モノクローム10
「江森君」
帰りのホームルームが終わるか終わらないかのうちに席を立った竜平を、後ろの席の岡田が呼び止めた。
いち早く高槻のもとへ駆け付けたかったのだが、出端を挫かれた格好となる。
「どうしたの?今日はなんだか一日上の空な感じだったけど」
岡田独特のまったりペースに巻き込まれるように、急いていた気持ちも少し落ち着きを取り戻す。
彼が慌てている様を、竜平は見た事がない。
少しは見習って大きな人間になりたいと思うのだが、感情直結で生きている竜平には到底真似出来っこない。
こうして、張り詰めている所に、ぽわんと息抜きを入れてくれる岡田と一緒にいられる事は、竜平にとってとてもラッキーな事なのかもしれない。
「岡田はさ、憧れの人に会ったらどうする?」
「憧れの人?」
「そう、野球選手とか、芸能人とか、どんな人でもいいけど」
唐突な竜平の質問に、岡田はしばし思案をめぐらせる。
「あんまり思い当たらないけど、話しかけてサインもらったり握手してもらったりするんじゃない?」
「そういうことじゃなくてさ」
竜平は今立ち上がった椅子に再びどっかりと腰を下ろす。
「もっと身近に……例えば、友達の友達だったとか」
「それはラッキーだね。そしたら、友達になれるように努力するね」
「だろう?そうだよね。そういうことなんだよね」
望んでいた答えを岡田から引き出せた竜平は、満足して破顔する。
岡田の目の前で親指を立ててみせると、飛び上がる勢いで立ち上がり、鞄を肩に掛けた。
「頑張るよ、俺は」
ハテナいっぱいの岡田を置き去りに、竜平は手を振って教室を飛び出した。
駆け出したくなる気持ちを抑えて向かう先は、もちろん生物準備室だ。
お気に入りの先生であり、尊敬する人であり、実は憧れのお兄さんでもあった高槻と、もっともっと親しくなりたいと思う。
もっと、深い付き合いをしたいと思う。
高槻の周りにある分厚い壁を、ぶち破りたい。
多分、それはもう、少しだけ崩れかけている。
昨日、他人行儀に「江森」でなく、あの夏の日と同じように「竜平」と、確かにそう呼んでくれたのだ。
あと一押しだと思う。
ただの先生と生徒の関係ではなく、せめてあの日のお兄さんと少年の関係に戻れるように。
できるならば、それをふまえた、それ以上の関係になれるように。
竜平はそう願う。
もっと知りたい。
隠していた大きな秘密が解けた今、更にもっと奥深くが見えようとしている。
その先にあるものを、どうしても見てみたい。
辿り着いたその部屋の、扉の前で一回大きく深呼吸をした。
急いた気持ちのままぶつかっても駄目な気がする。
教室を出る前に岡田が引き止めてくれてよかった。
落ち着いて、確実に、いこう。
静かにドアを開けると、高槻は机に向かっていて、何か書いているようだった。
邪魔をしないように静かに入室して荷物を置いたが、一向にこちらを振り向く様子のない高槻に、だんだんつまらなくなる。
いくら静かに入ったとはいえ、気付かないはずもないのに、まるで無視するみたいに全然反応しないのだから、気に入らない。
いかにして高槻の牙城を崩そうかとあれこれ考えていたのだが、そのどれもがまどろっこしく思えて、作戦なんてどうでもよくなってしまった。
「せーんせっ」
こちらを向きっぱなしの広い背中にえいっと飛び乗る。
「うわ」
悲鳴を上げる高槻が可笑しくて、くすくす笑いながら首にぎゅっとしがみつく。
心地良い背中だった。
こんな事を言ったらガキだと馬鹿にされるかもしれないけれど、おんぶされたいと思う背中だ。
そんな心地良さと共に、今まで味わった事のない高槻の体温を感じて幸せに浸っていると、頭を軽く叩かれる。
「こら、竜平!大事な書類だったらどうするんだ」
竜平が飛びついた衝撃で、高槻の握っていたペンはあらぬ所を走っている。
「俺の個人的なノートだからいいものの、お前…」
「ごめんなさい」
「ほら、はなしなさい」
「やだ」
竜平は更に腕に力を込めてぎゅうとしがみつく。
「『俺』っていいね、先生。そういう言葉の方が好き」
「何を言ってるんだか。先生は仕事中です。はなしなさい」
急に事務的な話し方をするけれど、それでもどこか今までとは違う気がした。
わかっていて、冗談でそう言っている。
ように、竜平には思えた。
真実は、どうであるかはわからないけれど。
「はーい」
今度はおとなしく、背中を離れる。
「昨日の続きやってきまーす」
生物室へ繋がるドアを引く。
「先生、竜平って呼んでくれてありがと」
少し照れながらそう言い残して、竜平は外へ出た。
よかった。
顔が自然に緩む。
今日になったらいつも通りに戻ってしまっているかもしれないと、本当は少し怖かったのだ。
昨日の事は些細な事故でした、ということで、片付けられはしまいかと。
けれど、なかったことにはされていない。
竜平の願いは、許される方向に進んでいる。
「よかったぁ」
舞い上がるような気分で、仕事にも精が出る。
「よーし、やるぞっ」
気合いを入れ、竜平は学生服の上着を脱いだ。
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