第59話 卵焼き
後期開始初日にはもう、三年E組の矢木澤シリルが所有者により廃棄されたとの噂が駆け巡った。伊緒のクラスだけではない、この噂に学内全体が色めき立つ。実際このアンドロイドは登校しておらず、その事実が噂の正しさを裏付けているように生徒たちには思えた。
また、シリルとかかわりが深いと言われている島谷
様々な噂が渦巻くなか、矢木澤シリルは暴走したアンドロイドに遭遇し、これを止めようとして相打ちになった、とまことしやかにSNS上で語る者も現れたが、これは眉唾物としてあまり真剣には取り上げられなかった。また、先の幹線道路での大爆発事故に巻き込まれたという噂もあったが、これもあまり顧みられることはなかった。
更にはマスコミ研究会が満を持してシリルの消息を公表すると予告し、大いに学内の注目を集めたが、結局その後はなしのつぶてで、マスコミ研究会は甚だしくその信用を失墜させた。
シリルの最期に関与した
シリルと同じく始業日に登校していなかった島谷伊緒は、今までとは全く別人のようになって登校した。しかも包帯や絆創膏で痛々しい姿の伊緒が姿を見せたのは後期授業も始まってから十日も過ぎてからのことだった。
伊緒は彼女にしては驚くほど早い時間に登校し、学内のタブレットで調べ物をしたり参考書のダウンロードをしたり、とおよそ今までとは全く異なる行動をとっていた。そして何よりもその顔立ちにクラスメイトは驚いた。前期の最終日までとは真逆の形相、無表情と何かに憑りつかれたような表情とが逆巻いているかのような顔貌に皆近寄りがたい何かを感じた。
昨年の球技大会で、シリルと同じバレーボールのチームメイトだった
球技大会や文化祭、音楽祭を経て、シリルは徐々に同級生たちと交流を持つようになっていた。人間と違って裏表の(ほとんど)ないシリルはクラスで一定の信頼を得ていた。だからか伊緒の話を聞いた時、三城を含む女子の幾人かは肩を寄せ合って静かに泣いていた。まるで人間の友達を失った時のように。だが伊緒はそれにすら関心を示さず、今度は予備校の選定を始めていた。
これから始まる体育の合同授業を前に校庭のトラックで屈伸する伊緒に声をかける女生徒がいた。伊緒と同じく包帯を巻き絆創膏をあちこちに貼っている。
「まだ痛いところでもあるの? 元気ないじゃない。」
「……そんなことないよ、大丈夫」
希美代は伊緒の表情を見て何かを悟る。
「そっ、腹を決めたのね」
「……うん」
「大変よ、今から医大だなんて。しかも現役。しかもあんたの成績で。普通無理」
「わかってる。でもやらなくちゃいけないんだ」
「強いわね」
「そんな事ない。弱いから、だめだったんだ」
そう言われると失敗に終わった策を建てた紀美代は強い負い目を感じる。こんな時はどうしたって少し鼻の詰まった声になってしまう。
「ううん、その責任は私の方にこそあるから。本当にお詫びのしようもないわ」
心から申し訳なさそうな表情の紀美代に対し、伊緒は寂しそうに笑う。
「そんなことないって。希美代さんは何一つ悪くないよ。これはあたしの責任」
あまりにも深い痛苦を抱えているのにも関わらず、伊緒は希美代を責めるどころか泣き言の一つもこぼしたことがない。それが逆に希美代にはこたえる。希美代は敢えていつも通りの口調で伊緒に話しかけた。
「そっか。じゃ、これから心機一転巻き返しね。ね、お昼一緒にどう?」
「ありがと。でもやめとく」
「そんな思い詰めてちゃ疲れるわよ。それに色々考えなくちゃいけない事だってあるでしょ。聞いてあげるから」
「うん、でも、やっぱり一人がいいんだ」
「そう」
「うん、ごめん。いや、ありがとう」
「いいのよいいのよ気にしないで。あんたへのお節介は私の趣味みたいなもんなんだし。でも何かあったら私に訊きなさいよね。やらなくちゃいけない事がまだまだいっぱいあるんだから」
「うん、そうだね。本当にありがとう」
「じゃね。ああ、それとくれぐれも無理し過ぎないように!」
「うん」
希美代は伊緒の思い詰めた目が心配だった。
昼休み、伊緒は一人でいつもの場所に向かった。一人で席を立って教室を出ていく伊緒への周囲の目は、好奇と同情に満ちていたが、今の伊緒にはその視線がいくら突き刺ささってきても何も感じなかった。全くどうでもいい事だった。
同じ頃いそいそと同じ場所へ向かう小柄な生徒の姿があった。
矢木澤は遂に全損廃棄の憂き目にあった。バラバラの粉々になったそうじゃないか。その話を聞いた時は少しスカッとした。機械は簡単に壊れる。簡単に打ち捨てられる。そう、人間とは違う。
所詮は機械でしかないアンドロイドと血肉の通った人間には決定的な違いがある事を、これで伊緒も思い知っただろう。
今こそ生身の人間に目を向けさせる。プールの時には正直心が折れたかと思ったけど、肝心の矢木澤がもういないなら何も恐れることはない。私が伊緒の目を覚まさせ、伊緒の心をあるべき姿に直すんだ。誰よりも伊緒を大切に想う私にしかできないんだ。まずはお昼を一緒して色々な話を聞こう。きっとまだ妄執に囚われているだろうからそれをきれいに拭い去ろう。私も話したい事が沢山たくさんある。今までのように仲良くすれば、伊緒はまたきっといつもの伊緒に戻ってくれる。そして私の事も見てくれるように。
高鳴る胸を押さえつつ由花は速足で伊緒のいる第二美術室前に向かった。
伊緒は一人で黙々と機械のように食事を摂っていた。時折3Dホロタブレット端末で模試のスケジュールを調べている。
卵焼きを箸で掴んで口に運ぼうとしてその鮮やかな黄色に目を奪われた。珍しく上手く焼けた。卵焼きは小さい頃に大好きだった祖母から教わった。伊緒の少し得意な料理で、ごくたまに焦げ目なくきれいな黄色を出せるのがちょっとした自慢で、塩味を効かせて甘味を抑えた味付けが特徴だ。
初めてこれを見たシリルが不思議がり、珍しく伊緒にねだるので食べさせると、なぜか目を白黒させていたのを思い出す。
きっとお菓子のような味だと思っていたんだろうな、と伊緒の口からクスッと思い出し笑いがこぼれた。
涙も止まらなかった。
シリルは、もう何も食べられない。もう何も。卵焼きも青いソーダアイスも珍しい肉もアヒージョも。卵焼きとご飯と涙と鼻水を噛みしめながら、伊緒は膝の上のお弁当を抱えるようにして身を震わせ泣いていた。
2020年9月7日 加筆修正しました。
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