第38話 甘い誘惑


「ひどいじゃないか。ボクはこれでも勇気を出してキミに想いを伝えたんだ。その答えがそれかい?」


 エルは酷く子供のように、頬を膨らませて拗ねたような表情を浮かべる。普段の泰然として大人びた彼女からは考えられないような顔だ。そのままエルは僕の腰へと両腕を回して抱きついてくる。

 そんな彼女を見て、僕は確かにさっきの発言は流石に不適切だったかと――


「けれど、キミにならそう言われるのも悪くないと思えるから不思議だよ」


「やっぱり頭打った?」


 思わなかった。

 愛おしそうにぐりぐりと顔を押し付けてくるエルに、再びそう問いかけてしまう。

 正直意味がわからなかった。だって、僕には彼女に好かれる要素が一つもない。嫌われる要素なら盛りだくさんだが、どれだけ記憶を辿って探してみても、エルにこれほど好意を寄せられる理由が見つからなかった。


「いや、ボクは正気だよ。この上なくね」


 だったら頭を打ったのは僕のほうだな。きっと僕は本当はミーナに負けているのだ。彼女にぶん殴られ気絶し、夢を見ているんだ。そうに違いない。


「言っておくが、これは夢でもない。まぎれもない現実だ。ボクはノイルを愛している」


 エルは読心術の心得でもあるのか、僕の考えは筒抜けだった。

 そしてこれは夢ではなく現実らしい。

 つまりだ、つまり⋯⋯つまり⋯⋯?


 今――僕は本気でエルに告白されたということか? ドッキリとかじゃなく?


「え、な、何で⋯⋯? 僕のどこが⋯⋯?」


 身体に顔を押し付け、匂いを嗅いでいるらしいエルの肩を掴んで引き離しながら、僕は至極真っ当な疑問を口にする。混乱して頭は上手く回らないが、とりあえずそれだけは聞いておかねばならない。

 彼女は渋々といった様子で僕から離れると、少しだけ躊躇うように、上目遣いでこちらを見てくる。


「⋯⋯笑わないかい?」


「⋯⋯うん」


 不安げにそう尋ねてくるエルに、僕は頷いた。

 何故彼女が僕のような男をその⋯⋯好きになったのか非常に気になるし、流石の僕でもどうやら真剣らしいエルを笑うようなことはしない。

 例えそれがどれほど気が狂っている考えだとしても、誠実に対応するべきだ。それが礼儀というものだろう。


「顔だよ」


 笑うとこかな?


 照れくさそうに、頬を染めたエルの言葉に、僕は思わず心の中でそう尋ねてしまう。

 だっておかしいじゃないか。僕は平凡な男だ。特別容姿が優れているなんてことはない。

 少なくとも、エルのような完璧だと思えるほどの女性が、好き好んで選ぶような顔じゃないはずだ。全く納得できない。


「冗談だよね⋯⋯?」


 だから僕の口からはついそんな言葉が漏れてしまう。というか、そうであって欲しかった。

 しかし、エルはきっぱりと首を振ると、再び僕の身体へと腕を回してくる。


「冗談ではないよ。本気でキミの顔に惚れたんだ。いや、顔だけじゃない。声、身体付き、肌、手、足、髪、首、爪、骨格、産毛の一本一本まで⋯⋯ノイルの全てがボクの好みそのものなんだ。初めてキミを見た時は衝撃だったよ。まるで落雷に打たれたかのような感覚だった。これが所謂一目惚れなんだと、すぐに理解した」


 それって本当に雷に打たれただけなんじゃないかな? ちょっとよく思い返してみて? 当時の僕ってあれだよ? クソダサかったよ?

 あの日は晴れていたけど、多分エルにだけ雷が落ちたんじゃないかなぁ。

 

「ああ、でも勘違いしないでくれ。ボクは本来見た目だけで人を選ぶような人間じゃないんだ。ノイルにそんな女だとは思われたくない。ただ、キミが⋯⋯そう、魅力的過ぎただけなんだ」


 そう言って僕に向けて蕩けるような笑みを浮かべたエルに、僕は自身の持てる全てを振り絞って変顔を披露する。

 彼女には悪いが僕の第二の裏奥義、〈百年の恋も冷めるブリザードフェイス〉で目を覚まさせる作戦だ。

 だが、そんな僕の形容し難い顔を見て、エルは何故か頬を染めて視線を逸した。なんか思ってた反応と違う。普通、もっとゲロ吐いたりとかするはずだ。


「⋯⋯突然誘惑しないでくれ」


 おかしいな。この世は不思議である。

 囁くようなエルの言葉に、僕は思わず真顔に戻ってしまった。


「ノイル、キミは⋯⋯そうやっていつもボクの心を揺さぶる」


 確かに揺さぶろうとはしたけど、それはもっと汚い方面にだよ。


「七年前も、感謝を告げるキミに対して、ボクがどれ程の自制心を働かせていたかわかるかい? あの時ボクはキミをどうにかしてしまいたくて、気が狂ってしまいそうだったんだよ?」


 エルは僕の胸に手を這わせ、耳元でそう囁いた。彼女の吐息が耳にかかり、その淫靡な雰囲気に、僕の身体にはぞわぞわとした感覚が走る。


 何か⋯⋯違和感がある。

 僕は本気でエルを拒むのなら、今すぐにでもこの場から力尽くで逃げ出すべきだ。彼女には悪いが、展開が急過ぎる。もっと落ち着いて話をして、しっかりと結論を出すべき問題のはずだ。なのに、僕の身体は何故だか動かない。

 いや、動きたくないのだ。それどころか、心のどこかで、すぐ傍のエルにどうしようもなく触れたいとすら感じている。

 それはきっと動物的な本能で、僕の男としての部分が彼女に反応してしまっているからだ。


 だが、何故だ? 僕の鋼の理性さんは年中無休で二十四時間元気に働いているはずだ。いくらエルが常識外れの美人だからといって、僕はよく知りもしない相手に、後先考えず手を出したいなどと思わない。だって後が怖い。

 そうして慎重に生きているはずなのに、何故今こんなにも、彼女とそうなりたいと望んでしまうのか⋯⋯?

 その時、僕は違和感の正体に気づき、同時に戦慄が走った。


 この、部屋に漂う甘ったるい薫りは――


「あれから毎日、ノイル、キミを見ていた。七年間、ずっとだ」


「ま、毎日⋯⋯?」


 衝撃の事実に気づいた僕の耳元で、エルはどこか色っぽくくすりと笑う。それだけで、僕の身体には抑えきれない熱が湧き上がり、頭が上手く回らなくなっていく。心臓の音がうるさい。


「精霊というのは、何処にでも存在し、自ら姿を現そうとしない限りは普通の人間には視認できない。ボクは、そんな精霊たちの友人なんだ」


 それは⋯⋯つまり、精霊を通して僕を見ていた――観察していたということだろうか。一体、どこからどこまでを⋯⋯?


「全てさ」


「⋯⋯⋯⋯」


 僕の考えなどお見通しと言わんばかりに艶っぽく言われ、僕はごくりと唾を飲み込んだ。

 普段なら、プライバシーの心外だ、もう知らない! バカ! と言って脱兎を置き去りにする勢いで逃げ出すが、今は自分を抑えるのに精一杯で余裕が全くない。


 恐怖は確かに感じる。エルの行動が真実なら、それは狂気でしかない。けれど、それ以上に彼女の吐息が耳に触れ、胸に当てられた手が弄るように動く度、溺れてしまいそうな快楽が襲ってくる。


「先日のスライムの一件は見事だったね」


「⋯⋯」


「けれど、キミの周りにはまた女性が増えてしまっただろう?」


 少し拗ねたような甘えたような声に、脳が痺れるような感覚を味わう。

 エルは僕の胸を指先で弄りながら続ける。


「ずっと思っていたんだ。ノイルの傍に居るのが、何故ボクじゃないのだろうと。フィオナ、ミリス、そしてノエルも⋯⋯一番最初にキミと出逢ったのはボクだというのに⋯⋯どうしてこうなってしまったんだろうね⋯⋯けれどね、ボクは我慢していたんだよ? キミから声をかけてくれるのを、ずっと待っていた。楽しみにしてね」


「それは⋯⋯」


「ノイルのことだから、単なる社交辞令だとでも思っていたんだろう? わかっているさ」


「⋯⋯ごめん」


「構わない。ボクなりにアピールしていたのに、王都にいることに気づいている様子もなかったのは、寂しかったけれどね」


「アピール⋯⋯?」


 そんなことをされた覚えは全くない。この三年間、僕の周りでエルの存在を感じたことはなかったはずだ。いや、僕が気づいていなかっただけで、もしかして彼女は僕の前に何度か姿を現していたりしたのだろうか。


「レットだよ。彼からボクの存在に気づいてくれるかと期待していた」


「レット君⋯⋯?」


 確かに、彼は度々『精霊の風スピリットウィンド』の話をしていた。僕はあまり興味がないので聞き流していたが⋯⋯じゃあレット君が僕に近づいたのは、その目的の為だったというのか? だとすると、物凄くショックなんですけど。ショック過ぎて少しだけまともな思考が戻ってきたくらいだ。


 僕は誘惑に抗いエルを自分から引き離し、やや責めるような目を向けた。

 少々乱暴な手付きになってしまったが、悪いのは僕じゃない。


「ああ、すまない。誤解させてしまったね。ボクは彼に何も言ってなどいないよ。ただ、レットはキミと必ず仲良くなると思っていたからね。彼を『精霊の風』に入れたのはもちろん実力と人間性が優れていたからだが、そういった個人的な理由もあった、というだけの話さ」


 しかし、そんな僕とは対照的に彼女はもはや止まる様子はなかった。そして、僕も今度こそエルの誘惑を振り切ることは出来ず、ベッドへと押し倒される。


「ボクは、我慢した。ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと⋯⋯けれどね、もう無理だ」


「ん⋯⋯!」


 僕の上に馬乗りとなったエルは、そう言って唇を重ねてきた。

 熱く甘やかな感触に脳が蕩けるような錯覚を覚え、口内へと侵入してくる彼女の舌を、僕は無抵抗で受け入れてしまう。

 混じり合う唾液、絡み合う舌。

 もう無理だ。このまま永遠にこの至福の中に居たい。欲望のままにエルを貪り、その全てを堪能したい。


 僕がそう思い、彼女を抱き締めようとした時だった。

 視界の端に、何か非常に不快になる存在が映る。その人形の浮べるあまりに爽やかな笑顔に、僕の飛びかけていた意識は崖っぷちから戻ってきた。

 置きもノイル君人形――やっぱあれ殴りたいな。


「ッ⋯⋯!」


「んっ⋯⋯どうしたんだい?」


 気力を振り絞り、エルを突き放すと彼女は恍惚としたような表情を浮かべ、僕に馬乗りになったままそう尋ねた。

 僕はまだエルを求める自分、それから彼女への精一杯の抵抗として、叫んだ。


「こういうことは! その、あれ! そう! もっと! その! あれだよあれ!」


 何を言っているのかわからなかった。


「ボクだってもっと段階を踏みたかったさ。けれどノイル。キミ、ミリスとキスをしただろう?」


「⋯⋯⋯⋯」


 何も言えなくなった。


 エルは上着を脱ぎ、身体のラインがはっきりとわかる黒のインナー姿となる。僅かに戻った自制心が再び飛んでいきそうになった。


「そ、その⋯⋯やっぱり人間って中身が大事だと思うんですよぉ⋯⋯そのぉ、見た目だけというのはやっぱりですねぇ⋯⋯」


「大丈夫だ。七年間キミを見てきたと言っただろう? その上で、ボクはノイルの全てを愛しているよ」


 マズい、このままでは確実に一線を越えてしまう。けれど、部屋に充満する甘い薫りと、エルの放つ色気が僕の正常な判断力を根こそぎ奪っていく。もはや置きもノイル君もあまり効果がない。


 上着を脱いだエルは僕の上へと覆いかぶさる。柔らかな感触が伝わり、彼女は服の隙間から手を差し入れ、直に僕の肌を撫でた。

 そして、僕の顔に浮かぶ汗を舐めとる。


「⋯⋯っ」


「ふふ⋯⋯思った通りだ。とても美味しい⋯⋯ずっと味わいたかったんだ⋯⋯ん?」


 僕の下半身を見たエルは、蕩けるような笑みを浮かべ、


「嬉しいよ、ノイル」


 僕は顔を両手で覆うのだった。

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