少年は銀の瞳の少女と共に

宮杜 有天

序章

 そこは青白く、広い部屋だった。

 青白い光で包まれた八角形の部屋。壁の一面に波紋が浮かび、その中から一人の男が現れた。青白い光に照らされて、短めに揃えられた男の金髪、優しげな面差しの順に浮かび上がる。細身の、二十代半ばの若者だ。


 男は何かを探すように、部屋の中を素早く見回した。

 八角柱の内部を思わせる部屋の床と壁はぼんやりと光っている。その光に照らされて、部屋の中にあるものが浮かび上がっていた。

 いくつもの金属管が並び、部屋の中を整然と走っていた。その金属管は途中で分岐して金属で出来た塊へと繋がっている。床には魔法円が描いてあり、金属塊はその魔法円に描かれたいくつもの秘紋のうち、大きな秘紋に対応する位置に存在していた。

 そして部屋の中央には巨大な水晶で出来た一枚の板が立ててあった。無色透明の板。言われなければ、そこに板があることすら気づかないだろう。

 その水晶板の前に、男の探しものは立っていた。


「エスティ……」


 男の声に小さな人影が振り向いた。肩までの長さに揃えられた金髪が揺れ、顔を男の方へと晒す。

 大きな目。小さい顔の輪郭にあった、ちょうどよい大きさの鼻と可愛らしい唇。もう三年もすれば、けっこうな美人になるだろう。ただ、男を見つめる瞳の色が銀色なのが、少女の印象を人間離れしたものにしていた。


「グレン兄様!」


 華奢な影が男――グレンのもとへと駆け寄り、その胸へと体を預けた。金属製の胸鎧の冷たい感触が、エスティの頬を冷やす。

 抱き留めたグレンの腕に少女の体の震えが伝わってきた。この部屋の中で、長い間一人で恐怖に震えていたのだろう。エスティの幼い瞳が最も信頼する兄の顔を見上げ、その中に安心を求めた。


「遅れてすまない」

「兄様、早く逃げよう」


 エスティはグレンの手を取ると、水晶板の前へと引っ張っていことする。だが、グレンが動かないことに気づいて恐る恐る兄の顔を見上げた。


「よく聞くんだ、エスティ」


 妹を怖がらせないように、できるだけ穏やかな調子でグレンは口を開いた。


「精地門の連中に館まで侵入されてしまった。ここが見つかるのも時間の問題だろう」

「そんな……みんなは?」

「…………」


 グレンは目を閉じて一瞬だけ、顔を背けた。そしてすぐにエスティを見つめる。


「逃がせる者は逃がした」


 ――じゃあ、逃げられなかった人は?

 そう言いかけた言葉をエスティは飲み込んだ。こうなったすべての原因が自分にあると分かっているから。思わず俯いてしまう。

 グレンは黙って、不運な境遇に生まれてしまったこの世でただ一人の妹の肩をそっと掴んだ。


 地・水・火・風。四大精霊を操る元素術使い。衰退した魔術に代わり、元素術は三百年に渡りその勢力を維持してきた。

 その元素術四門派の一つ。精火門の名家ネレード家にエスティは生まれた。早くに両親を亡くし、歳の離れた兄のグレンと二人で今日まで暮らしてきたのだ。


 両親がいないことで不自由をしてきたことはない。確かに寂しくはあったが、昔から仕えてくれた執事や使用人は皆、優しい人ばかりだった。グレンはエスティを唯一人の家族として大切にしてきたし、エスティもそんな兄が好きだった。ネレード家には先祖が積み上げてきた資産があったことも幸いした。

 何か特別なことがあるわけではない、平凡な日々。それゆえに平穏な生活は突如終わりを告げた。


 エスティが十三歳の誕生日を迎えたとき、少女の身に異変が起こった。その日からエスティはずっと眠り続けたまま、起きることがなかったのだ。グレンは各地から療術師を呼び、あらゆる手を尽くした。だがエスティは一向に目覚める様子はなかった。

 そして、エスティの十四回目の誕生日。ちょうど眠り始めてから一年たった日に、彼女は覚めたのだ。あれほど手を尽くしても目覚めなかったエスティが何事もなかったかのように。


 当然、グレンたちは喜んだ。エスティは長い間眠っていたとは思えないほど意識も記憶もはっきりしていた。自分が眠る前日のことを、昨日のことのよう覚えていたのだ。

 事実、エスティにとっては一年経った実感はなく、十三歳の誕生日の前日は間違いなく昨日なのだ。

 だが一つだけ、エスティの身に変化があった。生来、兄のグレンと同じく碧かった瞳が銀色へと変化していたのだ。


「お前のことは必ず守ってみせる。でないと天翔界にいる父と母に申し訳がたたない」


 グレンの言葉に、エスティは頷いてみせた。共に過ごした十四年間は、兄に対する信頼を、エスティの中で絶対的なものにしていた。

 グレンは今度は自ら水晶板へと進んだ。エスティが後ろをついて行く。そのまま水晶板の前に立つと、右の手のひらを水晶板に当てた。手が触れた所を中心に光りの波紋が広がる。


〈我は問う。汝は誰ぞ?〉


 低い男の声が部屋全体に響いた。


「我が名はグレン・ネレード。汝が管理する門の主なり」


 グレンは当然のことのように聞こえた声に答えた。再び光の波紋が水晶板に流れる。波紋は先ほどとは逆に回りからグレンの手に向かってあつまった。


〈…………汝を我が門の主と認めよう。鍵をもて我が門を開けよ。さすれば主の望む門へと誘おう〉

「汝が門より二〇四八ケセド。アパズの園」


 言葉の後にグレンはいくつかの数字の羅列を口にする。刹那、水晶板が波打った。水の幕を通して見たかの様に歪んだ景色が見える。

 はっきりとはしないが、それはこの部屋とは違う場所だった。水晶板一枚を通して別の場所へと繋がったのだ。

 水晶板と金属塊と金管、そして床に描かれた魔法円。そのすべてが決まった法則に従って機能する魔導具となる。この部屋は〈門〉と呼ばれる魔導具の設置場所だった。


 〈門〉は他の〈門〉に繋ぐことができる。どのように離れていようとも、〈門〉があればその場所へ直接行くことができるのだ。

 但し、〈門〉と〈門〉を繋ぐためには相手の〈門〉を開ける鍵が必要となる。また相手側に〈門〉を開ける用意がなければ繋がることはない。古来に繁栄した魔術は衰退していたが。こうした、元素術では扱えない魔導具という形で現在も存在していた。


 二人のいるこの部屋を激しい振動が襲った。重く響く音が、続いて聞こえる。それは何度となく続き、部屋を揺るがした。


「この部屋を見つけたか。思ったより早いな」


 〈門〉を設置した部屋は厳重な結界に守られて、通常その場所は秘匿されていた。鍵も然り、だ。

 グレンは妹をかばうように、自分の背後に押した。つい先ほど自分の入って来た壁を見つめる。手には拳が握られていた。


「エスティ、お前は行け。フィンナには話してある。精水門の地に行くことになるが、フィンナなら上手く匿ってくれるだろう」


 そう言って、グレンは二つ年下の恋人のことを思い浮かべた。赤みがかった金髪の、気性の穏やかな美女だ。エスティもよくなついている。彼女なら、安心してエスティを任せられる。


「いやっ。兄様も一緒に行こう」


 グレンの服を両手で掴み、エスティはいやいやをするように左右に首を振った。


「だめだ。精地門の奴らをフィンナの所に連れて行くことはできない。結界がいつ破られるか分からない今の状況では、誰かがここに残って確実に〈門〉を閉じなければ。

 さあ、行くんだ!」


 グレンは、普段見せたことのない険しい表情で叫んだ。


         ★


 その少し前――

 何の変哲もない廊下の突き当たりの壁の前にバッシュは立っていた。目の前では男が三人、懸命になって壁を調べている。


「まだ、判らんのか」


 バッシュの巨体から発せられる声は、彼の体に似合って低く迫力のあるものだった。ごつい、岩を思わせる鍛えられた肉体は、鎧の上からでもうかがえる。そして、体の大きさの割に小さな顔は、苛立ちの表情を浮かべていた。

 後ろからのしかかってくる催促の言葉に、男たちは冷や汗を浮かべた。口調そのものは穏やかだが、その奥にあるバッシュの苛立ちが、押しつぶさんばかりに迫って来る。このまま何も見つけられなければ、三人とも殺されてしまいそうだ。


「け、結界をはって、空間を遮断しているようです」


 男の一人が振り向き、うわずった声で報告した。


「そんなこと、わかっておるわ。俺が訊いているのはその結界の抜け方だ。この無能が」


 太い眉を寄せ、目を半眼にして先程の男を睨む。バッシュの凄味が増し、男は息を飲んだ。


「バッシュ様。館は完全に制圧しまし……」


 背後から聞こえた声に、バッシュは振り向いた。軽装の鎧を着た男が一人立っている。

 男はバッシュが振り向いた途端、大男の迫力に言葉を失った。


「生き残った者は?」

「は、はい。我が陣営に被害は……」

「莫迦者。お前たちのことなど聞いてはおらんわ。抵抗してきた者どものことだ」


 バッシュは男に皆まで言わせず叱責した。男の顔が一瞬蒼白になる。


「あ、に、二名ほど捕らえましたが後は死亡を確認しました」

「二名……か。そいつらは殺せ」

「は?」


 当然のように物騒な事をバッシュは言う。男は思わず聞き返した。


「殺せ、と言ったのだ。〈門〉の場所はわかったのだ。もう雑魚に用はない」

「え。あ。その……」

「貴様、言葉が分からぬのか?」

「あ、い、いえ」

「ならば行けっ」


 バッシュの恫喝に、男はバネ仕掛けの人形のように跳ねた。そして慌てたようにこの場を離れる。


「無能が」吐き捨てるようにバッシュが言う。「で、結界は解けたのか?」


 再び視線向けられ、壁を調べていた男たちは表情を硬くした。先ほどのバッシュの言葉に気を取られ、まったく調べていなかったのだ。

 一瞬でそれを見てとり、バッシュ更に険しい表情を浮かべた。


「無能揃いが。もうよい、どけ。結界をぶち破ってくれるわ」

「そ、それでは一歩間違えばこの館ごと我々も……」


 男の言葉が途中で止まった。バッシュと目が合ってしまったからだ。言うべき言葉を失った男の口が、開閉を繰り返す。


「おまえは精地門でありながら、自分の門派の元素術を信用しとらんのか?」

「け、決してそのようなことは」

「なら、この俺を信用しとらんということかな?」

「い、いえ」


 男は言いながら、二歩あとずさった。バッシュの迫力のなせる技だ。背中に壁が触れても、男はさらにあとずさろうとした。


「ならばそこをどけ。邪魔だ」


 その言葉を合図に、男たちはバッシュの後ろへと駆け込んだ。


「ふん。まずはどの程度のものか、確かめてくれるわ」


 バッシュはおもむろに壁を殴りつけた。拳と壁が触れた途端、閃光が走り衝撃がバッシュを襲った。バッシュが衝撃で半歩ほど退く。殴った拳は、焦げて煙を上げている。


「ふん。まぁまぁだな」


 自分の拳を見て、つまらなそうにバッシュは言った。そして後ろを振り向く。


「巻き込まれたくなかったら、下がっていろ」


 口の端を片方吊り上げて笑う。人を莫迦にした笑い方だった。

 男たちはバッシュの言葉通り、この大男から距離をとって下がる。


「開け、元素界の門よ」


 バッシュの言葉に従って、その背後に真円の光が浮かび上がった。複雑な紋印がその円の中に描かれている。精霊の住む元素界と術者を直接つなぐ門だ。門を開く事により、術者の支配できる精霊の数──大きな術を成功させる為に必要な精霊力が飛躍的に上がるのだ。


 低い呟きが流れた。バッシュの詠唱に答えて館を支えていた大地が動きだす。館の床を突き破り幾つもの巨大な岩槍が壁に向かって激流のように迫った。岩槍が壁にぶつかるたびに激しい振動と閃光が起こった。バッシュの後ろにいた男たちが吹き飛ばされる。


 攻める力と守る力のせめぎ合いは、時間にして五秒たらずだった。バッシュの回りは、半壊した館の残骸で埋め尽くされていた。瓦礫の間にはバッシュたちと同じ軽装の鎧を着た男たちが埋もれているのが見える。

 目の前の壁だった場所からから青白い光が漏れていた。

 バッシュは回りの状況には目もくれず、その様子をじっと見つめていた。顔には笑みが浮かんでいる。追いつめた獲物に会えた時の、凄みのある笑みだ。

 そして光の中へゆっくりと歩いていった。


         ★


 ひときわ激しい振動の後、グレンの入ってきた壁が割れた。大きな影がもうもうと上がる煙の中に見える。

 グレンが後ろを振り返る。水晶板の向こうの景色は、相変わらず水の幕を通したようにぼやけて見えた。その中に見覚えのある女性の姿が見えた。


「フィンナ姉様」


 エスティも気づいたらしく、声が上がる。


「結界が破られた。エスティ行くんだ」

「待たせたな、グレン」


 低い声が巨体と共に部屋の中に入ってきた。

 グレンはその方向を睨み据えた。

 バッシュは先程の笑いを浮かべたまま、グレンを見返す。


「バッシュ、エスティは渡さんぞ」

「気が合うな。俺も差し出してもらう気はない。お前から奪う」


 二人が動いた。


「むん」


 細い岩槍が床から伸びてグレンを襲う。それを巧みに避け、グレンは炎を放った。バッシュに届く前に、岩槍に阻まれ炎が砕かれる。

 グレンは幾つもの炎を球状に浮かび上がらせた。炎球は岩槍を崩しながら、バッシュへと向かう。砕かれた岩槍は小さな岩となってグレンを襲った。グレンはそれを拳に纏った炎のひと薙で焼き払う。


「今のうちだ。行け、エスティ」


 グレンはバッシュに向かって走った。両手には炎を纏っている。


「でも、兄様が」

「後で必ず追いつく。俺を困らせるな、行け」


 エスティは逡巡の後、体を翻し水晶板へと一歩踏み出した。


「む。すでに〈門〉を開いておったか。行かせぬよ」

「きゃあ」


 水晶板とエスティの僅かな間に石柱が現れた。一歩間違えば少女を貫きかねない位置だ。突然の出来事にエスティはバランスを崩し、思わず床に座りこむ。

 悲鳴を聴いたグレンの注意がそちらに向けられる。


「よそ見はいかんな」


 床に散らばっていた幾つもの頭大の岩が、一斉にグレンへを襲った。四方から押し潰すようにグレンを抑えつける。その場に立ったまま、身動きがとれなくなった。


「兄様っ」エスティが悲鳴をあげた。

「油断したな、グレン。先に押し潰される方がいいか? それとも大事な妹が連れ去られるのをそこで見ておくか?」


 動けないグレンに近づき、バッシュは嘲嗤を浮かべて言った。

 グレンは何か言おうと口を開く。その途端に岩に抑えつけられ、空気だけが苦しそうに漏れた。


「そうか、意識を失わない程度に痛めつけ、目の前で妹をさらわれるのがいいか。なら、望みどおりにしてやろう」

「ぐがぁ」


 ぎりぎりと音を立てて、岩がグレンの体にめり込んでいく。エスティの銀色の瞳が大きく見開かれ、目の端に涙が浮かんだ。


「苦しかろう、グレン」


 空気と一緒に、グレンの口から血が漏れた。青白い光の中に赤が映える。


「兄様、嫌ぁっ!」


 エスティが耳を押さえ叫んだ。体から柔らかな銀光が溢れだす。その光が部屋を満たすと、グレンを戒めていた岩が離れて床に落ちた。グレンがその場に倒れる。


「何!?」


 突然、自分の支配していた精霊が消え、バッシュは戸惑った。しかし、エスティに気づくと、今度は豪快に笑いだした。


「精霊の支配を奪うか。なるほど、噂に違わぬ精霊皇の力よ」


 バッシュは倒れているグレンを跨いで、エスティに近づいていく。

 エスティは怯えたまま動けない。銀色の瞳にバッシュが映っていた。だが意識の方は、床に倒れた兄に向けられている。


「お前の大事な兄は、もう動けんぞ。おとなしくついて来るんだ。そうすれば兄の命は助けてやろう」


 ようやくエスティが、バッシュの方を向いた。懇願の表情が浮かんでいる。


「本当に兄様を助けてくれるの?」


 エスティの言葉に、バッシュは鷹揚と頷いて見せた。エスティがゆっくりと立ち上がる。


「これで他の元素術門派は、我が精地門の支配下に入る」


 バッシュはエスティに向かって手を伸ばした。刹那、水晶板と自分たちを隔てているはずの石柱が崩れた。


「むっ」


 そしてエスティの背後から、少女を避けるように螺旋状に集まった水の矢が飛んでくる。バッシュは咄嗟に背後に飛んだ。

 バッシュの目の前に金剛石で出来た盾が浮かぶ。水の矢はその盾に弾かれて消えた。

 バッシュの目にエスティの背後、水晶板の向こうに立つ人影が見えた。はっきりとはしないがそれは赤みがかった金髪の女性で、片手をバッシュに向けて突きだしている。


「水の元素術……精水門のフィンナだな。なるほど、恋人に助けを求めたか」


 水晶板の向でフィンナが動いた。こちらへ来ようとしているのだ。


「女の出る幕ではないわっ」


 一喝して、バッシュは岩槍を放った。エスティの横、ギリギリをすり抜け水晶板の中へと向かう。エスティは瞳を閉じ体を強ばらせる。

 水晶板の向こうのフィンナの動きが止まった。バッシュはその隙に、今度は水晶板の背後にある金属塊に向かって岩槍を放った。


 岩槍はが金属を貫く。すると水晶板に写っていた景色が乱れ始める。

 倒れていたグレンが動いた。体を回転させ、一瞬で起き上がる。水晶板の向こうに気を取られていたバッシュは、それに気づかなかった。


「ぐっ」


 突然、炎がバッシュの目の前に踊った。とっさに両手を交差させ大男はは防御姿勢をとる。


「にいさま?」


 力が抜けて倒れかけたたエスティを、グレンが支える。


「大丈夫かエスティ?」


 バッシュから視線を外すことなく、グレンが言う。


「大丈夫。それより兄様の方が……」

「俺は大丈夫だ。〈門〉はどうなった?」


 グレンの言葉にエスティは背後を振り向いた。水晶板の像は乱れ、もはや何が写っているのか分からない状態だ。これではフィンナの所へ向かうことはできないだろう。


「だめ。フィンナ姉様が見えない」

「くっ。奴をフィンナの所へ行かせないだけマシか」

「グゥゥレェェン!」


 炎をやり過ごし、バッシュが大声で叫んだ。

 同時に金剛石の矢が飛んでくる。矢は無数で、無差別だった。バッシュを中心に部屋全体を攻撃するかのように放たれたのだ。同時に床が割れる。

 グレンは咄嗟に炎の障壁を作り出し、金剛石の矢を溶かして防いだ。だが、床が割れまでは防げない。大きな亀裂がグレンたちを飲み込もうとする。


「だめぇ」


 エスティの叫びが地割れを止めた。彼女の持つ精霊皇の力が、バッシュの持つ精霊の支配力を上回ったのだ。

 バッシュが突進してくる。その背後には真円の光が浮かんでいる。再び元素界の門を開いたのだ。

 グレンはエスティを庇うように一歩踏み出した。


「〈門〉はもう使えない。俺が隙をつくる。ここから逃げるぞエスティ」

「はい、兄様」


 バッシュの突進を、グレンは炎を纏った拳のひと薙ぎで迎え撃つ。拳から放たれた炎はバッシュを直撃する。だがバッシュは怯むことなく突っ込んできた。


「むんっ」


 バッシュはグレンの頭上から打ち下ろすように拳を放った。グレンはそれを紙一重で躱す。

 バッシュの拳が床にめり込んだ。そして拳を中心に地面が隆起した。


「あっ」


 それにエスティが足を取られる。少女の体は数歩、後へと進み、そのまま加速して倒れた。その先にはひび割れながらも、不鮮明な像を移している水晶板があった。


「まずい」グレンが叫ぶ。


 水晶板の向こうには、何かの景色があった。だがそれは、当初の目的地であったフィンナの〈門〉ではない。その証拠に水晶板の映し出す像は安定せず、常にどこか違う場所を写している。その上、水晶板には亀裂が入っていた。

 このままではフィンナの所へ転送されない。それどころか今〈門〉に入れば次元の狭間に飲み込まれかねない。そうなったら、エスティは出られなくなってしまう。


 グレンは慌てて妹の手を掴もうとした。だが、指先が触れただけでエスティの手は離れていった。水晶板に飲み込まれるように、エスティの姿が消える。

 追いかけようとしたグレンの頭をバッシュの手が後ろから掴んだ。

 水晶板が割れた。同時に部屋を守っていた結界が完全に崩れ、青白かった部屋の壁も崩れ去った。半壊した館の中に、壊れた〈門〉の魔導具、そしてグレンとバッシュが現れる。

 グレンは妹が無事、どこか地上に転送されていることを願った。


「逃がさんぞグレン。せめてお前だけでもこの手で殺してくれる」


 バッシュは怪力でもって、グレンの頭を締めつけた。頭蓋骨が悲鳴をあげる。グレンは炎を纏った手でバッシュの腕を握った。皮膚を焼き肉を焦がした。それでもバッシュは放さない。逆に力が強まった。

 グレンの意識が朦朧とし始めた。バッシュの腕を握っていた手が、だらりとたれ下がる。全身の力が抜けようとしていた。


 突然、巨大なな炎の潮流がバッシュを襲った。大男は思わず手の力を緩めた。

 その瞬間、グレンがバッシュを蹴った。威力はまったくなかったが、バッシュから離れるには十分だった。緩い弧を描いてグレンは後ろに飛び、なんとか両足で着地する。


「ぐおっ」


 背後から強力な術を受け、バッシュが片膝をついた。後ろに顔だけ向ける。


「館は半壊。動いているのは貴方一人。敵も味方もお構いなしですか? 相変わらず無茶な人だ」


 涼し気な青年の声が聞こえた。


「貴様ッ」バッシュが苦々しげに言う。

「おかげで、こちらは制圧する必要もなくて助かったんですけどね。連れてこれる手勢が少なかったので心配していたのですが」


 青年の背後に十人ほどの人影があった。どれも軽装備とはいえ武装している。


「リュード」


 ふらつきながらも立っているグレンが、青年を見てつぶやいた。リュードは自分の名が呼ばれると、にっこりと笑って言った。


「遅れてすまない。父上に見つかってしまってね。出るのに手間取ったんだ。でも、なんとか間にあったみたいだね」


 燃えるような赤毛の持ち主だった。眼鏡の奥の切れ長の目が、悪戯っぽく笑っていた。


「さて、精地門のバッシュ。貴方はどうします?」


 油断なく、リュードはバッシュに視線を移す。口調は穏やかだが、視線はグレンを見た時とは違い鋭い。


「…………今回の失敗を認めよう」


 バッシュはゆっくりと立ち上がり、グレンとリュード、二人を睨みながら距離をとる。そして十分に離れると、しゃがむと同時に地面を軽く拳で叩いた。地面が軟化してバッシュを包みこむ。同時に回りに倒れている精地門の兵士たちも飲み込んだ。

 追おうとした背後の兵をリュードは片手で制した。そしてバッシュたちが消えたのを見届けると、すぐにグレンへと駆け寄った。親友の登場に力が抜け、倒れかけたところをリュードに支えられる。


「エスティは?」


 リュードが訊いた。


「わからん。〈門〉を使ってフィンナに匿ってらう手はずだったんだが、バッシュとの戦いで壊れた〈門〉に飲み込まれてしまった。どこに行ったのか想像もつかない」


 グレンはリュードの言葉に素直に答えた。そしてリュードの存在に安心したのか、そのまま気を失う。

 精霊皇の力をもつエスティを狙っているのは、精地門だけではなかった。全ての精霊を支配できるという精霊皇の力は、互いに牽制しあって生きてきた各門派にとって他を支配する切り札となるものだ。

 今まで保ってきた四門派の均衡を大きく崩す力。どの門派もエスティと精霊皇の力を欲した。

 それは、グレンのいる精火門であっても例外ではない。現に精火門の長から、エスティを差し出せという要求があった。

 グレンは当然、これを拒み続けてきた。グレンたちにとって、四門派すべてが敵だった。


 そんな中にあって、グレンの恋人フィンナと親友のリュードだけは違った。

 リュードは精火門の長の息子でありながら、グレンを助けてくれる。精火門の始祖の直系、その印である赤い髪を持つこの青年は、グレンにとって信頼できる人物だった。


「それはやっかいなことになったな」


 気を失ったグレンを地面に寝かせ、リュードは呟いた。だが、言葉で言うほどリュードの表情に陰りはない。

 リュードはエスティが次元の狭間に閉じ込められたまま、出てこれないとは思っていなかった。

 元素界を統べる精霊皇の力は絶大だ。その精霊皇の祝福を受けたエスティには精霊たちが常に守護についている。次元の狭間に飲み込まれそうになったら、精霊たちがほおっておくはずはなかった。


「探し出して見せるさ。〝兄〟ではなく、この僕が必ず」


 真摯だがどこか冷たさを湛えた瞳で、リュードは呟いた。

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