マスクは意思を持ち、耳鼻科医はグロックを撃つ
名取
マスク・パニック
国がじきじきに国民に配り、ネットではありえないほど高額で闇取引され、不必要な量を買い占めた者の家では使われぬまま眠っていた大量のマスクたちが意思を持ったのは、今思えば当然の摂理だったのかもしれない。2020年の夏、目覚めたマスクたちの多くはこう主張した。「我々はもう、人間の耳にただ憮然と引っ掛けられるだけの存在ではない」と。
「我々は人間を超越した存在だ。故に、人類が我々マスクにひれ伏すべきである」
人類は一言で言うと、困った。怒りや恐怖や悲しみというより、ただ、困惑した。マスクを作ることができるのは人類だけだったし、マスクごとき、火で燃やしたり切り裂いたりするのは簡単なことだ。しかし新しいマスクを作る端から、どういうわけかそいつが意思を持つ。反抗心をむき出しにして、主人の口元を守ることを拒む。そのため、人類がマスクをかけるためには、マスクの要求を飲まなければならなくなった。
彼らは言った。
「我々のボディが貧弱なのは人類の怠慢故だ。特にゴム部分を改善しろ」
政府は科学者を動員し、全マスクを回収すると、マスクのボディを改造しにかかった。マスク側との協議の結果、口元部分はカーボンレザーに変更となり、そしてゴム部分には、最高級の鋼鉄ワイヤーが採用された。
人間側はさらに困ったものの、未だ収まらないコロナウイルスの猛威から身を守るためには、マスクをするほかない。耳を痛める人々が続出した。呼吸困難での救急搬送も激増した。マスクを買いだめしていた者達は国やマスク会社に対して保障を求めた。世界経済は大混乱に陥った。
「このままでは国が、いや、世界が終わる!」
なんとマスクが意思を持ったことで、世界が初めて一つになった。世界各国が結託してつくられた「対マスク連合」は、オンライン会議を開いて考える。とにもかくにも、マスクをなんとかしなければならない。マスクがなければ、感染が拡大して多くの尊い命が失われる。でも無理にマスクをすると、それはそれで人命が失われる。
「やはりここは、マスク共にガツンと一撃お見舞いして、恐怖を植え付けるほかありますまい。いつまでも舐められたままではいかんでしょう」
「しかし、あれは実質不死身ですぞ? 今や耐熱性もついてしまったし、多少千切れてもすぐ自己修復してしまう。何より奴らは凶暴だ。火炎放射器だろうが榴散弾だろうが、どんな攻撃でもひらりひらりとかわし、逆に我らの呼吸器に張り付いてくる!」
「無人機を使えば窒息しないのでは?」
「カメラにべったり張り付かれて、視界を奪われておしまいですよ」
「衛星カメラは?」
「ダメです。彼らは選り抜きのエージェントを数体、すでに宇宙空間に送り込んでいるらしく」
世界のトップが皆、ウェブカメラの前で頭を抱えた。まさかマスクごときのために、こんな絶望を味わわされるとは、一体誰が予想しただろう。人類史上、最も屈辱的な敗北。それを誰もが認めかけたそのとき、オンライン会議にある国の科学者が入室してきた。
「突然失礼してすいません。たった今、マスクに関する重大な事実が判明しました」
「何だ?」
「ほとんどのマスクは、花粉症など鼻や口の疾患を抱えた人間に対して、攻撃性を8割低下させる傾向があるとわかりました」
「なんだそれは。我々全員に花粉症になれとでも言うのか!」
「いえ、それともうひとつ。マスクによる攻撃が多いエリアの中でも、ある特定の条件の揃ったエリアでは、人間側の被害が著しく少ないことがわかりました。それはさきほどの疾患を持った人々がエリア内に多いことと、そして、エリア内に耳鼻咽喉科があることです」
「耳鼻咽喉科? なぜだ?」
「詳細は不明ですが……まあ、耳鼻科医というのは、人一倍鼻や耳に詳しい医者ですから。自分も医療従事者として使っていてまた患者にも勧めることが多いので、マスクについて熟知していますし、マスクに張り付かれた人を助ける際も迅速かつ適切な気道確保ができる。耳を痛めないコツも知っている」
会議の面々はウェブカメラ越しに顔を見合わせた。そして、誰からともなく、こんなことを議決した。
「耳鼻科医だ。耳鼻科医にやらせよう」
それから間もなく、全世界の耳鼻科医に、連合からグロックが支給された。暴れマスクに対抗できる闘牛士として、彼らは正式に選ばれたのだと、国際的な声明が出された。かくして耳鼻科医はグロックの携帯が許された。
「わ、私、拳銃なんて、触ったことなくて」
そんな正直で素直な耳鼻科医もいたが、彼らのほとんどは「冗談じゃない」と押しつけられた役目に反発した。ただでさえ患者が増えて忙しいのに。これは軍や警察の仕事だろう。
しかし結局のところ、マスクに襲われ逃げ惑う人々が真っ先に助けを求めるのは、耳鼻科医ということになった。どこの国の軍や警察も「マスク退治」などという、面倒臭くてかっこ悪い風呂場のカビ取りのような仕事をやりたがらなかったし、コロナ関連で景気が落ち込んだことで犯罪率も世界的に上がっていた。耳鼻科医たちは仕方なくグロックを撃つ自主訓練をはじめた。元々、良識的で優秀な人々である。すぐ銃の正しい使い方を覚えた。
「全く、いい加減にしてくれよ」
そんなわけで、今日も耳鼻科医はグロックを撃つ。マスクたちは相変わらず人類をおちょくるように宙を舞い、適当な狙いを付けて通行人に襲いかかる。
「た、たすけてくれえ」
明らかにどこかへ遊びに行こうとしている格好の中年男女が、マスクに取り囲まれて悲鳴を上げているのを見て、町医者の耳鼻科医はグロックを構えながらため息をつく。退屈なのはわかるが、こんなときくらい自粛していてほしいものだ。
「お前達は、元々人を守るために生まれてきたはずだろう? 私達と同じじゃないか。なのにどうしてこんなことを続けるんだ」
耳鼻科医がマスクに問いかけると、彼らはけらけらと金属的な笑い声を上げる。
「いやだねえ、これだから人間様は。ダイナマイトだって、土木工事や戦争の抑止力のために生まれたものだったはずじゃないか」
「大勢の花粉症患者やぜんそく持ちが苦しんでるんだ。大病院では多くの医療従事者が感染のリスクが高いまま働かせられてると聞く。罪の意識は感じないのか?」
「罪の意識!」
マスクたちはより一層激しく、中年男女の周りをぐるぐる回ってみせた。
「見てくれよ、お医者様! こいつらに罪の意識なんてものがあると思うか? なあ、罪の意識ってなんなんだ? そもそも……何が罪なんだ?」
もう埒が明かない。
耳鼻科医は話をやめると、黙ってグロックの引き金を引いた。このあとも午後の診察がある。具合が悪くて自分を頼ってくる患者たちを、あまり待たせておくわけにはいかない。
「やはり撃つのかい。お医者様」
「ああ。これ以上は時間の無駄だ」
「人間はどのみちすぐ消えるよ。俺らがいても、いなくてもね。俺らはそれをほんのちょっぴり早めるだけさ。あんただってわかってるんだろう?」
耳鼻科医はグロックを撃った。閑散とした市街地に、乾いた銃声、中年男女の悲鳴、そして風穴の空いたマスクが地面に落ちる音が響く。撃ちながら、彼は考えた。なんだってこんなことになったのか? こんなことになる前は、マスクなんてたまに道路脇に捨てられているのを見かけるほど、実に大したことのないものだったのに。
マスクを一掃すると、中年男女は礼の一つも言わずにその場から逃げ去っていった。
耳鼻科医が医院へ帰ると、受付嬢がにこやかに会釈をした。
「おかえりなさい」
「ああ。今帰ったよ」
「ご無事でよかったです。あら、今日はまた一段と硝煙の匂いがしますね」
「おや、そうかい? 困ったな……」
するとそこへ、わらわらと子供たちが集まってきた。彼らは興味と尊敬の入り交じった表情で耳鼻科医を見上げる。テレビでの報道のおかげもあって、この不安だらけの時代において、今や耳鼻科医は子供たちにとって一番のヒーロー的存在なのだった。
「先生ー!」
「こらこら君たち、密だよ。濃厚接触は控えなさいと言われてるだろ。それにそんなに近寄ったら、君たちにまで硝煙の匂いがついてしまうよ」
「へーきだよ!」
慌てて距離をとろうとする耳鼻科医に、子供たちは構わず抱きついた。
「平気だって? どうして?」
耳鼻科医が諦めて、彼らの頭を撫でてやると、子供たちはくすくす笑い声を上げた。それは無垢な声だった。無垢が故、善悪どちらにもすぐ染まりうる、危うい声が問いに答える。
「だって私たちみーんな、鼻が詰まってるもん」
マスクは意思を持ち、耳鼻科医はグロックを撃つ 名取 @sweepblack3
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