道を見つけた

佐倉活彦

第1話

          一

 地方新聞の地域欄に催しの掲示版がある。

 日時ー令和元年十月五日(土)

 場所ー山城郷土資料館

 内容ー発掘報告と今後の予定

 担当ー檜原考古学研究所

 一段四行の案内は、遺跡の発掘調査に関心を持っていても見逃してしまう、こじんまりした掲示であった。

 しかし墓荒らしは見逃さなかった。檜原考古学研究所となればなおさらだ。

 山代(やましろ)真人(まひと)は山城古墳群の真っただ中で生まれ育った。父の仕事の都合でJR京都駅の東側の一般住宅と商店が混在した街に引っ越した中学三年生まで、古墳は日常的に見慣れた風景であり遊び場であった。小学校の校庭には小さな丸墳があった。自宅の二階から孟宗竹に覆われた小山のような前方後円墳を望めた。あそこには何かある、友達を誘い何度も冒険に出かけた。少年達に歴史的価値観はなく、単純な未知なるものへの好奇心でありそれが引力となっていた。

 ある日友達三人で示し合わせ、スコップを持ち出して掘り返し始めた。そこをお祖父ちゃんに見つかった。

「お前ら、ここでなにをしているんだ!」

 太い眉をひくひくさせ、鷹のような鋭い両眼で、遊び心を射貫くように一喝した。

 真人はお祖父ちゃん子だった。妹が年子でしかも未熟児として生まれたので手がかかり同居していた祖父母が養育にあたった。着替えや食事などこまごまと身辺の世話を焼いてくれたのは祖母で、宿題や遊びの相手をしてくれたのは祖父だった。竹とんぼの作り方、凧作り、将棋の指し方、プラモデルの組み立て方、自転車の修理。物知りだったのでいろんなことを教えてくれた。

 そのお祖父ちゃんは、やんちゃすれば正座をさせ懇懇と説教した。

「お前は他のガキとは家柄が違うんだ。山代という古代の地名を姓にしている我が家はその土地の豪族の流れを汲んでいるのだ。山城という地名は都が平安京に遷都された後に改名したのだ。平城京であった頃は山代だったんだ。古の時代から連綿と続いている名跡を汚すな! いいか! わかったな! 」

 足が痺れてくるのを我慢して説教に耐えた。(後年真人が大学に進学して苗字を調べた結果お祖父ちゃんの独り善がりであったと判明した。明治三年の平民苗字許可令や明治八年の平民苗字必称義務令によるものであった。)

 お祖父ちゃんに怒られると涙が出た。父に怒られたときは反発した。

 父は家柄を誇示できるほどの職責についているわけではなく、しがない中小企業の万年係長であった。国家公務員試験に落ちて翌年地方公務員試験に臨んだがそれも落ちたと自嘲していた。

 祖父はそのような父のありさまを見て、孫に山代家の勃興を期待したのかもしれない。そのように推測すると真人という名前は大それた名前だとは言えなくなる。天武天皇が歴代の天皇や皇子の子孫に賜えた姓である。お祖父ちゃんは、真人が生まれた時、初孫でしかも待望の男子だったので、はしゃいで父母そっちのけで名付けたと聞いた。胸三寸を推し量ることができる。

 現在も山代一家の精神的支柱であるお祖父ちゃんは現在八十五歳、太くて凛々しかった眉には白いものが混じってショボショボになり、威厳のあった鷹の眼光は輝きを失い、声量は衰え蚊の鳴くよう声になってしまった。枯れ木が倒木したようになって床に伏している。

 真人は生育環境の所為なのか、成長するにつけ、古代遺跡に興味を抱くようになった。高校に進級すると、友人たちは鉄道マニアやカーキチ、ミュージシャン気取りに転じていった。ただ一人真人だけは古代遺跡の追っかけをしていた。発掘の成果を示す現地報告会がある都度憑かれたように出かけた。アイドル歌手○○さんのコンサート会場やF1レースを観戦に鈴鹿サーキットに足を運ぶのと一緒の気持ちだ。遺跡を前にして大勢のギャラリーに取り囲まれ説明する調査員に憧れた。あんな職業につけたらいいなと願うようになった。塾に通い大学入試の勉強をする傍ら考古学の専門書を読むことに没頭した。相乗効果があったのかもしれない。難関の名門国立大学の文系に入学した。祖父母も父母も涙を流して喜んでくれた。大学では古代史を勉学して卒業した。家族は大学教授になるのだとてっきり期待していた。ところが奈良県立檜原考古学研究所の学芸員を希望した。しかし本職員としての採用は叶わず、非正規職員として三年間甘んじた。発掘調査がある都度現場に出向き命じられたとおりにしゃがみこんで、コツコツと地層をはがしていく作業を繰り返した。埴輪や土師器が出てきたらそこからは正規職員が担当した。掘り出した後は写真を撮り図面を引き過去の出土品と比較した。資料に照らし合わせて年代を特定するのも正規職員であった。真人が憧れていた報道機関や考古学ファンの現地説明会の場で、大勢のギャラリーに意気揚々と成果を発表するのも正規職員であった。真人はギャラリーが引き揚げた後の掃除やブルーシートで現場保全を黙々とした。会合で意見や提案する機会は一切なかった。それでもこの仕事が好きだったから三年間職員の新規採用を期待して京都から奈良まで通った。その間採用の公募はあったのだが叶わなかった。その理由は分からなかった。ここから順調だった人生の歯車が狂いだした。

 旧帝大の由緒ある国立大学を卒業して、二十五歳にもなって、正規の職に就いていないのは世間体から見ても肩身が狭かった。山代家の勃興をひたすら願うお祖父ちゃんをはじめとする家族の期待に応えていないことにもなるのだ。

 真人は家族のことを考えて後ろ髪を引かれる思いで志を捨てた。しかし就職浪人に企業は冷たかった。面接官が履歴書に目を通した途端、おやっ、と怪訝な顔つきで真人を凝視し探った。名にし負う国立大学を卒業していながら何故三年間も正規の職に就けなかったのか。何か曰がありそうな人物として疑った。左翼思想の持主で公安警察にマークされているとか、犯罪歴を隠しているとか、疑いだしたらきりがなかった。五回目の挑戦でやっと父と同規模の金属加工会社に就職できた。現場要員になりますけど、それでもよろしいですか? 何度も念押した結果の採用であった。何とか職に就いて三年後、もう歳なので、と諫める家族の意見に従いある女性と見合いした。交際が始まったがこの女性は国立大出という釣書きに惹かれただけのようだった。名もない企業の平社員とは? なんか公にすることができない曰くを持っている人なのだ。不信感を募らせて交際を断ってきた。

 そんなことがあって三度職替えした。あてどなく世間に漂泊する人間になった。真人風に言うならその日の食を求めてさまよう流民だ。なかなか社会に定着しないので、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも愛想つかしたのか機嫌が悪くなった。父は苦笑いするだけで沈黙していたが母は、またかいな、何回職替えしたら気が済むねんな、と言って口をとんがらせ睨みつけた。

 家族の冷たい視線を受けて家に居づらくなった。妹が結婚して家を出ていったこともあり、話し相手がなくなり孤独の領域に閉じこもった。そうなるとだんだん根性がひねくれてくる。

 順調だった人生が躓いたのはあの檜原考古学研究所のせいだ。一生を台無しにしやがった。と、心の中に憤懣をのたうたせた。

 新聞やテレビでこの研究所の華々しい成果を目にする都度、思い知らせてやる、と決意し行動を開始した。これが墓荒らしになった動機だ。

 真人は、発掘中の現場に忍び込んでフルーシートをめくり出土品をこっそり盗み出した。たいていの現場はきちんと管理されているわけではなくずさんだった。作業が終わり夜間になると警備員もいないし監視カメラも設置していなかった。そんな予算はないのだ。

 埴輪など大きくて価値あるものは狙わず小さな土器か須恵器を狙った。しかも一、二点だったので、真人の行為が世に暴かれることはなかった。

 現場に忍び込むときは心臓が高鳴り体内の血流が全身を巡った。ひやひや、ぴりぴり、緊張の連続は当たりがあったとき一挙に頂点に達する。その時の高揚感は味わった者にしか言い表せない何事にも代えがたいものだった。身に合わない仕事や陰口に苛まされている常日頃の鬱憤を解き放し自暴自棄になるのを防ぐガス抜きになった。

 出土品を盗み出してくると、二階の自室に引きこもり猫背になって付着している泥をブラシで丁寧に除去する作業を根気よく続けた。階下に居る家族と遮断するためにクラッシック音楽を流しさも音楽鑑賞しているようにカムフラージュした。この作業を始めると耳の奥がざわざわするので集中力を高めるためでもあった。

 隠微な作業を終えた盗品は、大事に押し入れの奥深くに隠しておいた。

 次は現在発掘中の現場に忍び込んで用意した盗品を埋め込みに行くのである。

 発掘作業で年代の異なる出土品が出たら時代設定ができなくなる。そんな場合は複合遺跡として扱うことになっている。実際はそうではないのだから歴史の改ざんをしていることになる。

 何食わぬ顔で現場説明会に出向き出土品を見学する。真人が埋め込んだ盗品を発見する。その時、ざまあ見やがれ騙されやがって、と真人の存在を確認して悦に入る。自己満足だけの歪んだ行為だった。


 今日は令和元年十月五日土曜日。老舗地方新聞が山城郷土資料館での催しを案内していた日である。

 大勢の観光客でごった返しているJR京都駅の南端十番ホームから鶯色の103系奈良行き鈍行列車に乗った。

 土曜日なので、通勤や通学の人たちの姿は少なく、常着なのか余所行きなのか中途半端な身なりの高齢者と奈良に向かう観光客で車内の席は埋まっていた。大柄な外国人観光客も数名乗り込んでいた。みんな退屈しのぎにスマホ画面に目を落としているかぼんやり窓に走る風景を見ていた。

 子供連れの若い夫婦が目の前の座席に横並びに座っていた。親も子も着飾りこれから行楽に出かける浮いた雰囲気を醸し出していた。幼稚園児らしい男の子と保育園児らしい女の子を挟んで両親が何やら話しかけ会話が弾んでいた。どう見ても真人と同年齢に見える幸せそうな一家を見て自分が哀れになってきた。

 畜生、あの奈良の檜原考古学研究所め。と、恨み節が出た。

 ゴトンゴトンとローカルな響きを立て列車は奈良に向け走った。車窓から眺める風景は駅に停車する都度ビルや瀟洒な建物から一般住宅に変化してきた。宇治川の鉄橋を渡って間もなく宇治駅に到着した。ユネスコ世界遺産のある山城南部の中核都市である。幾十人かがごそっと下車した。あの幸せそうな一家もスキップする子供たちの手を引いて降りた。車内はゆったりした。

 宇治から四番目の駅が真人の故郷である城陽だ。小中学生までこの地に住んでいたのだ。山城古墳群のひとつ前方後円墳が車窓から望めた。孟宗竹に覆われている様は昔と変わりなかった。瞳を大きく開いて故郷の匂いを吸った。

 〈みやこじ快速〉の通過待ちをしていた鈍行列車はガタンと軋み音を立てて郷愁を振り払うように待避線から本線に出た。

 やがて建物がまばらになり背の低い山並みが迫ってきた。都が平城京であった頃は山背と呼ばれていた屏風のような山並みである。短い隧道を抜けると車窓に田園風景がパ~と展開した。

 上狛駅で降りたのは真人を含めて三人であった。ここは観光地ではないので駅前にタクシー乗り場もなくコンビニもなく重厚な瓦屋根で白壁造りの古風な木造民家が軒を並べていた。無人駅でなかったのがせめてもの慰めだ。

 鼠色のジャンパーのポケットからスマホを取り出して山城郷土資料館の道順を検索した。木津川に沿って奈良と京都を結んでいる国道二十四号線沿いに遡っていくコースと田んぼの中を通っている農道の二通りあった。このコースの途中には高麗寺遺跡の標識が出ていた。いずれのコースも時間は五十分となっていた。

 国道沿いの道は整備してあるので歩きやすいと思うが排気ガスを吸いながら歩かなければならない。それよりも道は曲がりくねっているがのんびり歩ける農道を選んだ。途中で遺跡を見学できるのも魅力だ。

 稲は刈り入れを待っているようにたわわに実っていた。渡る風でうねる黄色い波の中から突き出た岩礁のようにポツンポツンと野小屋が建っていた。近づくとコンバインなどいろんな農具を持ち出し整備していた。時期が迫ってきた稲刈りの準備をしているのだろう。

 途中に共同墓地があった。真人はお墓を探索するのも好きである。大概は○○家代々の墓となっていて花筒に奇麗なお花が差してある。そのような墓石に興味はなく年代の古いものを探して墓地内を歩きまわった。小さな自然石のお墓を見つけたら立ち止まってしゃがみ込んだ。風化で判読のむつかしいものがほとんどであった。金石文は見つからなかった。

 石になった人を敬う気持ちはそれぞれ違う。真人のような訪れ方をする人間もいる。

 爽やかな秋の風が頬を撫でていく。気分よく黄金色の稲穂が波打つ中を漕ぐように歩いていると視線の先にうっそうとした大樹を捉えた。大きな自然石の石碑が立っている。あれだな。歩幅を広くして、タッタッタ、と近づいてみると〈高麗寺跡〉と彫り刻んであった。発掘調査中なのかユンボが置いてあり、規制線が張ってあった。露出した基壇跡は保護するため人工堰で囲んであった。

 このようなむき出しの遺跡に遭遇すると心が躍る。中に入ろうとして一歩踏み出した途端、人の姿が目に入ってびっくりした。畔に溶け込むように座り込んでぽつねんとタバコを燻らしている野良着姿のお爺さんがいた。こちらに背を向けているので形相は分からない。このとき耳の奥でざわざわと鼓膜を叩く音がした。深夜自室にこもり背を丸めて隠微な作業をしている時覚えるざわざわである。

 気勢をそがれて、何食わぬ顔で農道に戻り資料館目指した。やがて自動車がビュンビュン走っている国道に合流した。時間は正午に近い。ローソンがあったのでサンドイッチとコーヒーを買った。店内のイートインは座る席がなく資料館で食べようと思いぶら下げて歩いた。

 国道沿いの山の中に、樹木に囲まれたコンクリート造りの建物を目にした。反対側は流域の広い木津川が蛇行して流れている。周辺には何の建物もなくこつ然と佇んでいた。

 講座の開始時間は午後一時半になっている。確認して表に出て川の流れを見ながら食事をした。食べ終わってから資料館の展示品を一通り閲覧した。目の肥えた真人にとって別段興味を引く展示品はなかった。

 一時半きっかりに講演は始まった。内容はどうでもよかった。配布資料から目を皿にして現在発掘進行中の現場と発掘予定現場を探した。京都市内はマンションやホテルの建設が活発なので平安京の遺跡がいたるところで見つかっている。建設に間に合わせるため発掘が急ピッチで行われている。街中の現場は交通の便が良いので行くにしろ盗み出すにしろ手っ取り早く済ませる。しかし深夜であっても人通りが絶えないので見つかる可能性は高い。かといって勤務が引けてから実行するので、遠くまで出かけることは叶わずおのずと場所は限られてくる。電車でせいぜい一時間以内のエリアで実行しなければならない。

 真人は講演の途中の休憩時間を利用してするすると退席した。今日の目的を達成したからだ。しっかりパンフレットを握り頬を紅潮させていた。

 帰りも同じ田んぼの中の農道を駅まで辿った。途中の高麗寺の石碑が立っているところでキョロキョロとあたりを窺った。耳の奥がざわざわしてきた。あのお爺さんが同じ姿勢でこちらに背を向けタバコを燻らしていた。

 遺跡の中に踏み込むのをあきらめ、通り過ぎたらざわざわは消えた。


 真人は次の日曜日の午後狙いを定めた現場の下見に出かけた。山城郷土資料館で得たパンフレットによると、京都市伏見区のJR奈良線複線化の工事中に土器が出土したので近々発掘調査する、となっていた。下見をするのは、まごまごせず短時間で首尾よく終えるための地理確認、盗み出す手順、持ってくる用具の選定、などのためである。また見つかった場合の逃走経路の確認もしておかなければならなかった。

 奈良線の桃山駅に降り立つとスマホで道順を調べた。住所を打ち込んでみると東方向にある私立学校の敷地近くになる。

 実際に歩いてみると、このあたりの道路は宇治川に向かってかなりきつい傾斜で下っていた。しかも狭い。周辺を入念にチェックしながら線路際まできた。民家は無く樹木が多い淋しい場所である。夜間は街灯の明かりだけになる。人目を避けるには都合よいがそれだけに歩いておれば目立つ場所でもある。この道は学校関係者以外は利用しないのかもしれない。所要時間は二十分であった。

 土器が見つかった場所はなかなか特定できなかった。山肌を削って線路をもう一本通す複線化工事中に見つかったのだからいつも目印にしてきた発掘現場特有のおんぼろのテントもロープの規制線も張られていない。これまでと勝手が違う。しかし土器は見つかっているのだからくまなく探せば見つかるはずだ。

 切通しになっている地形を読むように観察しながら五十メートルほど行ったり来たりした。山肌をユンボで削った個所は色が違う。端っこの方に旧来の山肌がそのまま残されているところがあった。雑草が生えているのはここだけだ。土器が見つかったので削り取るのを中止したのではないかと考えた。少し離れて全体を観察してみた。これまでのいろんなところで見てきた遺跡の数々を思い出してみると山と思っていたところが実は古墳であったとする例はいくつもあった。単なる山の中から土器が出てくるはずがない。そう考えるとこの削り取っている低い山は古墳ではないかと想像した。気持ちが昂って血流が全身を駆け巡った。丹念に探せば土器どころか石櫃が発見できるかもしれない。櫃の蓋を開ければ埋葬者の人骨や副葬品の鉄剣や翡翠の勾玉が出てくるかもしれない。真人は発見者になるのだ。飛躍した夢想に嵌まり込んで動悸が激しくなった。今度ここに来るときは携帯型のスコップを持ってこようと決意した。こんな大掛かりな盗みは初めてだ。

 六両編成の〈みやこじ快速〉が警笛を鳴らして通過した。今日の下見の目的を果たして引き上げた。学校の近くまで戻って振り返り場所の確認をもう一度した。どう見ても低い山は古墳に見えた。終電が通過した後は真っ暗になることも確認した。


 翌日の月曜日。

 出勤する時今日は深夜業務があるので帰りが遅くなると母に言った。母は弁当を渡しながら何か言いたそうだったが口をもぐもぐさせただけであった。普段からあまり言葉を交わさなかったし、嘘ついたので後ろめたくこそこそと玄関に向かった。

 勤務を定時に終えると下見をした桃山の現場に向かった。駅前の喫茶店に入って夜が更けてくるまで一時間ほど過ごした。

 真人と同年代のペアが三組、楽しそうにおしゃべしていた。すみっこに着席して人待ち顔を繕い、置いてある週刊誌を読んでいた。

 喫茶店を出ると夜空がやけに明るかった。今日は満月であることを計算に入れていなかった。

 下見した道を歩いていると月光が映し出す自分の影に怯えた。不安感が襲ってきた。背に担いでいる折り畳み式のスコップがカチャカチャ音を立てた。これまでにも月夜に決行した経験はあるがテントの下に潜り込んでしまえば姿を隠せた。今日の現場は身を隠すテントがなく月光がサーチライトになって線路際の切通をくっきり照らし出していた。さてどうしたものか校舎の陰に身を消してしばし考え込んだ。コンクリートの上にしゃがみこんでいるので体が冷えてくる。別に今日でなくてもよいのだ、出直そう、と考えて腰を浮かせた時ケータイの呼び出し音がした。母の切迫した声が鼓膜をビビッと叩いた。

「真人、すぐ帰ってきてお祖父ちゃんの容態が急変した。」

 大急ぎで帰宅した。

 お祖父ちゃんは真人の手をぎゅっと握って目を閉じた。山代家をお前に託したぞ、と言ったように受け取った。

 目が覚めた。親に大学まで行かせてもらい、二十八歳にもなって、憂さ晴らしに墓荒らしをしている自分が恥ずかしくなった。一念発起し会社を退職し民間埋蔵文化財発掘会社を立ち上げた。お祖父ちゃんが残してくれた遺産と親から借りたお金を資金にした。家族の支援を受けてスタートした会社は順調に推移している。名門大学の考古学専攻課程を修了している肩書がものを言った。調査発掘費を圧縮したい地方の行政機関に代わって発掘を堂々と行うようになった。もう墓荒らしの汚名は返上した。紆余曲折を経て自分の道を見つけたのだ。結局真人にはこの道しかなかったのだ。これで亡くなったお祖父ちゃんや家族に顔向けができた。


         二


 今回の発掘現場は京都府南部にある人口四千人ほどのひなびた山間の町の依頼であった。民営バスしか交通機関がなく、それも一時間に一本というお粗末さだ。若者は都会に出て行き、高齢化は急速に進んでいた。

 町を存続させていくには高齢者を大切にしていかなければならない。そうでなければ猪と鹿と猿の町になってしまう。ところがたった一つしかない福祉施設は耐震診断で使用不可となり建て替えをしなければならなくなった。転移の候補地になったのは高台にある町営住宅の前のだだっ広い遊休地である。人口が増えれば建て増すため確保していたが逆に減ってしまいその必要性はなくなっていた。現状は雑草がはびこり石ころが転がっている野原である。そこを地ならししてみたら古代瓦が続々出てきた。町の伝承としてはこの近くに古代寺院があったことになっていたが正確な記録はなかった。町の年間予算は六十五億円である。厳しい財政下で行う事業に予定外の出費を見込まなければならなくなった。町の担当職員は、できるだけ・・・・・、できるだけ・・・・・、と何度も言った。

 発掘作業一日目。

 二戸一の平屋建て町営住宅が六棟並んでいる前の野原にテントを張りユンボを持ち込んで立ち入り禁止を示すロープを張った。多用途の長机五台と休息用のパイプ椅子十脚も持ち込んだ。長机は場合によっては調べ物をする事務机になり昼食時や休憩時の食卓になる。シャベルやスコップ、各種の箒に刷毛とヘラ、竹製の蓑、出土品を一時的に仕舞っておく籠、軍手やタオル手ぬぐいも持ち込んだ。もちろん飲み物を入れるクーラーボックスとポットも持ち込んでいる。工事用仮設トイレも設置した。手洗い用の水を入れるタンクも設置した。

 一段落してこの発掘現場近辺の地形を調べるため歩いた。標高八百メートルの東部丘陵から緩やかな尾根が伸びていてその中程になる。端っこは在所の中心地まで伸びている。反対側からも山が迫っているので盆地になっているところに田んぼが広がっている。川筋に民家が固まって集落をなしている。人の動きまで手に取るように観察できる。発掘地の隣は野菜畑と茶畑になっている。住宅地の中の発掘現場と違ってこういうところでは雨水の捌けを考慮しなければならない。泥が畑地に流れ出たら保障問題に発展する。過去に掘った土を盛り上げていた個所が大雨で崩れて流れ出し溝を埋めてしまった苦い経験をしている。発掘は好事家には歓迎されるが地元の人たちにとってはあまり歓迎されないものなのだ。行政機関も本心は同じだろう。高松塚古墳のように観光に利用できるような発掘はないのが現状だ。いわば始末の悪い金食い虫なのだ。

 スタッフ二人とそぞろ歩きながら地形の確認をした。発掘を行う高台の端っこには、大小の小石がごろごろ転がっていた。スコップでそれをどけながら話し込んだ。

「素晴らし眺めですね。いいところです此処は、気に入りました。」

 と、重機運転の資格免許症を持っている高原さんが言った。真人より十歳も年上だがよく働いてくれる。骨格たくましく顔が日に焼けて黒光りしているのはこれまで屋外の土木工事に従事してきた履歴を表している。この人は重機と中型のダンプやトラックを持っている一人親方だ。常時この仕事に携わっているわけではない。発掘の仕事は仕事の狭間のいわばアルバイトだ。

「街中と違って空機が澄んでいていいですね。鳥の声が聞こえます。」

 と、言ったのは今年六十六歳になる桑田さんだ。この人が応募してきたとき、定年後の趣味の延長です、と言った。真人と同じく遺跡の発掘が好きなのである。普段は物静かでしゃがみこんで黙々と、土の層をめくっている。休憩しましょうか、と声をかけるまで手を休めない。やや変人なところがあって時々真人と作業の進め方で衝突する。

「今日はこのぐらいにして帰りましょうか。」

 やや早かったが帰る用意をしていた時、前の町営住宅の端の家からオレンジ色のニットウエアを着たちっちゃい女の子が飛び出してきた。真人らがスコップでどけた石を拾いこちらめがけて投げつけさっと家に逃げ込んだ。

 突然のことでびっくりした。

 翌日も晴天、作業は順調に進んだ。わずか五十センチ掘り下げただけで軒丸瓦と平瓦が出てきた。ハスの花弁が二つセットになった複弁の蓮華文なのでさして価値はない。この瓦は出土例が多く古美術店に出回っている。出土したものはいずれも壊れているので枚数は現時点では数えることはできなかった。これから寄せ集めて修復していけば確認できるがその作業は契約に含んでいない。ただ掘って集め種類と年代の特定をするだけである。

 瓦を掘り出した跡に礎石でも出てこないかと二メートルほど掘り下げる作業に入った。

 高原さんのユンボがウンウン呻っていた午後五時ごろ、昨日石を投げつけたちっちゃな女の子が学校から帰ってきた。黄色い帽子をかぶってブルーの上着に似たような色のスカート穿いて、たった一人うつむいてトボトボした足取りだった。一旦家に入りランドセルを下ろして怖い顔して出てきた。小石を拾って高原さんのユンボめがけて投げつけさっと逃げ込んだ。

 真人はこの子が町営住宅の人たちの気持ちを表していると思った。騒音の抗議はなかったもののピタッと窓を閉めて見学にすら出てこない。うるさいんだろうなと判断した。トラブルは起こしたくなかった。

 五日目は土曜日だった。

 さあこれから作業を始めようかと今日の段取りを打合せしていた八時半ごろ、ちっちゃな女の子が住まいする家からお母さんらしき人が出てきた。普段着で買い物にでも出かけるようないでたちだった。前を通り過ぎる時、真人に軽く会釈した。若くて奇麗な人だった。見とれてしまった。

 高原さんは一切気にすることなくユンボをウンウン呻らし始めた。桑田さんも地層の変化を見届けるためユンボの傍に立っていた。

 しばらくして女の子が出てきた。この女の子いつも服装を変えている。今日の上着は白い襟の附いた赤いニットウエアにピンクのスカートを着用している。ズックの靴も洗ってある。学校が休みなので黄色い帽子は被っていない。

 黙って小石を拾い始めた。それを台地の端っこに持って行ってケルンを作る要領で積み重ね始めた。慣れているのか見てる間に形の整ったきれいな三角錐を作った。ちょうど背丈と同じ高さぐらいまで積んだ。そして横に立ち額に手をかざしてじっと在所の方角を見つめていた。あいにくと今日は曇天、在所の様子はかすんで見えなかった。

 真人は思い出した初日に周辺を調べた時この場所に石ころがたくさんあったことを。

 近所に友達は居そうになく一人遊びを身に着けている。母親が帰ってくるまでこうして遊んでいるのだ。父親はいないようだ。この子が不憫でならなくなった。

 いつまでも感傷に耽っていられない、出土した瓦の整理に取り掛かった。

 昼食の時間になっても女の子はケルンの傍で歌いながら小さなスコップで土いじりして遊んでいた。

 真人達は手を洗い顔をタオルでぬぐい椅子に腰かけた。お茶を淹れ持参した弁当を食べ始めた。それを見て女の子は家に入っていった。

 お母さんが食料の入ったビニール袋をぶら下げて帰ってきた。

 真人は弁当を食べ終わると、休憩時に食べるお菓子を持って女の子の家に向かった。石を投げつけられたことは忘れていない。

 母子は食事の真っ最中であった。店屋物をパックごと食卓に並べて楽しそうに食べていた。

「うるさいと思いますができるだけ早く終えるようにしますので辛抱してください。これお嬢さんのおやつにでも・・・・・」と言って腰をかがめて上がり框に置いた。

 女の子がトットっとで出てきて、お菓子をさっと掴み投げ返した。

「これ、なんてことをするの、謝りなさい! 」

 叱られた女の子は堰を切ったように大声で泣き始めた。

「すみませんね。あとでよく言って聞かせます。お仕事の邪魔をしないように遊んでいると思いますけど迷惑であれば注意してください。」

 真人は思わぬことになって引き上げた。

 お母さんは間もなく子供を残して家を出ていった。女の子は家にこもって何をしているのだろう。友達が訪ねてくる気配すらなかった。

 作業は午後五時に終わった。本日は出土品はなし、三日連続である。高原さんも桑田さんもぶすっとしてそれぞれの自動車で帰っていった。

 真人もそろそろ現場から去ろうと自動車に手荷物をまとめていた時お母さんがずっしり重そうなビニール袋を両手に提げ腕をしならせて戻ってきた。直接家に入らず真人にところにやってきた。

「先ほどはすみませんでした。これ皆さんでお飲みください。」

 と言ってお茶のボトルを三本差し出した。

 真人は恐縮してしどろもどろになった。近くで見ると若くてとてもや子供がいる人には見えなかった。色白で髪の色はブロンド、化粧は浅くとも目鼻たちがすっきり整っている。藍色のニットの上着にブルージーンズ履いていた。

 若いお母さんはこんなことを言った。

「今日は普段務めている会社は休みですのでアルバイトなんです。ここから在所の集落が見えるでしょう。たった一軒のスーパーが見えるでしょう。あそこでレジ打ちしているんです。務めは非正規ですので休みの土曜日にも働かないと親子二人食べていけないんです。日曜日だけあの子と一緒に過ごしています。」

 話し声を聞いて女の子が玄関戸を開けニュッと顔を覗かせた。しかし怖い顔してこちらに近づいてこなかった。

「マミちゃん、どうしたの?」

 お母さんはいそいそと家の中に入っていった。

 あの子の名前はマミだと分かった。

 ケルンを積んでじっと在所の方角を見つめていた意味も何となく理解できた。

 翌日からマミちゃんは学校から帰ってくると掘り返した盛り土の上に上がり込んで座り込み作業を見学するようになった。母親にサインを送るケルン積みは土曜日だけなのだ。

 真人はお母さんからお茶のボトルをもらったお返しのつもりではなくお菓子を渡すようになった。最初のうちは手を付けなかったが、そのうちに袋から取り出してポリポリ食べながら見学するようになった。長机の上に置いてあるお茶も飲むようになった。

 真人は話しかけたいのだがこの年頃の子に何を話したらよいのか話題を見つけられなかった。何にも会話せずに今日も終わった。

 次週の土曜日がやってきた。

 真人はソワソワするようになった。

 マミちゃんがケルン積みを始め、お母さんがお昼の時間にちょっとだけ帰ってきた。

「ご迷惑かけていませんか。マミがあんなお仕事なら私でもできると言っています。スコップであちこちほじくり返すのは得意ですからね。」

「あははは、そんな風に言っているのですか。学校から帰ってくると私たちが作業を終えるまで見学していますからね。」

「だあれも相手してくれませんのでね。かわいそうですけど仕方ありません。あの子にこんな目を合わせて。」

 と、言って目を伏せた。

「ここから集落が固まっているところが見えるでしょう。あそこに私の実家があるんです。父母は健在なんですけどね。」

 マミちゃんが話声を聞いてまたニュッと顔を覗かせた。

「はーい、待っててね。」

 お母さんは小走りで家の中に入っていった。二人で過ごす時間は貴重なのだ。

 月曜日、マミちゃんはいつも座る場所にお絵描き帳を持ってやってきた。表紙に多田真美一年一組と書いてあった。

 小さな子の絵は関心のある対象物を中心に据えて大きく描きその特徴を表現する。覗いてみるとさっと胸に当てて隠したが、じっと真人を見返してニコッと笑ってから見せた。真人を真ん中にして重機を操作する高原さんがいて、その後ろに桑田さんが小さく屈みこんている姿が描かれていた。真人だけ太い眉、大きな目、高い鼻、への字に結んだ口、履いているゴム長まできっちり描いてあった。

 真美ちゃんが関心を持っているのは誰だか分かった。

 小さく手を叩いてやると嬉しそうに顔を赤く染めてはにかんだ。

 こんな交流があってから真美ちゃんは話しかけてくるようになった。

 金曜日に町の文化財担当職員が視察にやって来た。

「瓦以外は出てきませんね。」

「地層の変化もありませんのでここは瓦の捨て場だったのかもしれません。もう少し山側に平坦な地があります。勘ですがあそこが寺院跡かもしれません。」

「そうかもしれませんけど、高齢者施設の建設に差しさわりのないところですのであそこを発掘する予定はありません。またの機会にします。発掘した瓦はこれだけですか?」

「そうです。保管場所に持っていきましょうか。」

「そんな場所ありません。現在使用中の福祉施設が空きますのでそこで保管することにします。それまでは町役場の物置にでも置いておきます。」

 真人は職員の見識にがっかりした。出土した瓦はさして値打ちのないものとはいえ、この町の古代を語るうえでは貴重なものだ。三十年ほど前に刊行された町史があるのでいずれ改訂版が発行されるだろう。その時にはこの場所に古代寺院があったことを証明できる貴重な発掘になるのだ。発掘してみないと確認できないが町民の誇りになる宝なのだ、残念でならない。

 町の職員が帰った後に桑原さんは、「仕方ないと違います。」と、言った。

 高原さんは、「ここから撤収して次の場所に入ったらどうです。請負仕事ですのでいつまでもねちねちとこだわっていたら儲けは出ませんで。」と、意見した。

 三人が話し合っているのを真美ちゃんはじっと聞いていた。

 土曜日、高原さんと桑田さんは次の現場の下見に行った。真人は出土した瓦の詳細なイラストを描くためにやってきた。写真で残す必要もあるが線刻まで表すにはイラストの方がよい。

 お昼ごろになって、弁当を食べようかと用意し始めた頃、真美ちゃんのお母さんが帰ってきた。いつもの土曜日のように母娘で食べる総菜の入ったビニール袋を下げていた。

 家の中に姿を消して間もなく真美ちゃんがお母さんの手を引っ張って表れた。

「真美がね、外で食べようと言ってきかないんです。ここで発掘作業が始まるまでは、今日のように天気の良い日はシート敷いてピクニック気分で食べていましたのでね。」

「それではあちらにシートを引きます。ケルンを積んであるあたりは集落がよく見える場所ですので。」

 真人はビニールシートを敷いてテントの下に戻ってきた。

 あれっ、弁当がない。

 真美ちゃんが、こっち、こっち、という風に弁当を振りかかざして手招きした。お母さんは笑っていたが拒んでいるようではない。

 真美ちゃんを挟んで座ろうとしたら、真美ちゃんはお母さんの横に真人の弁当を置いてくるっと反対側に回った。お母さんの腕の脇下に潜り込んでニヤッと笑った。

 真人は、「横に座っていいですか?」と、一応ことわった。

 お母さんは、「これ食べてくださいよ、店屋物ですのでお口に合うか分かりませんけど。」 と、言ってフードパックに収まったままの、野菜の炊き合わせ、だし巻き玉子、コロッケ、菓子パン、をぽいぽいと並べた。

 真美ちゃんは真人の弁当をじっと見ている。

「御飯が欲しい。」とお母さんの顔色を窺いながらねだった。

 お母さんはギュッと真美ちゃんを強く抱きしめた。

「私はこの子を十八歳で生みました、まだ高校生でした。夫は大学二年でした。バスケのクラブ活動で知り合いました。両方の親から猛烈に反対されて仕方なく強引に夫のワンルームマンションで生活始めたのです。夫の卒業と同時に結婚する予定でした。けどその頃には将来の進む方向を巡って諍いが起きるようになりました。夫は海外に出ていきたかったようです。そのためには子供は足手まといになると考えたようです。実家に預けろ、というのですが勘当されて飛び出した親にそんなこと頼めるはずありません。夫と別れてこの子と二人で生きていくことに決めました。実家のあるこの町に戻ってきたのはどこかに甘えがあったのだと思います。両親にも私にも意地がありますので別に住むようにしました。」

 真美ちゃんは真人の弁当を美味しそうに食べた。量が多いので半分ほどしか食べなかった。食べ残しを返すのは失礼にあたると思ったのか、残りをお母さんが食べた。

「おいしかった。手作りの味は違いますね。」

 真人に顔を向けずに立ち上がり慌てて仕事に出かけた。

 真美ちゃんはフードパックの後片づけを終えると、ケルンの傍に立ってしきりに集落の方向を見つめた。

「あっ、お母ちゃん。」

 ぴょんぴょん飛び上がり大きく手を振った。集落の方でも手を振っている人がいた。

 真人は予定通りこの地の発掘を終えた。元通りに埋め戻し地ならしをした。石ころをちゃんと拾って取り出し母子の行方を気にしながら撤収した。


         三


 真人は五十六歳になる母親の歩き方がおかしい、と気づいた。小股でチョコチョコと歩いている。父親に尋ねると、「放っといたらええ。」と怖い顔で突き放すような言い方をした。どうもその件について話し合っているようだが意見がまとまらないようだ。

 嫁いでいった妹に電話した。

「母が足のことでなんか言っていないか?」

「この間電話した時、思うように歩けなくなった。年のせいかもしれないと言っていた。」

「ちょっと頼みがあるんやけど、病院に連れて行ってくれないか、歳の所為ではないと思う。父親が連れて行こうとしても言うこと聞かないようや。」

「分かった、すぐ連れていくわ。」

 三日たって、仕事から帰宅したら父親が深刻な顔つきで話があると言った。

「お母さんは水頭症らしい。町内の青田総合病院に連れて行って診てもらったんや。脳のCTスキャン撮ったら脳室が大きくなっていた。水が溜まっているからや、と医師が言いよった。水圧で脳神経が圧迫されてパーキンソン患者のような歩き方になっている。物忘れは以前からあったのでそれほどひどくなったようには思わなかった。おしっこの回数はやたら多くなっている。えらい病気になりよったもんや。」

 水頭症と言われても、ぴんとこなかった。早速ネットで調べてみた。父親が言った通りの症状が出るらしいが手術をする以外に治療方法はないらしい。またこの病気の手術を多く手掛けている病院も調べた。

 翌日、父と妹と一家総出で母を伴い家の近くにある青田総合病院を訪れた。

 脳神経内科の女性医師は度の強い眼鏡をかけた四十歳ぐらいの長身の方で、神経質そうな方だった。

「この間お話ししましたが、CT画像を見てください。黒く映っているこの部分が脳室です。正常な方の写真がありますので見比べてください。お母さんの方は大きいですね。水が溜まっているのです。髄液と言ってきれいな水なんですが脊髄と脳室を循環して脳を保護しています。何らかの理由で循環がうまくいかなくなり脳室に溜まってしまうと脳を圧迫して神経に悪影響を与えます。歩行障害とか頻尿とか、記憶障害などを引き起こします。この方の血液検査のデーターもCTスキャンのデーターも見ましたが突発性の正常圧水頭症を発症しています。」

 迷いなくはっきりと病名を告げた。父も妹も母も、大げさに言えば死の宣告を聞いているように押し黙っていた。耳慣れない病名だったので理解しがたいのだ。真人でさえ予備知識はネット検索で得ただけで周辺にこの病気にかかった人は聞いたことない。さらに医師は不安感を助長するように付け足した。

「もう一つこの画像を見てください。脳下垂体の下に小さな塊が映っています。腫瘍のようにも見えるのですが、これが脳に悪影響を与えている要因かもしれません。」

 追い打ちを掛けられて悄然としてしまい一家四人俯いてしまった。なにしろ風邪を引く以外の病気をしたことがない人だった。

 真人は頭を上げて尋ねた。

「これからどのような治療をしていくのですか?」

「はい、髄液を抜いてみます。タップテストと言います。脊髄に注射針を刺して髄液を三十ミリリッターほど抜きます。その結果症状が改善すれば水頭症に間違いありませんので脳から腹部に髄液を流すバイパス手術を行います。」

 まずはこのタップテストをすることになった。おたおたしている両親に代わって真人と妹が入院手続きをした。

 一週間後、髄液をたった三十ミリリッター抜いただけで大股に歩けるようになり体の向きを変える時ふらついていたのがなくなり頻尿も改善した。夜間のトイレは一回だけで済むようになりぐっすり眠れると言って喜んでいた。

 そうなると次の課題は外科手術をいつするかになる。母は手術を嫌がって退院して様子を見ると言った。

 実際に手術を担当する脳神経外科の医師に会って説明を聞いた。

 五十代半ばの先生は太っていて腹が出っ張り関西弁丸出しで詳しく説明をした。

「放っておいたらあきまへんで、いずれせんならんのやから早い方がよろしいわ。シェント手術と言うんやけどな、脳外科手術としては軽い方や。頭蓋骨に錐で穴をあけて脳室に二ミリぐらいの太さのシリコンチューブを差し込むね。耳の後ろに沿わして鎖骨あたりに水量を調節するバルブをつけて、お腹を通し胃の下まで入れとくね。手術している時間は一時間とちょっとぐらいかな。手術室に入ってから髪を切ったり麻酔したりする時間がいるし、終わってから覚める時間もみとかんならんので三時間ぐらいかかるかな。なんのトラブルもなかったらそんなもんや。慣れてるから心配せんでもええからな。脊髄にチゥーブを差し込んでお腹まで引っ張ってきて髄液を流す方法もあるけど、頭から流した方が後の管理がしやすいわ。それからな、内科の方で腫瘍と説明したのはケトラ膿胞の事や、何の心配もいらん。気になるんやったに一年に一度ぐらい大きくなっていないか確認したらええわ。」

 親しみやすい関西弁で丸め込まれた母は、よろしくお願いします、と手術することを承諾した。

 真人はいろいろと考えていた。この病院の手術例は年間六例となっていた。慣れていると言っているほど多く手掛けているわけではない。京都市南部に水頭病センターを有しシェント手術を数多く手掛けている羽衣総合病院がある。こちらに転院することを考えた。何といっても脳手術なんだ。軽率な行動はできなかった。安全第一だ。

 家に帰って家族会議を開いた。

 母はあの先生にお願いする、信頼できる。と言い張った。手術を嫌がっていたのに先生が気に入ったようだ。父は後の通院のことを考えて、歩いて通えるあの病院でいいのではないかと言った。妹も同じような意見であった。みんな手術が成功した後のことを考えている、まずは手術を無事に終わらせることが肝心なのだ、水頭症を専門にする科を設けている羽衣総合病院で再診することを強く進言した。

 結局母が自分の事なので一晩考えてみると言った。

 翌日、母は真人の言うとおりにする、と言ったので水頭病センターのある羽衣総合病院に連れて言った。

 問診や各種の検査があって一週間後脳室復興シャント手術が行われた。

 手術室に入ったのは午後二時十五分。ベッドに寝かされて廊下をゴロゴロキャスターの音きしませて戻ってきたのは四時四十五分だった。用意してあった個室に入って導尿をして化膿止めの点滴装置を取り付け、血圧や心電図や血中酸素の飽和状態を測定する術後モニターを取り付けるのに三十分ほど掛かった。執刀した医師の報告を聞いたのは五時半頃だった。

「何のトラブルもなく終わりました。感染症と異物反応が起こらないように注意して見ていきます。」

 と、若くてハンサムな医師は標準語で、術後のCT画像を見せ説明した。チューブの先端が頭蓋骨を通して脳室まで入って首の後ろから鎖骨付近を通り胃の下部に達していた。

「どうぞ面会なさってください。」

 病室に三人がぞろぞろ入っていった。

 母は、「もう帰ったらええで。」

 と、言った。子供にこんな姿を晒したくないようだ。父親だけがベッドの傍らにパイプ椅子を持ってきて座った。

 妹は、「お兄ちゃん、元気な顔見たし帰ろか、夫婦二人きりにしといたらええわ。」と言ってさっさと出ていった。


        四


 JR京都駅は相も変わらず乗り降りする人でごった返していた。十二月になり観光シーズンが終わったというのに混雑ぶりは変わらない。注意して歩かないとぶっつかってしまう。今度の仕事は中京区役所が管轄する市内の大掛かりな発掘なので他社との合同説明会に参加した後に帰宅するため京都駅に着いたところである。

「あれっ。」

 跨線橋を南方向に渡っていてすれ違い数歩過ぎてから脳をトンと叩かれた。立ち止まって振り返ったら、脳をトンと叩いた相手も振り返って立ち止まりこちらをいぶかしげに見ていた。

 真美ちゃんのお母さんだった。ブルージーンズにベージュの短コートを羽織っていた。

 互いに歩み寄って挨拶を交わした。

 JR京都駅は北側が正面で東海道線のゼロ番ホームから南に向かって奈良線の十番ホームまである。その端に新幹線ホームが十一番から十四番までくっついている。さらに乗り入れている私鉄のホームもある。北側の離れたところには関空特急や山陰線、嵯峨野線のホームがある。各ホームをつないでいるのは跨線橋である。列車が到着すると階段を上って跨線橋を渡り出口に向かうか乗り換えの各ホームに降りていく。混雑するわけである。こんなところで立ち話しているわけにいかないので跨線橋のゼロ番ホームに降りる階段下にあるカフェに入った。

「真美ちゃんは元気ですか?」

「学校が変わりましたけどすぐに友達を見つけたようです。山の中にいた時より活発になりました。」

「えっ。」

「今日は用事があって駅近くに出てきたのですけど、山科の府営団地に引っ越しました。私はまだ二十六歳です。今の会社に勤めていても非正規ですのでお給料は上がらず、アルバイトで補っても生活していくのが精一杯です。これからは真美にお金がかかります。このままでは行き詰って将来に何の展望も開けません。看護師になろうと思って山科にある病院の看護専門学校に社会人枠で入学しました。母子家庭ですので経済的支援があります。学費は奨学金を申請しました。三年間学んで正看護師資格を取って真美を大学に送り出します。今なら間に合うと思って決意しました。」

「あの水頭症センターのある病院の中にある学校ですか?」

「そうです、ご存じですか。」

 真人は偶然に驚いた。しかし母がそこに入院しているとは言えなかった。真美ちゃんの話で紛らわせて別れた。

 二度目に会ったのは羽衣総合病院のエントランスホールだった。ここで待っておればなんとなく会える気がした。正面玄関の人の出入りを気にしながら本を読んでいた。

 姦しい五、六人の集団が入ってきてその中に真美ちゃんのお母さんがいた。スカートを穿いた姿を見たのは初めてだ。えんじ色のスカートに白いふさふさした襟のついたブルーのブラウスの上から黒いカーデガンを羽織っていた。連れは多分看護学校の学生だと思うがその中に交じっていても二十六歳という年齢を感じさせなかった。

 目が合ったので真人をすぐ見つけたようだが無視して素通りした。京都駅で会ってお茶を飲んでから一週間目である。女性特有の警戒感が働いたのだろう。

 待ち伏せしたわけではないと言い切れなかった。姿を見ただけで良しとするか、読みかけの本を閉じて立ち上がりエントランスホールを出たところで背中をポンポンと叩かれた。

「失礼しました。みんなと一緒でしたのでね。」にっこり微笑んで、なぜここにという風に小首を傾げた。

「母親が入院しています。水頭症の手術を受けて二週間経ちました。様子を見に来たのです。」

「そうでしたか、不思議なご縁ですね。申し訳ないですけど授業中なんです、携帯の電話番号教えてください。あとで電話します。それでは・・・・・」

 心の中で小躍りした。

 真人はその日落ち着かなかった。電話を待っていたが掛かってこなかった。

 翌日真人の母親が電話してきた。

「奇麗な人がお見舞いに来てくれたけど、あの人誰や。」

「えっ。」

 しばし絶句。

「お父さんが来ていたので聞いたが知らん言うてたで。」

 父親にも会っていた。

「お見舞いにリンゴ三つもらったのでお礼言うといてんか。」

 真人は真美ちゃんのお母さんの電話番号を聞いていないのでどうしょうもない。向こうからかかってくれば履歴が残るので分かるのだが。多分そんなことは知っているだろうからかけてこないだろう。

 それでも両親に会ってくれたことは嬉しかった。その日は落ち着かなかった。

 電話がかかってきたのは五日後になった。

「この間はすみませんでした。いろいろと忙しかったんです。真美が風邪をひいて学校を休んでいますので一人にしておくわけにはいかなかったんです。家に一緒に居ればこの時とばかりぐずりますのでね。」

「そうでしたか、何かできることがあればお手伝いしますけど。」

「もう大丈夫です。熱が下がりましたのでね。真美は後二、三日休みますけど私は看護学校に行きます。それでは。」

 一方的に切ってしまったのでお見舞いのお礼を言いそびれた。待望の電話がかかってきたので舞い上がっていたわけではない。

 真人は何か用事を思いついては躊躇って電話を掛けることができなかった。母の見舞にかこつけて出掛けるのだが、病室には入らないでエントランスホールで本を読みながら待っていた。がもう会えなかった。

 真美ちゃんから手紙が来た。

「お母ちゃんから山のなかの家にいたとき、野原をほじくりかえしていたお兄さんにあったとききました。お母ちゃんはそのはなしを真美にしたときとてもたのしそうでした。あんなかおみたことありません。真美はびょうきがなおってげんきになりましたのでお母ちゃんをはげましています。しんどい、しんどい、といって真美よりはやくねてしまいます。」

 差出人は多田真美となっていたが差出人住所は書いていなかった。表書きはたどたどしい漢字書体であった。

 真美ちゃんに心を見透かされている気がした。そうなると余計返事ができなくなった。

 真人は合点いかない。真美ちゃんがどうして住所を知りえたのか。と思案した時思い当たったのは会社のホームページだった。スマホで検索できる。となれば・・・・・お母さんしか思いつかないしできない。

 そう思うと、こだわりが吹っ切れた。

 ケータイを手にした。

「真美ちゃんの風邪が治ったようですのでどこか遊びに行きませんか? 今度の日曜日どうです。」

 もちろんOKだった。

 JR京都駅に集合して南端の十番ホームの奈良線に乗った。列車は鶯色の103系鈍行である。真美ちゃんを真ん中にして横並びに座った。真人はネクタイこそしていないがグレーの背広を着てお父さんらしい格好していた。真美ちゃんはスカイブルーのワンピース着て白い帽子をかぶりパープルのワンショルダーボディバッグを外して膝の上に大事そうに乗せていた。何を入れているのか知らないがパンパンにふくらんでいる。真っ白のスニーカーが浮きたっていた。お母さんは渋いピンク色の花柄ブラウス着て半コートを着用しライトグレーのプリーツパンツでしなやかにまとめていた。

 ガタン、鶯色の鈍行列車は奈良に向け出発した。あの時の光景と全く一緒だった。

 真美ちゃんが真人とお母さんを交互に見遣った。

「中に何が入っているの?」真人は尋ねた。

「ふふふ、内緒。」真美ちゃんは足をぶらぶらさせて微笑んだ。

「好きなものが入っているのね。」お母さんは真美ちゃんの頬をつついた。

「ふふふ、言うたらあかん。」頬を膨らませて真美ちゃんは答えた。

 宇治駅に着くと真美ちゃんは手を引かれてスキップしながら降りた。

 前の席にけなりそうな顔つきの青年が座っていてこちらを見ていた。

                                   完



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道を見つけた 佐倉活彦 @sakurawarudo

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