モノラル
授業中、遠く微かに聞こえるあなたの声に耳を澄ます。
隣のクラスの授業の声。
おねがい、みんな、静かにしてて。
そんな小さな幸せ。
「ねえ、先生?」
放課後、いつものように高槻のいる生物準備室にやってきた竜平は、入ってくるなり甘えたような声を出した。窓際にある高槻の机に軽くもたれて、高槻の顔を覗き込む。
「ん?」
「授業中さ、もうちょっと声張らない?」
「なんだよ、薮から棒に。俺の声聞こえにくいか?」
高槻は眉を顰める。確かにそんなに大きな声を張り上げるような授業の仕方はしていないけれど、一応、教室の隅まで聞こえるように気をつけていはいるつもりだ。第一、竜平の席はそんなに声が届きにくいような場所ではなかったはずだ。
「うちのクラスで授業してる時はいいんだけど」
竜平は少し言い淀んで目を逸らし、声のトーンを下げた。
「隣のクラスからの声がなかなか聞こえないんだ」
「おま…」
「先生授業中はあのキャラだし、そんなハキハキした授業しないじゃん?もともと低い声だからなかなか通らないしさ」
不満げにプウと膨らました竜平の頬を、高槻は両掌で挟んでぎゅっと押しつぶす。顔を真っ直ぐこちらに向けて、ぐっと自分の顔も近づけた。
「なんで授業中に他のクラスの声を気にしてるんですか、君は。バカな事言ってないでちゃんと自分のクラスの授業に集中しなさい」
それはいけない事ですよと、教師として叱る。
もちろん自覚はあるのだろう。竜平はとらえられた顔を必死で逸らそうと抵抗した。じたばたしている姿が何とも可愛らしい。
「俺の授業中に楽しそうにニコニコと俺の顔を眺めるのは百歩譲って許すが、隣の授業まで意識を飛ばすな」
思わずくっと笑ってしまって、竜平を解放した。押さえていた頬が少し赤くなっている。
「へっ、俺そんなに顔緩んでる?」
「ああ、つられて笑いそうになるのをこらえるのが必死なぐらいに。授業中にあの顔はないな」
「マジで?どうしよ、俺完全に無自覚だ」
竜平は赤くなった頬を今度は自分の手で覆った。自分では真剣に授業を受けているつもりらしい。実際、教えた事もしっかり頭に入っているようなので、ぼんやりと高槻の顔を眺めているというわけではないのだろう。
「だからまあ、そこは百歩譲る。でも他の授業中は俺の事は忘れろ。授業は真面目に受けなさい」
本当はいつだって自分を思っていてほしいけれど、それとこれとは話が別だ。自分のせいで竜平の学業がおろそかになるのは教師として歓迎できない。
「わかってるよ。だけどね、先生。遠くから微かに聞こえてくる声でも先生の声だってわかっちゃうんだ。気付いちゃったらもう、何言ってんのかなって気になっちゃって。隣でどんな授業してんだろう、何を見て何を思っているんだろうって、先生の事ばっかり考えちゃうんだ」
竜平のストレートな愛情表現に胸の奥が熱くなる。こんなに思われる事が嬉しくないわけがない。今すぐ強く抱きしめたい。
けれど、それでも恋人である前に自分は教師なのだ。そこは妥協してはいけない部分である。
「だったらもう少し俺がボリュームを下げるよ」
聞こえなければ気にならなくて済むだろうとそんな打開策を提案すると、竜平はものすごい勢いで却下する。
「ええーっ、それはダメだよ。だって、ほら、後ろの方の人とか聞こえないと困るし」
「そこはちゃんと調節するさ」
「やーだー!……俺のささやかな幸せ、取り上げないで」
捨てられた子犬みたいな目で見つめられて、毅然とした態度でいようという決心がぐらつく。
(くそっ、なんでこんなに可愛いんだ…)
「ちゃんと自分の授業聞くから。必死に耳そばだてたりとかしないから。ねっ、お願い」
そんなふうに懇願されて、無下にできるはずがない。
「…絶対だぞ」
「うん、約束する」
結局折れてしまったが、竜平がちゃんと授業を受けるのならば問題ないだろう。約束はちゃんと守る子だ。
「俺の声なんて、いつだって聞けるのに」
自分の甘さへの嘆きも込めて、ため息とともに高槻は呟く。
「いつだって聞けないよ。生物の授業なんて週に2時間しかないんだから」
「毎日会ってるのにって話だよ」
「そんなの関係ないよ。いつどこで何してたって先生が欲しくない時なんてないんだ。だからね、そういう隣の授業中とか、あと偶然廊下ですれ違ったりとか、そういう些細な事がすごく大事なんだからね」
(それは、まあ、俺だって…)
隣のクラスでの授業中、この壁の向こうに竜平がいるんだなとかそういう事を考えた事がないわけではない。たまたま姿を見かければ嬉しく思う。
「わかったよ」
ぐいっと竜平の腕を引き寄せて顔を近づけると、唇を重ねた。
「わっ……ん…」
体勢を崩した竜平の体を支えて立て直してやりながら唇を離す。そして名残惜しさをごまかすように煙草に火をつけた。
(我慢できていないのは俺の方かもしれない)
今この時間だって、高槻は仕事中であるはずなのだ。もちろん高槻だって授業中はちゃんとしているけれど、子供たちと違って教師は放課後も引き続き就業時間中なのだ。竜平に授業中の我慢を強いているくせに、自分は仕事中でも我慢できないのだから矛盾している。
「俺ね、先生の声大好きなんだ。声だけじゃなくって全部好きだけどさ」
目の前でこんな可愛い事を言われて我慢なんて出来るわけがない。
「俺もだよ、竜平」
いつどこで何をしていても、竜平を欲している。
竜平の腰を引き寄せて自分の膝の上に座らせると、高槻は紫煙を細く吐き出しながら灰皿に火を押し付けた。
<終>
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