霊能力者紅倉美姫20 桜ロードの怪
岳石祭人
1、桜ロードの怪
わたしは出勤が朝早く、眠くて苦痛な時もありますが、春先の一時期は心躍るものがあります。
この時期、敢えて遠回りして通る道があります。
わたしが勝手に「桜ロード」と呼んでいる、300メートルほどの桜並木の道です。
軽い土手に桜の木が並んでいて、その下の歩道を朝早く歩くと、白い光が横から差し込んで、遠く前を見ればまるで精緻なちぎり絵のように、上を見ればピンク色のステンドグラスが重なったように透明感のあるグラデーションがとても綺麗なのです。
犬の散歩に出くわすのは犬が苦手なわたしにとってはマイナスですが、朝早くから頑張る自分へのご褒美だと勝手に解釈して、この時間だけの特別な花見を楽しんでいました。
その日は、前日、桜が開花したというニュースを見て、初めて「桜ロード」を通って出勤しました。
桜はまだ咲き始めで、一部咲きと言ったところでしたが、これから通る度につぼみが開いていくだろうと、若々しい気分になりました。
3分の1ほど来たところで、向こうから車椅子を押して歩いてくる女性がいました。
近づいてくると、なかなか綺麗な人で、なんと朝から着物を着ていました。白い着物に白い羽織を羽織って、ちょっとギョッとしてしまいました。車椅子には同じ年頃の男性が乗っていて、こちらも和装でしたが、旅館で着る浴衣のような感じで、草色の羽織を羽織っていました。更に近づいてきて、またギョッとしたのは、その男性が、目がうつろで、その顔に生気が感じられないのでした。なかなかのイケメンで、女性とはお似合いの、おそらく夫婦なんだろうと思いました。旦那の様子からして、おそらくは病気で、まだ若いですから、人目をはばかってこんな朝早くから散歩に連れ出したものと思われました。
わたしたちはすれ違い様、軽く挨拶をしました。少し歩いて、後ろ姿を振り向いてしまったのは、その奥さんがとても綺麗だったからです。
ああ、あんな人が奥さんだったらなあと、独身のわたしは思い、旦那を羨ましく思いました。
その日以来、わたしは毎日「桜ロード」を通って出勤しました。
日々増えていく花を楽しむのはもちろんでしたが、楽しみにしていたのは、あの奥さんに会うことでした。
夫婦は毎日、同じ時間に散歩していました。
わたしはあんまりまじまじと奥さんを見つめてしまわないように気をつけなければなりませんでした。
旦那の虚ろな目つきは相変わらずでしたが、それでも毎日の散歩のおかげか、日に日に賑やかになっていく桜のピンクに照らされてか、顔色はいくぶん良くなったように感じられていました。
ちょっと不思議に思ったのは、奥さんの着物と羽織ですが、最初真っ白だったのが、日に日に、まるで桜の花の開いていくのに合わせるように、薄桃色からピンクに、日に日に、色が濃くなっていくのです。濃さの違う着物を何枚も持っているのか、それとも桜のピンクの照り返しのせいだろうかと、判然としないのでした。
わたしは仕事が休みの土日まで、わざわざ早起きして同じ時間に「桜ロード」に散歩に出かけました。すると、やはり夫婦は同じ時間にやって来て、わたしと奥さんは軽く挨拶してすれ違うのでした。
わたしは奥さんを見つけると胸に喜びがあふれ、すれ違い挨拶する時にはドキドキして、振り返っては切ない思いがするのでした。
日曜日、すれ違って見送ると、わたしは少し間を空けて、その後ろ姿を追って歩き出しました。特に考えがあってのことではありませんが、どこの誰なのか、知りたい気持ちがあったのでしょう。知ってどうなるものでもないのですが。わたしの精神は奥さんに対してなかばストーカー化していたのかもしれません。
わたしの危険な気持ちは、あっさり立ち消えてしまいました。
桜並木の終わり、つまりわたしが入って来るところなのですが、その角を曲がったところで、車椅子の夫婦は、消えてしまったのです。
その先は車道脇の歩道に合流していて、右を見ても左を見ても、道路の向こうを見ても、姿がありません。わたしと夫婦の間は10メートルくらいのものでした。相手は車椅子を押していますから、そんなに速く移動できるとは思えません。いったいどこへ消えてしまったものか、わたしは途方に暮れる思いがしましたが、ここでふと、いやいや、俺はいったい何をしているんだ、と冷静になり、「桜ロード」に戻っていきました。まっすぐ家に帰ればいいものを、また戻っていったのは、ひょっとして夫婦もどこからか「桜ロード」に戻ったのではないかという考えがあったのは否めません。
けっきょくその日はもう夫婦に出会うことはありませんでした。
翌日、また出勤の為「桜ロード」に向かったわたしは、前日後をつけた後ろめたさがあり、ひょっとしてあの人はもう現れないのではないかと恐れていました。
同じ3分の1ほど来たところ、同じように向こうから現れた車椅子を押す奥さんを見つけた時、わたしは安堵と同時に、溢れ出る喜びを感じずにはいられませんでした。
すれ違い様、それまでは軽くお辞儀するだけだったのですが、思い切って
「おはようございます」
と声をかけました。お辞儀しながら
「おはようございます」
と返す奥さんの声は、少し硬く、少女のようで、わたしの胸を震わせずにはおきませんでした。
わたしの心は、ちょうど満開の桜のように、喜びに色付き、喜びに溢れんばかりでした。
それからも同じ朝が続きましたが、満開の花がハラハラと散り、道に花びらが目立つようになってきた頃から、旦那に変化が見られるようになりました。悪い方にです。
目つきは相変わらず虚ろ。せっかく良くなってきたように思えた血色が、また色が失せてきて、だんだんと、頬がしぼんで、しわが目立つようになり、髪の毛も白髪が目立って増えていきました。イケメンも台無しで、ひどく加減が悪いのではないかと、心配になりました。
心配……
いえ、わたしは心配などしていませんでした。
実のところを正直に言えば、もっとひどくなって、…………死んでしまえばいいと思っていました。どうせこんな体で、若くて綺麗な奥さんの重荷にしかなっていないのだ、さっさと死んで、解放してあげればいい、と。……いえ、それも本当ではありませんね。わたしは奥さんの為を思って旦那に死を望んだわけじゃなく、ひょっとして、旦那が死んだら、自分に奥さんと結ばれるチャンスがあるのじゃないかと……、そんな自分にとって都合のいい妄想をしていたのです。
ただ、不思議なのは、旦那がそんな風に急に容態が悪くなっているように見えるのに、奥さんが散歩を中止しないことでした。もしかして、旦那は死期が近いのが分かっていて、それだからこそ、最後の思い出を二人で作っているのかも知れない。そう思う一方で、ひょっとして、奥さんは容態の悪い旦那をわざと外に、まだ寒い早朝に、連れ出しているのではないか、という疑惑も持ちました。もしかして、奥さんも旦那の死を望んでいるのではないか? 重い病気の旦那から解放されたいと願っているのではないか? そして、旦那が死んだ暁には………
馬鹿な妄想だと思いながら、わたしは、奥さんへの邪な想いを断ち切れないどころか、ますます深く狂おしくしていくのでした。
また不思議なことに、桜が散っていくに従って、ピンク色に染まっていた奥さんの着物が、また日一日、色が抜けて、白くなっていくのでした。
道が花びらの絨毯に覆われ、枝には花よりも芽吹いた若葉の緑が圧倒的になった頃、旦那の様子はいよいよ末期になっていました。着物の中には骨と皮しか残ってなく、もはや重い頭を支えるのも難しそうに思えました。その顔も、たるんでしわだらけの肌は汚い茶色のシミだらけで、髪の毛も抜けて、一気に90歳まで老けてしまったようで、元々虚ろだった目にはまったく光がなく、既に死んでいるのではないかと怖くなってしまいました。
車椅子を押す奥さんも、さすがにうつむき加減で、元気がないように見えました。その美しさは相変わらずでしたが。
近づいてきて、わたしたちはいつものように挨拶を交わしました。
「おはようございます」
「おはようございます」
すれ違う時、つい、旦那の横顔をじっと見てしまいました。旦那にはもはや生きている肉体の重みがまるで感じられませんでした。
わたしは、その様子を喜びつつ、はっと、思い立ちました。旦那が死んでしまったら、奥さんももう、ここを訪れることはなくなってしまうのではないだろうか?
わたしは立ち止まり、キコキコと遠ざかっていく車輪の音を聞きながら、その堪え難い可能性にじっとり汗をかいた拳を握りしめ震わせていました。
嫌だ、嫌だ、あの美しい人に二度と遭えないなんて、そんなのは、気が狂ってしまう!
ふと車輪の音が止まっているのに気付き、わたしは恐る恐る振り返りました。
奥さんが、車椅子をこちらに向けて、微笑んでいました。
わたしは、その微笑みの意味が分からないながら、同じように微笑みました。
奥さんが言いました。
「今度は、あなたが乗りますか?」
奥さんはおもむろに旦那の頭に手を載せると、ぐいっと、ひねりました。
旦那の首はいとも簡単にもげ、転げ落ちると、地面でぐしゃっと潰れました。
わたしは驚きに目を丸くして、そのまま立ち尽くしていました。
ざっと風が吹いて、地面から花びらを大量に巻き上げました。
その桜吹雪の中で微笑みながら、奥さんは消えてしまいました。車椅子も、転げ落ちた旦那の首もいっしょに。
風がやみ、はらはらと花びらが舞い落ちていき、わたしはようやく悲鳴を上げると、一目散に駆け出しました。
その日を最後に、わたしは「桜ロード」を通るのをやめました。
以上、去年の出来事です。
今年ももうすぐ桜の咲く季節になります。
今やあの奥さんが生きている普通の人間ではなかったことは理解しているつもりです。
しかし、桜が咲いて、もしまた朝の光の、一番桜が綺麗な時間にあそこに行ったら、
また彼女に会えるのではないかと、そう考えてしまうのです。
それが恐ろしいのと同時に、どうしようもなく魅力的に感じてしまうのです。
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