使用人の女性が上げたものだった。

 同じように拘束された少女は、次は自分だ、もう限界だ、と思った。恐らく次で意識を失うだろう。そうなれば、今度は死ぬまで《死痛》を受ける事になる。

 嫌だ、とぼんやりとした思考で思った。

 


 もういたいのはいやだ。このてかせをはずしたい。いしきをうしないたくない。にげだしたい。くるしみたくない。やめてくださいおねがいします。

 やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて。

 ⋯⋯⋯⋯どうせしぬのなら、いっそ、なにもかんじなくなればいい。


 そう、思ってしまった。


 そして、少しでも痛みから逃れようと、無意識にマナを練り上げ――魔装が発現する。


 それは、本能的な、純粋な願いから生まれた、酷く歪んだ魔装。


 心臓がどす黒く変色し、少女はその瞬間、全てを理解する。

 身体に感じていた疼痛が消え去り、虚ろだった意識は覚醒する。


 少女はもう何も感じない。眠ることもない。


 抜けていた力が湧き上がり、マナで強化しなければ人より遥かに劣っていた肉体は、自身を縛る枷を破壊できるだろう。

 

 そして、この魔装が解除された時――自分の命は終わる。


 これは、そういう魔装だ。


 領主の男が、鞭を振り上げ、少女へと叩きつけた。

 だが、もう何も痛くない。


 叫び声を上げない少女に、男は目を見開く。

 鎖を力尽くで破壊すると、領主は愕然としたように口を開いた。


「な、何をした!!」


 そう言いながら放たれた鞭の先を、少女は容易く掴むと、ぐいと引き寄せた。


「ひっ⋯⋯」


「貴方に、もう用はありません」


 薄々と感じてはいたが、逃れられないのならば僅かな可能性を信じ、従うしかなかった。けれど、もうその必要はない。この男から愛を知ることは出来ないだろう。あの日見た光景はこの男からは絶対に生まれる事はない。

 無様に引き寄せられた領主の顔を、少女は思い切り殴りつけた。


「ぺぎゅ」


 骨が砕け、顔が潰れ、男は石造りの地下室の壁へとめり込んだ。ピクリとも動かない男を一瞥した少女は、隣の彼女を解放しようとして――手を止めた。

 光のない瞳、だらりと開いた口。既に、事切れている。

 一度力なく垂れた少女の手が、再び動き、彼女を縛る鎖を引き千切る。

 少女は彼女を抱き上げると無表情で歩き出し、火をつけて屋敷を後にした。


 町を出て、ただ歩く。歩き続ける。そうして町から離れた森の中に、彼女を埋葬した。

 しばらくじっと墓標代わりに置いた石を眺めていた少女は、ふと、視線を感じて振り返る。


「大切な人だったのかい?」


 いつの間にか、傍の木の枝には、黄白色の髪の美女が座っていた。

 翡翠の瞳がじっと少女を見つめてくる。


「わかりません⋯⋯ただ、こうしなければと思っただけです」


「そうか」


 そう言って木から飛び降りた彼女は、ふわりと着地すると、少女へと歩み寄る。


「ボクは、大切な人が泊まった宿のシーツと毛布と枕を回収しに来たんだけどね。そうしたら領主の屋敷が燃えていてさ」


 この人は、何を言っているのだろう。そう少女は思った。


「精霊たちに事情を聞いて、ここに来てみたんだ」


「私を⋯⋯捕まえるのですか?」


「まさか、奴を殺したのはボクだしね」


「え?」


 黄白色の髪の美女は、さらりとそんな事を言ってのけた。


「まだ僅かに息があったようだから、きちんと始末しておいたよ。屋敷の火災も精霊たちが手伝ってくれているから、痕跡は残らないだろう。しかしまあ⋯⋯本当にすまない」


 彼女の綺麗な瞳がふっと色を失う。


「ボクがもっと早く気がついていたら⋯⋯あんなゴミはとうに処分していたのに⋯⋯」


 底冷えするような声に、少女の背中にはゾッと悪寒が奔った。ごくりと唾を飲み込む。


「ボクは、エルシャン・ファルシードだ。キミ、名前は?」


 しかし、次の瞬間には彼女からは覇気が掻き消え、平然とした様子でそんな事を訊ねてくる。

 少女は、答えに詰まった。


「私は⋯⋯名前が、ありません」


「⋯⋯そうなのかい?」


「はい⋯⋯」


「そうか⋯⋯」


 エルシャン・ファルシードと名乗った女性は、綺麗な薄桃の唇に指を当て、何か考え込むように目を伏せた。そして、窺うように少女を見てくる。


「なら⋯⋯ソフィ、というのはどうかな?」


「⋯⋯え?」


「キミを見た時に、ぱっと思いついたんだ。そうだね⋯⋯ソフィ、うん、ソフィだ。ソフィ・シャルミル。響きが綺麗だろう?」


「そ、ソフィ⋯⋯」


「ああ、もちろん嫌なら嫌で構わない。深い意味はないし、不満もあるだろうからね」


「い、いえッ!!」


 不満など、あるはずがない。

 思わず声を大きくしてしまった少女に、エルシャンは少し驚いた様子だった。慌てて、彼女は言葉を続ける。


「わ、私⋯⋯いえ、そ、ソフィは⋯⋯ソフィが、いい、です⋯⋯」


「そうか、なら今日からキミはソフィだ。それでだ、ソフィ」


 エルシャンは――彼女の名付け親は、そう言って手を差し出す。


「行く宛が無いのなら、『精霊の風うち』に来ないかい?」


 この日から、名もなき少女は――ソフィ・シャルミルとなった。

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