憂う華
志央生
憂う華
「俺は、人を殺したことがあるんだよ」
ビジネススーツに身を包んだ男はとあるキャバクラで自慢げにそう語りだした。酒が進み、ほどよく気分が高揚したのか、はたまた隣に座り胸元が開いた薄手の衣装を着るキャバ嬢の気を引きたいのか。
「本山さん少し飲みすぎましたか? はい、お水ですよ」
キャバ嬢は手慣れたように水をグラスに注ぎ、本山と呼んだ男に手渡す。が本山はそれを突っぱねると再び同じことを言う。
「別に酔ってない。俺は本当に人を殺したことがあるんだ」
さすがにキャバ嬢も呆れ、話半分に相槌を打っていた。しかし、だんだんとどこか現実味を感じてしまうほどリアルなことに気が付く。次第にキャバ嬢はその話に興味をひかれ始めていた。
「俺を襲ってきたのは部下だったんだよ。正確に言えば〝元〟だがな」
「元?」
途中まで聞くつもりもなかった話にキャバ嬢は食い気味に聞き出した。本山はその姿を見てさらに気分がよくなった。
「そう〝元〟だ。少しワケあって会社をクビになった奴だったんだ。そいつが俺に向かって刃物を出して襲いかかってきたんだ」
その時のことを思い出しているのか本山は少しばかり、間を持たせどうなったかを語りだす。キャバ嬢はその緊迫とした空気感を想像しつつ本山の話に夢中になっていた。
「俺も刺されまいと必死で、揉み合いになっている最中にそいつの胸に刺さっちまったんだよ。まぁ、だから俺は正当防衛ってやつになったわけだ」
本山はそういうと高らかに笑いながら酒に手を伸ばし、一気に飲み干した。
キャバクラを後にした本山は千鳥足になりながら帰路についていた。一通りの少なくなった街をご機嫌になりながら歩く。やがて、道の端に積まれたごみ袋の山の中に倒れこんだ。
全身に酔いが回り本山の呂律は、はっきりしていなかった。言葉ではない言葉を喚き散らしていた。そこに、ふと一人の女が通りかかった。仕事終わりなのか、彼女もまた女性用のスーツに身を包んでいた。ごみ袋の中に埋もれる本山を見つけた彼女は、恐る恐る声をかけた。
「だ、大丈夫ですか?」
彼女は優しく声をかけるが本山はご機嫌のまま適当な言葉を並べていた。
「家がどこかわかりますか?」
本山にそれでも優しく問いかけ、彼女はやがて本山を起こし夜の街に姿を消していった。
本山が目を覚ましたのは、カーテンの隙間から漏れた日の光のまぶしさだった。
酔いから覚めた本山は困惑していた。目が覚めたとき、自分はパンツ一丁で見知らぬ部屋のベッドで寝ていたからだ。どうやってここまでやってきたのか、その記憶だけがすっぽり抜け落ちていた。覚えている限りの記憶をたどり、ここに至るまでの経緯を思い出そうとするがキャバクラで飲んでいたこと以外なにも思い出せなかった。
部屋に設置されたシャワールームから水が流れる音が聞こえてきた。
部屋の中を見渡すと自分の着ていた服以外にもう一着、見知らぬ女性用スーツがハンガーにかけられている。
自分のほかにも誰かがいることに驚いた。
「知らぬ間に自分でイイことをしていたとは」
少しばかり記憶がないことを残念がりながらも、いったい誰が自分をここまで運んだのか本山は考えながらシャワールームから出てくるのを待った。しばらくするとシャワーの音が止まり、扉が開いた。バスローブに身を包んだ女が出てくると、本山が起きたことに気が付いた彼女はにっこりと笑いかけた。
「起きられたんですね」
「あ、あぁ」
本山はつい、ぎこちなく答えてしまう。記憶に無いところで何があったのか分からない女性にどう話しかければいいか妙案が浮かばず曖昧な返事をしてしまった。お互いに何も話すことがなく、お互いの顔を見つめたまま黙り込んでしまう。
「あの、シャワーでもどうですか? すっきりすると思いますよ」
彼女の勧めに従い、本山はシャワールームに行き汗ばんでいた体を洗い流した。
本山がシャワールームを出てくると、彼女はすでに身支度を済ませていた。
「すいません、私はそろそろ会社に行かないといけないので」
彼女はそういうと一言声をかけて立ち去ろうとするのを、本山は引き止める。
「少し待って、まだ連絡先を聞いてない」
「連絡先ですか?」
彼女は不思議そうな顔で本山に聞き返す。
「いや、今回のお礼をしたいので連絡先を教えてもらいたくて」
「あっ、そういうことですか。わかりました」
女はそういうとベッド近くに置いてあったメモ帳に連絡先を書き、それを本山に渡す。
「佐々木陽子さん、ですか。俺は」
佐々木陽子と名乗った彼女に今度は、本山が名刺入れから一枚自分の名刺を取り出し手渡す。
「ありがとうございます。……本山、本山明人さん」
陽子は本山から渡された名刺を見て一瞬だけ困惑した顔を浮かばせた。しかし、すぐにその表情から笑顔に戻り「それでは」と告げて部屋を出て行った。
本山は陽子を見送ると早速、携帯電話を取り出しメモ帳に書かれた連絡先を登録しようとする。すると、開いた携帯電話には本山の妻である理恵子から数件の不在着信が表示されていた。妻に連絡するより先に、陽子の連絡先を登録しその電話番号をしばらく眺めた後、深いため息を吐きながら本山は理恵子へと電話をした。
夫婦間の熱はとうに冷めきっていた。元々、大学で本山は理恵子とは知り合い意気投合したのがきっかけで付き合うことになった。それから二人は社会に出て一年余りで結婚した。今にして思えばその頃から少しずつお互いに興味を失いかけていたのだろう。そして、本山は仕事が忙しいことを理由に家に帰る機会を減らした。理恵子もそんな本山を責めることなく受け入れていた。そんな関係性でありながら本山が理恵子と別れないのは、自身の立場にある。会社内では特に離婚やら不倫というものに過敏に反応を示すものが多い。本山はそういう面からも理恵子が浮気をするのを期待していた。あの女が迷わずどこぞの馬の骨と関係を持てば、本山は迷うことなく離婚を言い渡すことができ、なおかつ自由の身になれる。しかし、理恵子は強情なことにそんなことはしなかった。そのため本山は困り果てていた。
しかし、ここにきて本山自身が泥酔し見ず知らずだった陽子に介抱されてしまうとは我ながら恥ずかしい話だと考えていた。しかも、陽子は本山の好みだった。そうなると早く理恵子と別れたいと思う気持ちが大きくなる。理恵子に早く男が出来てくれないだろうか。いや、もしかしたら既に男との関係を持っているのではないのだろうか、と淡い期待ばかりをしてしまう。
「部長、ぶちょう!」
会社のデスクに肘をつきながらそんなことを考えていると、目の間に立っていた部下が本山の名前を呼んでいることに気が付かなかった。
「どうかしたんですか?」
「いや、昨日少し飲み過ぎたみたいでね」
本山は今朝から続く、二日酔いの痛みを言い訳に部下に説明する。
「部長って確か、お酒は強くなかったですか?」
「もしかしたら、俺も年かもしれないな」
「まだ部長、三十五じゃないですか」
笑いながら部下の男との談笑をするが、その間も本山の頭の片隅には陽子のことで埋まっていた。
「ただいま」
職場からまっすぐ家に帰った本山はけだるげに帰宅したことを家の中にいる住民に知らせる。
「おかえり、昨日はずいぶんとご機嫌だったのかしら?」
理恵子はリビングから顔をのぞかせ、嫌味たらしく本山に言葉を返す。本山は玄関で光沢のとれた革靴を脱ぎ、リビングに続く廊下を歩く。
「少し飲み過ぎてね。家に帰ろうにも帰れず仕方なくホテルに泊まっただけだよ」
本山はスーツのネクタイを緩めながら帰宅途中に考えていた言い訳を語ると、理恵子は「そう」とだけ返して食卓にご飯を並べ始める。
「そうそう、昨日あなたに伝えようと思っていたのだけど」
食事を始めたそばから理恵子は口を開いた。本山は箸を止めることなく理恵子の話を聞いた。
「それで、高校の時の友達と二泊で旅行に行こうって話になってね」
その話を聞いたとき、本山の中で好機だと思っていた。旅行に行く相手が高校の友達というのは口実で、本当は男との旅行なのではないかと考えを巡らせていた。
「それでね、久しぶりだし旅行に行きたいんだけどいいかしら?」
「あぁ、たまには羽を伸ばしてこい」
本山は口先だけの言葉を理恵子に投げかける。その心中で、理恵子の浮気している決定的な瞬間をどう捉えるか考えているのだった。
「それで、あなたは奥さんを尾行してほしいと」
「えぇ、まぁそうですね」
応接室でソファに腰掛けながら本山は目の前に座る男に話をしていた。先ほど出されたコーヒーの香りが部屋の芳香剤と混ざり独特なにおいに変化していた。
木島探偵事務所、本山は理恵子の浮気現場を抑えるために探偵に旅行中の尾行を依頼しに来ていた。
「つまり浮気調査ですか」
「そうなりますかね」
本山は苦笑しながらも木島に言葉を返す。この絶好の機会を逃すわけにはいかない、何としても理恵子の不倫している証拠を手に入れる。それだけで頭の中はいっぱいだった。
「わかりました、受けましょう」
探偵は、はにかみながら本山の依頼を請け負った。
それから瞬く間に時間は過ぎ去り、理恵子が旅行に出かける日になっていた。
「それじゃあ、行ってくるわね」
大がかりな荷物を持って理恵子は玄関前にいた。
「あまり飲みすぎないようにね」
「わかってるよ」
本山は面倒くさがりながら返事をする。心の中ではもうじき判る理恵子の浮気の決定的な瞬間を今か今かと待ちわびていた。
理恵子が家を出ていくと早速、本山は酔っぱらった時に介抱してくれた陽子に連絡をとった。すると、連絡を待っていたかのようにすぐ陽子からの返信が返ってきた。
その夜、本山と陽子は食事をすることになった。本山はいつも通り会社に出るが、少しばかりいいスーツを着込み意気揚揚と仕事をこなした。
夜はすぐにやってきた。待ち合わせ場所として指定された場所で待っていると、五分ほど遅れて陽子はやってきた。やはり何度見ても、きれいな顔をしている。整った顔立ちに、スーツに浮かび上がるボディラインがさらにそそられる形をしている。本山は思わず生唾を飲み込んでしまっていた。
「おまたせしました」
「いや、俺も今来たところだから気にしなくてもいい」
本山はそう告げると、「近くで行きつけのところがあるんだ」といい陽子の隣に並び店に向かっていった。
いつもはあまり飲まないワインを開け、洒落た器に乗った料理に手を付けていた。
「ほんとうにごちそうになってもいいんですか? こんな高そうなところ」
「まぁ、今回は先日のお礼なんだから気にしなくていいよ」
そういうと、慣れた手つきで食事を食べていく。その後、食事をしながら女との談笑を少し楽しみ店を出た。
「あの、よろしければ今度は私の行きつけに行きませんか?」
店を出て少し夜風に当たりながら歩いていると、ふと陽子がそんなことを言い出した。本山は迷うことなく了承し、陽子の行きつけの店へと向かった。
陽子が連れてきたのは少し古いバーだった。趣のある店内には静かなジャズミュージックが流れていた。カウンター席のみの店内には、人がおらずどの席に座ってもよさそうだったが陽子は迷うことなく壁寄りの席に座った。本山もその隣に腰を下ろした。
「いつものください」
陽子はカウンター席に座ると対面に立つバーテンダーに告げると、静かに頷き酒をシェイカーで混ぜていく。
「何を飲みますか?」
隣に座る陽子に聞かれ、本山は少し考え気分を考慮し何を飲むか決める。
「あぁ、じゃあ――」
本山もいっぱいのお酒を注文し語らいあった。
「お連れさんかい? めずらしい」
夢中で話し込んでいると、目の前にこの店のバーのマスターと思しき男が陽子に酒を提供しながらそう告げてきた。
「えぇ、ちょっと縁があって」
楽しそうに笑う陽子を本山は横目に男は自分にも提供されたお酒に口をつける。
「よくここに来るのかい?」
「そんなに頻繁には来ないけど、たまに」
陽子はどこかさびしげに答える。本山は事情を察し、何も言わずに話を聞いていた。
「そういえば、なんであんなところで酔いつぶれていたんですか?」
急に話が変わり、本山は少し困り顔になってしまうがすぐにその日のことを話し出す。
「そうだったんですね」
陽子がお酒に口をつけるたびに唇が水滴に濡れる。そのたびに艶がうっすらと浮かび、本山の視線を釘付けにしていた。
「終電も出ちゃいましたね」
話が盛り上がりすぎて終電を逃してしまった。何度か携帯電話が鳴っていたが依頼していた探偵からだった。たぶん、妻の決定的な瞬間をとらえたという報告だろうと思い電話を取ることはしなかった。
「あのどうします?」
陽子の問いに本山はどうするか悩む。明日は休日で仕事も休みだ、無理に家に帰る必要性もないと考えた。
「どこかで泊まるとするよ」
年末を間近に控え、会社も仕事納めに向けて忙しくなっていたころ本山は残業を終えて家に帰ろうとしていた。スーツの上からコートを羽織っていたが冬の時期に吹く風の冷たさの前には意味を成していなかった。身を縮ませながら歩いていると物陰から一人の男が姿を現した。本山にはその男に見覚えがあった。半年ほど前まで自分の部下として同じ会社で働いていた男だった。
「佐久間か、久しぶりだな。お前があんなことをしてからだから、半年くらいか」
本山は何の警戒心もなく佐久間と呼んだ自分の元部下に近づいていく。しかし、数歩だけ歩いて本山は立ち止った。それは佐久間が手に鈍く光る刃物を持っていたからだ。
「ずいぶんと物騒なものを持ってるな」
「あぁ、これか……少し野暮用があって」
佐久間は本山の言葉を聞き自分の手に持っている刃物に一度目を向けた。そして、再び本山を見ると一気に近づいた。
「俺はどうしても知りたいんだ。俺がなんであの時、会社をクビにされたのか」
本山の腹部に刃物を押し当てる。佐久間は本山の顔を睨みつけながら「真実を言え」と口を動かした。本山は自分が助かるための方法を模索し、自分が知る限りの真実をこたえることを選択する。
「佐久間、お前が解雇されたのは不正行為を働いたからだ。その証拠も見つかった、だからお前はクビになった……」
「違う! 俺は不正行為なんてしていない」
怒鳴るように佐久間は声を上げ、腹部に押し当てられた刃物にさらに力が籠められる。
「そうだな、お前は不正行為なんてしていない。俺は知っているさ」
「本山部長」
逆上していた佐久間にやさしく説いかけると、彼の手から力が一瞬だけ弱まった。本山はそこを見逃さなかった。刃物を握っていた佐久間の手首を掴んだ。
「なっ」
「佐久間、確かにお前は不正行為なんてしてない。それは俺が知っている、なぜなら俺が不正行為をしてたんだからな」
本山は佐久間ともみ合いになった。本山の手にもみ合っている中では感じることない感覚が伝わってきた。佐久間の力が急に抜け、コンクリートの地面に倒れこんだ。いつの間にか刃物は佐久間の胸に突き刺さっていた。
「おい」
倒れた佐久間を起こそうと揺らすが返事が返ってくることはなかった。
本山はいやな夢に起こされた。体中に汗をびっしょりと掻いた体にベッドのシーツが張り付いていた。
「夢に見るとは」
数年前、会社の元部下を殺した。それ自体に罪の意識などがあるわけではない。だからこそ、今まであんな夢を見ることもなかった。しかし、今頃になってあの時のことを夢に見るとは思ってもいなかった。もしかすると、佐久間が自分に呪いでもかけているのではないかと本山は考えたが、現実的に考えありえないと鼻で笑った。隣で眠る陽子の穏やかな姿を見つめ、もう一度眠るために本山は目を閉じた。
翌日、早朝から家に帰った。家の鍵を開けて中に入ると靴が一足おいてある。その靴は旅行に出かけたはずの理恵子のものだった。
「ずいぶんと遅いのね」
怒りを隠しきれない理恵子に本山はなぜここにいるのかを問う。
「えぇ少し分け合ってね。それで帰ってきたの」
男は昨日の晩に来ていた探偵からの連絡を思い出した。まさか、あの連絡は理恵子の両行が中止になったことを知らせるものだったのかと後悔していると理恵子は先ほどの質問を返してきた。
「それであなたは?」
「いつも通り、外で飲んでいたんだ」
何も悟られないように澄ました顔で答える。
「泊りで?」
「あぁ、また少し飲みすぎてね。帰っても君がいないのではどうしようもないと思って泊まってきたんだよ」
本山は方便を並べる。
「そう、ならこれはいったい何かしら?」
短く答えた理恵子は何枚かの写真を机の上に置く。それが何の写真かすぐに理解できた。
「まさか」
そこには本山と陽子の姿が写っていた。誰が撮ったのかわからない。
「私はね、あなたがいつ浮気をしてくれるのかずっと待っていたの。それで、あなたのことをずっと探偵に追わせていたのよ。でも、いつまで経っても尻尾を出さないから困り果てていたんだけど、先週になってあなたがやさしく女性に介抱される姿があったと連絡がきたときは嬉しかったわ」
嬉々として理恵子は話し出す。
「でも、その時はあなたもだいぶ泥酔していたみたいだから証拠としては弱かったのよ。そこで一芝居打つことにしたの」
「まさか」
「そう、旅行に行くと言うのはね嘘なのよ。あなたのことだからここが好機と動くんじゃないかと思って」
本山はしてやられたと思った。狩るつもりが逆に狩られていたとは。
「これであなたと別れることができるわ。これにサインしておいてね」
机に離婚届を置き、理恵子は家を出て行った。
しばらくして、理恵子との離婚が成立した。夫である本山に裏切られ心身に多大苦痛を与えたとして慰謝料を請求された。本山はこの支払を受け入れ、過去との清算を済ませた。
部下や上司からの信頼は落ち目になったが、本山にはまだ陽子が残っていた。理恵子との離婚を機に陽子と会う日が増えていった。
年末を目前に控えたとき、陽子から旅行に行かないかと誘われた。大晦日から元旦にかけて本山は家を離れ、陽子の祖父が作ったという地方にある森のペンションに行くことにした。
陽子の祖父の家は随分と年季の入った家だった。室内は少し埃が溜まっていたが、広々したつくりになっていた。本山と陽子はペンションの掃除をしてから使い古された石油ストーブをつけ部屋を暖めた。
その晩、本山はいつも以上に酒を飲み酔いが回っていた。いつかのように泥酔に近い状態になっていた。本山はそこで気分よく昔の話を始める。
「俺は人を殺したことがある」
その言葉を聞いたとき、陽子の顔が一瞬こわばった。だがすぐにいつものように笑顔に戻る。本山は気にせず話を続けた。
「あぁ、そいつは俺に刃物を向けてきたから抵抗したんだ。そいつともみ合いになっている途中で胸に刃物が刺さったんだよ」
「故意に殺したの?」
「少し違うかな、防衛した結果殺してしまったんだ。いわゆる不慮の事故ってやつだ」
本山は笑いながら過去の話をしていた。
夜も深まるにつれて、どこからか除夜の鐘を突く音が聞こえてきた。もうじき今年も終わり新年が本山と陽子を迎えようとしていた。
陽子はキッチンで年越しそばの準備をしていた。本山は掘りこたつに足を入れながら、用意していた小さな箱を取り出していた。少し前に、奮発し購入した指輪がしまわれている。本山は何度もその箱を開けては閉じてを繰り返し、陽子にどう話を切り出すか考えあぐねていた。
陽子は出来上がった年越しそばをキッチンから堀こたつのある机に運んできた。温かいそばのダシの香りが食欲を誘われていた。
「それじゃあ、いただくかな」
本山はそばを口に運び粗食する。その様子を見ていた陽子はどこか満足げな顔をしていた。本山はそばを食べながら持ってきていた指輪を渡すタイミングを考えていたとき、体に妙な痺れを感じる。
「おいしい?」
「あっ、あぁうまいよ」
本山は味の感想を伝えるが、体の痺れは増していく。先ほどから陽子がそばに口をつけていないことに気が付く。まるで、そばの中に何かが入っているから避けているような。
本山の頭にそんな考えがよぎったとき、不意に全身の力が抜けて倒れこんだ。一体何が起きたのか本山は理解できなかった。
「やっと効いた」
陽子は立ち上がり、倒れている本山に近づく。
「らりをじた」
本山は陽子に問いかけようとしたが呂律がうまく回らず、言葉にできなかった。
「きっと、あなたに殺された部下もこんな気分だったんじゃないかしら。一番信じていた人間に裏切られて切り捨てられる」
陽子はどこからともなく注射器を取り出した。その注射器に薬品が入っている。
「やにを」
「彼を殺したあなたにはゆっくり死んでもらいたいの」
本山には陽子が何を言っているのか分からなかった。何だっていうんだ、俺が何をした。彼だと、部下だと? まさか、この女はあの男の
「みゃしゃか、しゃくあか」
本山の呂律からでも陽子には誰の名前を言ったのか分かったのだろう、一瞬だけ陽子は表情を固まらせた。
「そう、あなたの想像通りよ」
陽子は注射器を本山の腕に刺し、薬品を投薬する。本山は薬品が体に入り切ると全身から力が抜けていくのが分かった。
「彼を殺したあなたにはゆっくりと死んでもらいたいの」
本山は意識を失う最後に、どこか寂し気に笑う陽子の顔をその目に焼き付けていった。
陽子は本山が息を引き取ったのを確認すると、家を出て石油ストーブに使っていた石油を家の周りに撒いて火をつけた。一気に燃え広がった炎は、ペンションを包み込み燃えていく。木造の家は見る見るうちに豪華の中に溶けて行った。
気が付けば雪が降り、大晦日を越し元旦になっていた。陽子は雪の降る森の中で姿を消した。
了
憂う華 志央生 @n-shion
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