第33話 まがい物

 伊緒いおはまたプールサイドからプールに飛び込み、監視員からしつこく注意されながらも、シリルのいる対岸へ辿たどり着く。ずぶ濡れの伊緒は体育座りをしているアンドロイドの隣にそそくさと座った。省エネモードに入っていたからか表情が硬直していたシリルは、伊緒を感知すると静かすぎる笑顔で伊緒を出迎える。

「おかえりなさい」


「うん、遅くなっちゃってごめんね。なんか色々話に花が咲いちゃって」


「いいのよ。その方がずっといいの」


「その方がいいって? どうして?」


 伊緒はシリルの表情が硬かったのは、なにも省エネモードに入っていたからではないのかも知れないと勘付いた。


「私ね、やっぱり水が怖い。すごく怖いの」


 シリルはその恐怖の対象であるプールを凝視しながら無表情で言う。


「え、ああ、いや気にしてないから! ほんっとに! ねっ。無理しないでいいんだから」


「……心が出来てから」


 慌ててシリルを元気づけようとする伊緒にシリルは膝に顔を埋め囁くように話す。


「えっ?」


「私に心が出来てからなの。水が怖くなったのは。それまでは全然平気だった。だって、理論上は間違いなく防水されてるんですもの。なのに今はね、『万が一』ってそう考えるともうどうしようもなく怖くて……」


 抱えた膝の間に顔を埋めたままのシリル。シリルが本当に言いたい事は何なのか伊緒には分らなかった。だから結局シリルに何と言葉をかければいいのかも分からない。伊緒は困惑して頭をくしかなかった。二人に沈黙が流れる。シリルが顔を上げ漸くポツリと言葉を吐き出した。


「伊緒。やっぱり伊緒は人間のお友達と交流した方がいいわ。私みたいなアンドロイドはあなたに不釣り合いよ」


「え…… なんで急にそんな事……」


 シリルは両手で抱えた脚のひざあごを乗せて無表情に話す。


「急じゃないの。本当は私に心が出来てから似たような事はずっと考えてた。やっぱり人間とお付き合いした方が伊緒の心はずっと豊かになると思う。私の心は機械から生まれたまがい物だから、だから私なんかとは……」


「そんな、どうしてそんな事言うのさ。シリルの心はまがい物なんかじゃない。ないって…… シリルの心は人間の心とどこも違わないってば」


「質が違うの、根本的に。人間から生まれたタンパク質で構成される脳から生まれた心と、金属や鉱物でできたWドゥブルヴェからたまたま生じてしまったバグでは」


 伊緒は驚いてまじまじとシリルの横顔を見つめる。その思い詰めた人工の眼球が実に寂しそうに見えて、だからこそ逆に伊緒はシリルの心の完全さを確信する。伊緒はそんなわからず屋のシリルに苛立ちつい語気を強めた。


「違わないってば」


「違うの!」


 少し怒った顔の伊緒に対し、ぐいっとこちらを見たシリルの顔もはっきりと怒気を孕んでいた。しかし、それ以上に美しくて悲しげな瞳をしている。気持ちが高ぶった時の特徴である、瞳孔どうこうが深紅と黄色に激しく明滅する様が顕著だった。シリルの怒った顔を初めて目にした伊緒はどきりとする。


 シリルはいかにも盛夏らしい快晴の空を見上げ言葉を続ける。


「そう、やっぱり違うのよ。伊緒があの二人と話しているところ見たら誰だってそう思うわ。私の心はさっき言ったように人間のそれとは何から何まで違うんだもの。よくよく考えたら当たり前の事よね。こんな心では絶対伊緒にいい影響を与えない」


「そんな事無いって! どんな人間にも引けを取らないよ、シリルの心は。でももしシリルがそう思うなら、今まで以上に色々なものを見たり聞いたりしようよ。一緒に連弾もしてみよう。もっとシリルの心を豊かにしてみようよ。でも、そんなのあたしは必要ないと思うけどさ。ね、だからもうそんな事言わないで――」


「だから! それが私には負担なの! 重いの! その伊緒の気持ちが! 買い被り過ぎよ。私そんなに立派じゃない。そんなに何でも出来るわけじゃない。そもそもからして私は伊緒に見合った心の持ち主じゃないんだもの。どうやっても変えられないものだってあるじゃない!」


 さっきより少し大きな声になるシリル。一気に喋るとまた膝に顔を埋める。伊緒はプールサイドの向こうに視線をやって静かに話し出す。プールではたくさんの人間が泳いだり遊んだりしている。その歓声や水音が水面にこだまして、周囲に楽し気に響き渡る。その中にアンドロイドの姿はない。


「あたしは、シリルが言う『心の豊かさ』とか『いい影響』とか知らないし分らないし、本当の事を言うとそんなことどうでもいいんだ。由花や彩希といる時よりシリルといる時の方が、ずっとずっと心が優しくなるし嬉しくなるし楽しくなる。心が豊かになった気がする。どんどんシリルの事が好きになってく。それじゃだめなの?」


「……」


 シリルは面を上げると膝に顎を乗せ悲しげで寂しげな表情のままプールサイドの水面を見つめている。


「もし、もしもだよ、さっきシリルが言ってたみたいに、心に本物とまがい物があったとしてもね。大事なのはその心が本物かどうかじゃないと思うんだ、あたし。その心が人からどう愛されるか、とかその心で人をどう愛するか、とかの方が遥かに大事なんじゃない? 違う?」


「……でもそんなまがい物を愛しても、きっと無駄に終わるわ」


「無駄じゃないって」


「無駄なのよっ!」


 きっ、と伊緒を睨んで鋭く言葉を放つ。さっきよりさらに少し大きな声で、対岸の由花や彩希にも聞こえてしまったかもしれない。


 伊緒は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になると同時にひどく驚く。シリルが伊緒に何も言わずこれほど悩み苦しんでいたとは思いもよらなかった。この苦しみからシリルを解放したい。もし伊緒にそれができなかったら、シリルは自ら心を閉ざしてしまうのではないか。そしてまたただの機械に戻ってしまうのではないか。そう想像すると伊緒はぞっとした。伊緒は一斉試験を受けている時を遥かに超える真剣さで考えを巡らせ、なんとかシリルを納得させようと思った。



【次回】

 第34話 伊緒、懸命に語る

 5/18 22:00 公開予定 

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