第240話 物語の始まり





コンクール直前のバスの中での過ごし方は人によって違うものだ。瞑想をする人もいれば、イヤホンなどを使って今までの合奏の録音を聴いたり、周りにいる人と話したりして緊張を紛らわす人もいる。


僕の隣に座っている春香は瞑想して集中力を高めるタイプ…これは昔から変わっていない。僕は春香の横で春香の演奏の録音を聴くのが昔からの定石だ。春香に知られたらめちゃくちゃ怒られるので、春香には合奏の録音を聴いている。と昔から嘘をついている。ごめんなさい…


そして、通路を挟んで僕の隣の席に座っていたまゆはお喋りして緊張を紛らわすタイプだった。とは言え、集中している僕と春香の邪魔をするわけでなく、まゆの隣に座っているみはね先輩とお喋りして僕と春香をそっとしておいてくれるところはすごく優しいし、とてもありがたい。


そんな感じで、バスの中では各々で過ごして、バスから降りてコンクールの会場に到着する。コンクール会場に到着してすぐに楽器の積み下ろしを行い、控え室で各々が音出しをする。


「りょうくん、ほら、ネクタイ貸して」

「あ、うん。お願いします」


音出しを終え、リハーサル室に移動する前にゆいちゃんが僕に言うので、僕は蝶ネクタイをゆいちゃんに渡す。春香とまゆの目線がめちゃくちゃ怖いのは言うまでもないので、コンクールが終わったら春香とまゆの望みを叶えてあげないと…


と僕が思っている間に、ゆいちゃんは慣れない手つきで蝶ネクタイを付けてくれた。


「あれれ〜りょうちゃん、もしかして浮気?浮気現場抑えちゃった?」


ゆいちゃんが僕に蝶ネクタイを付けてくれているところを写真で納めたりっちゃんさんがニヤニヤしながら言う。


「ちゃんと、公認もらってます」

「そっかそっか、それならよかった。2人から殺意感じるからちゃんとフォローしてあげなよ」

「はい」


冗談みたいな感じでりっちゃんさんは言うが、春香とまゆから本気の殺意は感じていたのでちょっと震えた。


「ゆいちゃん、ありがとう」

「これくらい、いつでもしてあげる。頑張ろうね」

「うん。頑張ろう」


ゆいちゃんが笑顔で拳を出してきたので、僕はゆいちゃんの拳に自分の拳をぶつける。


そして、リハーサル室に移動して基礎合奏を行うとあっという間に本番の時間が迫ってきた。




「りょうちゃん、春香ちゃん、集合」


舞台裏に案内されて本番の順番を待つ時、小声でまゆが僕と春香を呼んだ。


「どうしたの?」

「緊張する…」


まゆはそう言いながら僕にもたれてきた。「こうしてたら落ち着くから、しばらくこうさせて…」と、言いながら、それを聞いた春香もまゆと同じようなことをしてくる。僕は春香とまゆを受け止めて2人の頭を撫でる。今まで、何度も撫でてきた2人の頭、サラサラですごくいい匂いがして触り心地のいい髪をそっと撫でていると、僕も落ち着ける気がした。


「頑張ろうね」

「「うん」」



「春香のこと、頼りにしてる。春香が今まで一生懸命頑張って来たのは知ってる。自信を持ってね。春香の演奏、楽しみにしてるからね」

「ありがとう。私も、りょうちゃんのこと頼りにしてるよ。一緒に頑張ろう」

「うん」


僕は春香をぎゅっと抱きしめる。


「まゆ、まゆのソロ、楽しみにしてるよ。まゆの音はすごくいい音だからさ、まゆの音、ホール中に鳴り響かせてね」

「うん。ありがとう。まゆも、りょうちゃんの演奏楽しみにしてる。まゆのソロ、しっかり支えてね」

「うん」


今度はまゆをぎゅっと抱きしめる。


そして3人で手のひらを重ねる。緊張は解けた。あとは、精一杯出し切るだけ。今までの努力を、想いを、全てを…




僕たちの1つ前の大学の演奏が終わり、いよいよ僕たちの番…係の人に案内されて、舞台に向かう。舞台裏から舞台に入ると、眩しすぎるくらいの照明が僕たちを包み込む。


涼しい舞台裏と相反して、舞台上はすごく熱かった。ライトに照らされたせいで暑くなったのではなく、熱かった。それは、僕たちの前に演奏した人たちが残した熱量、いくつもの団体が、それぞれの想いや努力の結晶を、この舞台上に残した結果が、この熱さだろう。


ものすごい量の熱量だが、負ける気がしない。今日、この日のために僕たちは頑張って来たのだから。


さあ、楽しもう。最高の瞬間を……


この薄暗いホールの中で、唯一、眩しすぎるほどの光に包まれている今、この瞬間は、


僕が、春香が、まゆが、ゆいちゃんが、りっちゃんさんが、陽菜が、さきちゃんが、こう君が、僕たちみんなが、主人公だ。


指揮者の先生が指揮棒を構えて、落ち着いた様子で舞台にいるメンバーを1人ずつ見つめる。そして、指揮棒を振り上げて、振り下ろした。


その瞬間、僕たちがこれまで紡いできた物語が舞台上で繰り広げられた。僕たち全員が主人公の、今、この瞬間にしか味わえない最初で最後の物語を……








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