第60話 夏空に恋果つる

 お弁当を食べながら声を潜めて伊緒は嗚咽している。その伊緒のかすかな泣き声が聞こえるほどの距離に由花は立っていた。


 由花はそんな伊緒の無様な姿に、伊緒のあまりにも深すぎる喪失感と絶望を見た。ようやく由花は、伊緒が本当に心の底から機械に恋をしていたのだと理解した。そしてそれを失った心の傷の深さも理解した。その伊緒の姿に由花は初めて怯んだ。この伊緒の強い想いを拭い去ることが、この傷の深さを埋めることが果たして自分には出来るのだろうか、と。みるみるうちに胸が恐怖という名の重機に押し潰されそうな感覚に襲われる。


 できっこない。


 伊緒のあまりにも強く深い愛情に比して、自分の気持ちがあまりにも浅く薄いもののように思えてきて、惨めで情けなくて悔しくなってくる。悔しくてたまらない。

 私は今はもう存在しない粉々になったスクラップのアンドロイドごときにも勝てないどころか、大好きな伊緒の想いの強さにも勝てない。自分がただの浅はかで無力なばかに思えて仕方がない。今みたいに一人で勝手にはしゃいで空回りしてくるくる踊ってばっかり。伊緒の深い傷心に付け込んでその心をかすめ取ろうとした最低女。何てさもしい。私はいっちょ前に恋した気分に浸っていただけだったんだ。

 伊緒の無機物への強い想いに比べるべくもない自分の人間への浅薄な想いが、恥ずかしくてしかたなかった。気がつくと両の目から零れた涙が、乾いたモルタルの地面に落ちていた。

 由花は自分のお弁当を抱えて誰もいない渡り廊下を足早に逃げ去る。

 ここは私のいていい領分じゃない。そう思った。


 伊緒が怖かった。


 どすんと誰かにぶつかる。誰なのか確かめて怒鳴りつけてやろうかと思ったが、見上げて泣き顔を見られたくないのでそのまま何も言わずすり抜けようとした。が、二の腕を掴まれる。


「由花」


 聞き慣れた声だ。思わず面を上げてしまった。彩希の声だった。


「探してたんだよ。もしかして伊緒の所に行こうとしたの?」


 彩希は、こういう時だけ察しがいい。自分の浅はかさまで気取られたみたいで悔しくてふて腐れ顔になってそっぽを向く。


「そうよ。悪い?」


「そか。……つらかったの?」


「ぜっ、全然」


 彩希の表情はいつものふざけたものと違い、どこか真剣で、どこか思いやりが感じられて、どこか悲しそうだった。


「そんな顔には見えないよ」


「……うっさい!」


 突然感情を爆発させた由花は、彩希を両手で突飛ばそうとする。しかし体格の差か彩希はびくともしない。それに腹を立てて更に何度も彩希を手で押す。


「うっさいうっさいうっさいっ! 彩希のくせにっ!」


 何の抵抗もしないで由花の事を悲しげに見つめる彩希。その彩希のブラウスを掴んで揺すりながら、由花は頭を振って喚き出した。


「あんな…… あんなの分かんない、分かんないよっ! なんであんなに機械の事好きになっちゃうの分かんないっ! あんなに好きになっちゃってたら誰も彼も私も彩希も割り込む隙なんてないじゃないっ! 抱え起こしてやるなんて無理だってっ! 彩希のばかっ、無責任な事言わないでよっ! なんなのよ、なんでアンドロイドなんかにあそこまで本気になっちゃうのよっ! あんなに、あんなに想っちゃってるんだったら私もう…… 私もう無理だよ…… 無理だよぉ…… うっ、うっ、うぇぁぁあぁ……」


 とうとう由花は泣き出してしまった。お弁当が由花の手から滑り落ち、中身が巾着からこぼれ出す。

 由花は彩希にしがみつき人生で一番の大泣きをした。やはり少し泣きそうな彩希は、お弁当を持っていない方の手で由花の背中を優しく叩いてやるしか出来る事がなかった。


 由花の恋が終わった。


 渡り廊下の向こうに見える校庭では、背の高い紫苑が夏風に揺られ、たくさんの小さな薄紫の花をそぞろに咲かせていた。

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