第10話『腹の割合』
◆ ◆ ◆
「――――」
なんと言っていいか分からなかった。
長年待ち望んでいたはずの言葉なのに、俺はそれに対する答えを持っていなかったから。
何度か瞬きをし、干上がった喉を唾液で潤し、やっとのことで俺は言った。
「……マジかよ」
「大マジ。こんなこと嘘で言うなんて最低だよ。庸光もそう思うでしょ」
「あ、ああ。そうだな」
やけに実感のこもった声で言うやよいに、俺は思わずうなずいた。
頭の中がふわふわしていて、考えがうまくまとまらない。
本当に、やよいは俺のことが好きなのか?
こんな幸せなことがあっていいのか?
完全にテンパっている俺を、やよいがジト目で睨んできた。
「……一応、返事を聞かせてほしいんだけど」
「えっ。いや。その……気持ちは嬉しい。ていうか、普通に嬉しい。でも、なんつったらいいのかな……」
「嘘嘘、冗談だって」
「……だ、だよな。お前が俺のこと好きなわけ」
「ああ違う違う! す、好きなのは本当! 今すぐ返事しろっていうのが嘘ってこと!」
「ああああ、な、何だそうか。おどかすなよ、ははは……」
二人してじたばたと腕を振り回す俺たち。
落ち着いてから、俺はやよいに言った。
「……お前の気持ちに応えたいと思う。でも、俺には今朝木さんっていう彼女がいる」
「うん、知ってる」
あっけらかんと言うやよい。
まるで、そんなことなど問題ではないと言わんばかりだ。
これには、さすがの俺も鼻白んだ。
「あのな……お前が朝木さんのこと嫌いなのは知ってるけど、そんな堂々と言われても困るぞ、こっちも」
「なんで? 庸光が私のこと好きなら、春留ちゃんと別れて私と付き合えばいいじゃん。簡単でしょ」
「簡単じゃねーよ。朝木さんはその……俺のこと好きで告白してきたんだぞ。なのに、何の理由もなく別れてお前と付き合いだしたら、どう思うと思う?」
こんな当たり前のこと、分からない奴じゃないはずなんだが。
しかし、やよいの態度は変わらなかった。
「春留ちゃんが庸光のこと好きだとしたら、嫌な気持ちになるだろうね」
「……何が言いたいんだよ」
「ちょっとこれ、聞いてみて」
やよいはポケットからスマホを取り出すと、録音アプリを開いた。
革靴でアスファルトの上を歩く足音。それが二人分。
やよいと朝木さんが、一緒に話しているようだ。
しばらくの間、とりとめもない会話が続く。
「……どのくらいあるんだ、これ?」
「しっ。ここから」
『――春留ちゃんさ、いつからあいつのこと好きだったの?』
『えっ? あ、えっと……いつからかな。多分、一目惚れ……かも』
『一目惚れー!? マジで、あいつに!? うわー、信じらんない! そんな人いるんだ!』
『ほ、本当だよ! 何となく、優しそうな人だなって……』
そこで会話は終わった。
やよいはスマホの電源を落とし、ソファの上に放り投げた。
「これ、この間勉強会やったときに録ったんだけど、どう思う?」
「……お前、こういうことする奴だったんだな」
「うん。するよ。だって好きだもん、庸光のこと」
あっけらかんとやよいは笑った。
しかし、すぐに笑みを消して寂しそうな顔になった。
「庸光が春留ちゃんと付き合いだして、すごく悲しかった。何が何でも奪い取ってやるって思った。明日の春留ちゃんとのデートだって、何とかして台無しにしてやろうと思ってた。
――でも、頑張れば頑張るほど、庸光には嫌われちゃうんだよね。だから、このやり方じゃダメなんだなって。なんで分からなかったんだろう。最低なのは私の方だよね」
憑き物が落ちたように、やよいはため息をついた。
彼女がいろいろと手を回して、俺と朝木さんの仲を邪魔しようとしていたのは知っている。
それは決して褒められた行いではない。
「……お前が最低なら、俺も最低だよ。お前に相手にされない鬱憤晴らすために、朝木さんのこと自慢したんだ。どんだけちっせえ男なんだよ、俺は」
だが、そうさせたのは俺だ。
やよいの気持ちに気づかず、あまつさえせせこましい復讐心を満たすために傷つけた。
なのに、一丁前に常識人ぶって、やよいの言動を非難する資格なんてない。
「ううん。庸光は悪くない。悪いのは私。庸光が私のこと好きなの知ってて馬鹿にしてた。絶対嫌いになんかなったりしないってうぬぼれてた。その報いを受けただけ」
「やよい……」
この三週間、やよいに感じていたわだかまりは、綺麗に消えていた。
まさに俺が疑っていた通りのことを白状されたのにだ。
思ったことがあれば、言えばよかったんだ。
俺たちは、それが許される関係だったはずなのに。
どうして忘れていたんだろう。
俺はやよいと見つめ合い、小さく笑った。
そして、改めて朝木さんとのやり取りを回想した。
「……朝木さん、一目惚れなんて一言も言ってなかったな」
「そ。おかしいと思わない?」
「い、いや。でも、自覚せずに誰かを好きになることだってあるだろ」
「一目惚れなら普通分かると思うけどね? ていうか、問題はそこじゃない。庸光のときと私のときで、答えが違うでしょ。変だよね」
「まあ、確かに……」
言われてみれば、あのときの朝木さんは様子がおかしかった。
露骨に
そういえば、聞いたことがある。
人は嘘をつこうとしているとき、視界の右側を見るものだと。
それに、浮かれまくっていたから気づかなかったが、あの日の朝木さんは明らかに挙動不審だった。
校門を出てからもほとんど茫然自失だったし、会話の受け答えもずれていた。
――――
『あの……やっぱり、俺なんかと並んで歩くの、恥ずかしい?』
『えっ!? ううん、全然そんなことないよ! 今部活の時間だから、あんまり人通りもないし!』
――――
思い起こすほどに不自然な点が出てくる。
じんわりと背中に冷や汗がにじんでくるのを感じた。
あれ、もしかして俺、騙されてた?
そして、やよいがとどめの一言を――言われたくなかったことを言った。
「そもそも、一目惚れされるような顔じゃないよね、庸光」
「うっ……!」
心臓を冷たい針で突き刺されたような気分になった。
薄々分かっていたことだ。
ろくな関わりもない女子が、俺に告白なんてするはずがない。
罰ゲームでさえされなかった俺が、どうして朝木さんみたいな美少女に、入学一ヶ月で告白されると思う?
都合がいいにも程がある。妄想にしたって身の程知らずだ。
だとしたら、答えは一つ。
やっぱり、これは朝木さんによる罰ゲームだったのだ。
今まで嘘告白されなかったのは、ただの偶然である。
俺はぐったりとソファの背もたれに背中を預けた。
裏切られた怒り、といえるものは湧いてこない。
あるのは、ただただ虚しい感情ばかりだった。
強いて言うなら、こんな見え透いた罠にみすみす引っかかって、大切な幼馴染を傷つけた己の愚かしさへの怒りだ。
「……どうしよう」
「断れば? むしろ、向こうも待ってると思うよ」
「待ってる?」
「自分から振ったら悪者になっちゃうじゃん」
「ええ……どんだけだよ、自分から告白したくせに」
「嘘告白なんてする子だし。そのくらい計算してるよ」
なんとか、失意の底から這い上がってきた俺。
ふと、かたわらにほのかな温もりを感じた。
やよいだ。
ソファ一席分空けて座っていたはずのやよいが、いつの間にか俺のすぐ隣に来ていたのだ。
仄暗いリビングで、彼女は艶めいた笑みを見せる。
息遣いさえ聞こえてくる距離。
すると、やよいがそっと顔を近づけてくる。
心臓の鼓動が、一拍分すっ飛んだ。
(……まつ毛長いな)
今や、視界の全てが赤面したやよいで占められている。
少し動くだけで、鼻先が触れ合いそうだ。
唇にやよいの鼻息がかかってくすぐったい。
鼻腔に滑り込んでくる甘い香りで、頭がおかしくなりそうだった。
「……やよい?」
とうとう、俺も一線を越えるのかと覚悟しかけたそのとき。
俺の頭頂部が、小さな手でよしよしと撫でられた。
ボサボサな髪を手ぐしですき、もてあそぶようにこねくり回してくる。
先ほどまでの、匂い立つような色気はどこかへ消え失せていた。
「悪い女にからかわれて、辛かったね、庸光」
「…………お、おう」
辛い。別の意味で、今俺はとても辛い。
目を背ける俺に、やよいが半笑いで尋ねてきた。
「キスすると思った?」
「はっ! 全然思ってねえし! そんな勘違いするわけ――」
ちゅ、と左の頬に柔らかいものが押し当てられた。
火傷しそうなほど熱い、唇の感触。
ほんの一秒たらずの出来事だったが、俺の思考を空白にするのには十分すぎた。
「
燃えるように赤い顔でそう言い残し、やよいはすっと俺から離れていった。
「ちゃんと付き合ったら、続きしてあげる」
リビングのドアを閉じて、やよいは二階の自室へ上がっていった。
俺はキスされた頬を擦りながら、決意を固めた。
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