第241話 夢のような時間




夢のような時間が始まった。今、目の前には夢の景色が広がっている。この瞬間、何か行動を許されているのは僕たちだけ。静寂に満ちた空間で、僕たちは音を鳴り響かせる。


最初は課題曲のマーチ、金管楽器の華やかなファンファーレで、舞台上に残っていた熱量を吹き飛ばすことを試みる。が、当然、そう簡単には吹き飛んではくれない。ここに残されている熱量も、自分たちが放つ熱量と同等に磨かれたものであるはずだから。この熱量を吹き飛ばし、自分たちの熱量を最後まで残す。それができないと上へは進めない。




最近、不思議に感じることがある。今、僕の隣で演奏をしている及川さん、最初、及川さんの音を聴いた時、春香の綺麗な音を掻き消していたことが少し気に食わなかった。だが、実際にこの人が隣にいると、春香と2人で演奏する時よりも芯があり、安定する。まるで、巨大な一本の柱、それが及川さんの存在だと最近気づいた。僕と春香は、柱を彩ることが役割だと思った。なのに、及川さんは要求してくる。僕に及川さん以上を…及川さんと吹けるのが、もしかして今日が最後と思うと、その理由にあっさりと気づいた。次の柱になれ。と言ってくれていたのだと…


マーチの四分音符を鳴らしながらそんなことを考えていた。どうしよう。やってみよう。って思った。四分音符が終わり、金管のメロディー、いつもはりっちゃんさん、あーちゃん先輩、及川さんが引っ張ってくれるこの場面、この瞬間、ここしかない。と思いながら全力を越えた。


「もっとできるでしょ。やっていいよ。ていうかやって」


何度、及川さんに言われたかわからない。できないと思っていた。でも、何故だろう。自分が主人公だと錯覚し、アドレナリンがガバガバ湧いてきていたからか、できる。と確信した。今まででもっとも楽しい本気の演奏をした気がする。


たったの数小節全力で吹いた後は、デクレッシェンドで音を弱くしていき、trioに繋げる。trioに入る前、春香が一瞬息を吸うタイミングで僕の方を見てニコッと笑った気がした。


「私のone play聴いてて。私の音を味わって、さっきのりょうちゃんすごかったよ。あと、ありがとう」


口に出して言われたわけではない。一瞬のアイコンタクトで、それは伝わった。春香にチューバパートの全てを託している間、及川さんは軽く親指と人差し指で丸の形をつくってくれていた。





ずっと、チューバ1人で吹くのは怖かった。でも、今から私はチューバ1人で吹く。周りの音とバランスを取る。優しい音で支える。それを意識する。そして、今日、初めて楽譜に目を向けた。楽譜にはいっぱいメモをした後がある。もう、見なくても吹けるが、これだけ頑張った。って自信をつけるために置いてある。あれ?


私が楽譜を見ると見慣れない文字があった。こんなの書いてない。でも、誰の文字かはわかる。りょうちゃんとまゆちゃんの文字だ。いつの間に……


「春香ちゃん、自信持って頑張れ!」


これはまゆちゃん。ありがとう。頑張る。


「今日も楽しみにしてる。最高の音、響かせて」


これはりょうちゃん。まったく…昔から私の実力を過信しすぎだよ…私はそんなに上手じゃないよ。まあ、でも、期待には応える。ありがとう。私が、1番頑張ろう。って思える言葉をくれて……


一瞬、りょうちゃんと目が合う。いろいろな言葉を、今の一瞬で伝えた。



やっぱり、春香には敵わないや…って、本気で思ってしまう。繊細で優しくて、人の心を揺さぶる音、いつか、出せるようになりたい。




手が震えている。本番、それは、私が1番苦手な舞台、でも、何故だろう。苦手なのに、楽しい。正面にいる大きな木管楽器を持った私の1番大切な人、不安だから、チラッと目を向けた。すると私の大好きな彼は大丈夫。と言うように私に目を向けた。ありがとう。これで、最後、頑張れる。何度も何度も彼と練習した。できないわけがない。マーチの最後、何度も何度も彼と練習した。大好きなこう君と何度も何度も練習をした。自信を持て、できないわけがない。私は…私とこう君ならできる。


フルートを、ファゴットが支えてくれた。何故だろう。ファゴットの音に意識を向けると自然と指が動き、失敗はしなかった。最後まで、吹き切ることができた。




楽しい時間はあっという間に終わってしまう。大学に入学し、春香と暮らし、まゆと出会い、いろいろな出会いがあり、旅行、合宿、いろいろなイベントがあり、今、課題曲が終わった。大学に入ってからの楽しい時間は本当にあっという間だった。

 

全員が全力で吹き切ったマーチ、さきちゃんは上手くできたみたいだ。


さて、まだまだ、熱量は残り続けている。課題曲で吹き飛ばせなかった。だが、本番はこれから、自由曲、「夢海の景色」この曲に、僕たちの今まで全ての物語を込めて熱量を残す。そして、この楽しい時間をもっと味わう。


指揮者が指揮棒をりっちゃんさんに向ける。りっちゃんさんはバストロンボーンを構えてうっすら笑った気がした。まるで、どうやって楽しもうかを、考えるように…


再び指揮棒が振り下ろされる。ここからはこの場にいる僕たちだけの物語…






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