第7話 演技

 自宅への帰り道、多村の足取りは重かった。夕食はとっていないが、通りに並ぶファストフード店にもコンビニにも足が向かない。普段は食欲をそそられる牛丼屋から漂ってくる匂いも胸やけを覚えた。

 一人住まいのアパートに帰宅すると、蛍光灯がいつもより眩しく感じられた。目に入ったインスタントラーメンには手が伸びず、シャワーを浴びてパジャマに着替えた。


 缶ビールをとろうとして、冷蔵庫に貼ってある一人娘の写真が目に入った。ぜんそく持ちだから東京暮らしは可哀想、と離婚した妻の実家で暮らしている。


 次会えるのは冬休みか、まだ先だな。


 缶ビールを手に、ソファーに腰を沈めた。静かな部屋にプルトップが開く音を鳴らすと、泡が吹き出した。仕方なく立ち上がり、流しの布巾を取ってきて零れたビールを拭いた。


 ソファーに座り直し、一気に半分ほど飲んだ。空腹のせいかアルコールが回るのが早く感じる。そのまま横になった。濡れたパジャマが触れて、足首が冷たい。

 頭の後ろで手を組んだ。目に映るのは天井だが、頭に浮かぶのは会田の事だった。


 刑事の勘というか嗅覚というか、多村は会田の自殺に違和感を抱いた。稽古場でそれを裏付けるような光景を目にした。


 しかし桜井の言う通り、それは警察が足を踏み入れる類のものではないのだろうか。事件ではなく事故に過ぎないのだろうか。


 どうにもすっきりしない。


 起き上がってビールを喉に流し込んだものの胸のつかえは流れて行かなかった。


『俺だってよ、一生懸命生きて来たんだよ。少し道を間違えたかもしれないけどな。それを悪者扱いか。分かった、分かったよ。もうお前らの相手をするのは疲れたよ』


 会田の最期の言葉が、多村の頭の中でリフレインしていた。



 カーテンの隙間から射し込む朝陽で目を覚ました。ソファーに横になったまま眠ってしまった。

 時計を見ると、7時半になろうとしている。慌てて起き上がった拍子にテーブルに足をぶつけた。缶が倒れて残っていたビールが溢れ、舌打ちして急いで拭いた。


 顔を洗って歯を磨き、手早く髪を整え、スーツに着替えて家を出た。見上げた空は晴れ渡っている。強く差す陽に多村は目を細めた。それから時計を見た。まだ間に合う時間。曇っていたら、目覚めるのがもっと遅かったかもしれない。そんなことを考えながら駅に向かって歩いた。


 朝食を食べる時間はなかったが、遅刻せずにすんだ。いつもは家で済ませるトイレに入って落ち着かない気分で用を足す。手を洗い、鏡の前で無精ひげの生えた顎をなでていると、後輩の仲村が入って来た。多村に気付き、おはようございますと挨拶して小便器に向かったが、その足を止めて言った。


「係長、寝ぐせついてますよ」

 ここだと教えるように、仲村は自分の後頭部を指差した。


 多村はそれを確認しようと鏡の前で後ろを向き、もう一度前を向いた。それを続けて2度繰り返した。その様子を小便をしながら横目で見た仲村がフッと笑いを漏らした。


「見えるわけないよな」

 多村は苦笑を浮かべ、後頭部を指先で濡らしてトイレを出た。


 昨日の昼から何も食べていないせいで頭が働かない。


 濡らした髪を撫でつつ廊下を歩いていた、その足が不意に止まった。


 多村は前を向いたまま目を見開いた。熱を帯びた血液が体中を駆け巡って行くのを感じながら、あの部屋へ向かった。映像を早送りし、最後の場面にあわせた。ベランダで会田が劇団員に向かって遺言めいた叫びを浴びせている。そこで映像は終わったが、多村の目は画面に釘付けになったままだった。


 桜井の言う通り、自殺であれば裏があろうとなかろうと警察の介入するところではない。

 会田は自ら死を選んだ。自殺する様子が撮影されていた。そう思い込んでいたが、逆だ。


―この映像は


 直前でカメラが停止し、肝心な場面は撮影されていない。


 カメラが止まり、会田が落下して死亡する。その間に何が起きていたのか。


―この映像は


 多村は供述調書に何度も目を通している。劇団員が目撃した会田が落下するまでの詳細が記されている。会田は躊躇うことなく飛び降りた、とっさに駆け寄ったが間に合わなかった、劇団員は事情聴取にそう語っている。しかしその様は映像には残っていない。

 目の前で飛び降りようとしている人間がいる。駆け寄ろうとしてカメラを止める。そして落下して死ぬ。それは何を意味しているのか。


―初めからここでカメラを止めるつもりだったのではないか?―


 死の場面を撮影する気はなかった、とすればやはり死ぬのを知っていた、ということか?正確に言えば


―落下するのを知っていた―


 ことになる。とすると


―落下を止める気がなかった―


 ということか?

 では慌てて駆け寄ったのはなんだ。あれはなんだったんだ?止めるためではないのか?


―駆け寄ったのは演技―


 ということか?


 劇団員だから先入観を持ってしまうのかもしれないが、映画であれば直後に「カット!」と声がかかって演技を止め、ベランダから引き揚げる。そういうことだろうか?


 とすると会田は?会田はどうしたんだ?会田だけが演技ではなく本当に飛び降りたのか?団員はどこから演技をしていたんだ?会田だけが演技をしていなかったのか?


 はっと気づいて多村は顔を上げて宙を見た。心臓が激しく打っている。


―会田の飛び降りも演技だったのではないか?-


 カメラが回っているその前で、飛び降りる演技をしていた。


―本気で飛び降りる気はなかった―


 それならば、あの後、カメラが止まった後、会田は自らの意志ではなく、誰かの手で落下させられたことになる。


 誰の手で?特定はできない。しかしその場にいた全員が一部始終を見ていたことになる。

 滝沢たちが隠していること。それは


―会田の殺害―


 なぜ口論中もカメラを回していたのか。疑問だったが、会田の死を自殺と偽装するため、初めからそれが目的で撮影されたものだったと考えれば納得が行く。


 葬儀で流していた涙も全て演技だったのだろうか。喪服という衣装をまとった役者が哀しむ演技をしていた、自分は知らぬ間に観客にさせられていた、そういうことなのだろうか。

 多村の背筋に冷たいものが流れて行った。

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