第9話 舞台俳優
画面に映像が流れ出した。多村はしつこいぐらい繰り返し見たから、音声が聞こえてこなくても会話の経過は覚えている。
他に客は一人しかおらず、BGMのない店内は静かなものだった。マスターは厨房でカップを磨きながら興味深げにこっちを眺めていたが、多村と目が合うと少し微笑んで視線を手元に戻した。
倉本は瞬きさえ惜しむように映像に見入っている。目を細めたり、画面から顔を遠ざけたりしているのは老眼のせいだろう。多村は隣でその様子を観察していた。
ラストシーンになると目を細め、映像が止まるとその目をきつく閉じ、ヘッドフォンを外した。多村は向かいの席に戻った。
「いかがですか」
多村の問いかけに、倉本はようやく目を開き、大きく息をついた。気を落ち着かせようとしているのが分かる。親しくしていた後輩が自殺する様を見せられて、冷静でいられるはずがない。カップの中で温くなったコーヒーに口を付けた。
「舞台の稽古を撮影していたようですが、それはほとんど映っていません。口論ばかりです」
多村の言葉に倉本は「確かにそうですね」と頷いた。
「会田さんは、あまり劇団員から慕われていなかったようですが」
多村が婉曲に訊ねた。
「先ほども申し上げた通り、交流がありませんので、劇団内部のことは私には分かりかねます」
自殺した後輩の暗部など、今更知りたくなかっただろう。
「確かに、会田は先輩には折り目正しいのですが、後輩には厳しく当たることがありまして、昔からあまり慕われていませんでした。後輩と仲良くするタイプではなかったです」
会田がそういったタイプであることは、多村にも想像がついていた。
「ただ、稽古中に口論に発展するのは珍しい事ではありません。激しく意見をぶつけ合うぐらいで丁度いいんですよ。舞台にはそれぐらいの熱量が必要ですから。それがエスカレートして、別の方向に向いてしまったんですかね」
それより、と倉本は多村の目を見た。
「先ほど自殺ではない可能性があるとおっしゃいましたが」
「今日はそのことについてご意見をお聞きしたくて伺いました」
多村は一旦間を置くようにマスターを呼び、二人分のコーヒーのおかわりを注文した。空になったカップをトレーに乗せ、マスターは厨房へ戻っていった。
「私は、会田さんは本気で死ぬ気はなかったと考えています」
多村は視線を倉本に戻して言った。
「どういうことでしょうか?」
「単刀直入に言えば、飛び降りの場面には誰かが書いた台本があり、会田さんはその通りに演じていただけ、ただの演技だった、ということです」
倉本が頬をこわばらせたのは、多村の論が腑に落ちないだけでなく、素人が演技を語ることへの抵抗も含まれているようだ。
「そして演技をしている最中、何らかの原因で実際に落下してしまい、死亡した」
これが多村の出した結論だった。映像の中のやり取りには台本があり、その通りに演技していたに過ぎない。落下と表現したが、実際は誰かが突き落とした。
「いかがですか」
二人の間に、いくばくかの空白が流れた。
「その気はなかったのに落ちてしまった、ということですか」
舞台俳優の声は、抑えた声でもしっかりと耳に届いた。
「そういうことです」
「飛び降りる前に、劇団員たちに向かって怒鳴っていたのも、芝居だったということですか」
頷いた多村を見て、倉本は首をかしげた。
「劇団員は何と言っているんですか」
当然の疑問だが、倉本がまだ真意を理解できていないのが分かった。
「彼らは自殺したと言っています」
事情聴取にそう答えている。
そこへコーヒーが運ばれてきて、会話が中断した。マスターは二人の前にカップを置くと、空気を察し、会釈してすぐに引っ込んだ。
「どういうことでしょうか。目の前で見ていた劇団員が自殺と言っているんなら、自殺なんじゃないんですか」
倉本は話がつかめず、口ぶりは苛立ちを含んでいた。
「私はそれに疑問を抱き、こうして話を聞きに伺ったのです」
要領を得ない返答に倉本は腕組みをして考え込んだ。刑事が何かを言わんとしているのは分かるが、それは何なのか。
コーヒーが目に入り、思い出したようにカップに伸ばそうとした、その手が止まった。倉本は開いた目を多村に向けた。
「まさか、劇団員が、ですか」
その声が静かな店内に響いた。新聞を読んでいる客がちらりとこっちを向いたが、また紙面に目を落とした。
ようやく意図が伝わったようだが、多村はその質問には答えず、再度訊ねた。
「この飛び降りが、誰かが書いた台本通りに演じられた可能性はありますか」
倉本は眉間にしわを寄せて「誰かが」と多村の言葉を繰り返した。誰か、が劇団員を指しているのは間違いない。
いくらか思案してから、質問を返した。
「劇団員たちとの口論にも台本があったということですか?」
「それが分からないんです。口論も演技なのか、飛び降りだけなのか、演技がどこから始まっているのか。何度も見返しましたが、混乱するばかりです。それで倉本さんの意見をお聞きしたいんです。台本があって、こういった演技をしている可能性はありますか?」
倉本は硬い表情のままコーヒーに口をつけた。一度ソーサーに置いたが、もう一度口にした。鼻で溜息を吐き、またコーヒーをすすり、ソーサーに戻してから口を開いた。
「台本が存在する可能性は低いと思います」
その答えに、多村は顔を歪めた。この結論には少なからず自信があった。
「台本を覚えるのは簡単ではありません。自分のセリフだけでなく、共演者のも覚えなければ芝居になりません」
プロの俳優の意見だが、素人の多村にも想像がつく。相手の投げる球が分かっていなければ上手に打ち返せない。
「会田はうちの舞台に出ていました。まずその台本を覚えなければなりません。急に決まった事ですから、急いで覚えなければなりませんでした。それと今度逢友社で上演する舞台、この台本は会田自身が書いたはずですが、これも覚えておかなければならない。その上さらに違う台本を覚えるのは難しいと思います」
それに、と倉本は話を続けた。
「今回の公演中、会田には我が家に泊まってもらいました。謝礼、気持ち程度ですが、それと交通費は出しますが、宿泊費まで出す余裕はありません。その際に別の台本を見ている様子はありませんでした。すでに2つの台本を手にしていて、そんな余裕もなかったでしょうし」
「では、本当に最後のあの飛び降りの場面だけ、何らかの方法であの場面だけ演技をしていたってことは・・・」
せめてそこだけは否定されたくなかった。少ないセリフなら、わずかな時間でも覚えられるのではないか。
「何らかの方法で、ですか」
倉本はまた少し考えてから、刑事の質問に答えた。
「その可能性もないとは言い切れません。ですが仮に誰かがそんな台本を用意したとして、会田が付き合うでしょうか。元々付き合いが悪いうえに大事な公演を控えている時にそんな台本を渡したら腹を立てるんじゃないですかね。『くだらないことしてないで公演に集中しろ』と。この時期にそんなことをする意味がありませんから」
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