第115話 飴と鞭
「ありがとう…もう大丈夫…」
「そっか、ならよかった。じゃあ、僕は練習に戻るね。もし、また辛くなったらさ…呼んでくれたら側にいるくらいならするからね…」
「うん。ありがとう」
私が大丈夫と言うまでりょうくんは黙って私の隣にいてくれた。優しい…そういうところが大好き……ありがとう。もう、大丈夫。と私が言うとりょうくんは私に優しい言葉を残して立ち上がる。
「ごめんね。やっぱり…諦められない…」
私はりょうくんに聞こえないように小さな声で呟いた。そして私も立ち上がってりょうくんと並んで歩いてホールに戻った。
「りょうちゃん、どこ行ってたのかなぁ?」
ホールに戻り舞台下手で練習しようとしたら僕のチューバの近くでチューバを吹いていた春香が楽器を置いて僕に尋ねる。かなり御立腹のようだ…時間を見ると春香とパート練習をする約束をしていた時間になっていた。
「あ…えっと…ごめんなさい……」
「りょうちゃん随分余裕なんだねぇ。さ、パート練習やろうか」
覚悟を決めねば……たぶん、きっと、いや、間違いなく。ボロクソ言われてめちゃくちゃ吹かされる……
案の定、パート練習では散々ボロクソ言われた。めちゃくちゃハードなパート練習…パート練習の前にりょうちゃんの音出しも兼ねてロングトーンやろうか。真ん中のFの音(ファの音)から半音階でオクターブ下のFまで吹いて半音階で真ん中のFまで上がってオクターブ上のFまで上がって真ん中のFに戻る形で、音と音の間4拍休みね、うーん。りょうちゃん音出ししないといけないみたいだし、テンポ50で、32拍でやろうね。(普通はテンポ60で8拍、多くても16拍だろう…テンポ60で16拍だと16秒間ずっと、音を伸ばし続けることになる。32拍でテンポ50だと……たぶん、50秒くらい吹き続けることになる……それを連続で音を変えながらやる……死ぬぞ………)
「あの…せめて16拍で……」
「ん?文句でもある?」
「ないです……」
逆らえない…怖いもん……やばい……基礎練習で死ぬ……春香は昔からキレるとこの基礎練習をやる。春香は無理矢理だが、32拍伸ばしきる。中々にやばい……僕は……途中で死ぬ……無理だよ。人間業じゃない。
問答無用で地獄のロングトーンが始まった。ロングトーンだけで1時間ぶっ通しで吹き続けていた。死ぬ…いや、唇死んだ。今日もう吹けない……
「りょうちゃん、大丈夫?」
ロングトーンを終えて息を切らしているとパート練習が休憩になり様子を見にきていたまゆ先輩が引きつった笑みを浮かべながら僕に尋ねる。
「もう…吹けない……」
僕が楽器を置いてまゆ先輩に返事をするとまゆ先輩は疲れてるりょうちゃんを癒してあげる。といい僕の頭を撫でてくれる。優しい…幸せ……
「さ、りょうちゃん、曲練習やるよ」
鬼だ……もう吹けないって言ってるのに……僕が少し休憩欲しいと目で訴えるが相手にされず、問答無用で曲練習が始まった。まゆ先輩は引きつった笑みを浮かべて頑張って…と言い残して去って行った。癒しが……
ていうか、僕と同じことをやったはずなのにけろっとしている春香の唇と体力はどうなっているのだろう…化け物ですわ……
その後、練習終わりの通し合奏まで春香の地獄のパート練習が続いた。もう無理です。合奏…吹けない。
「りょうちゃん、大丈夫?」
「もう無理吹けない…」
パート練習が終わった後、春香に尋ねられた僕が春香に答えると、それは困るなぁ…と春香は呟いて……
「これで、元気出して」
そう言い、僕とキスをした。周りに誰もいない。だから、見られてはいないはずだが、めちゃくちゃ恥ずかしい。でも、めちゃくちゃ幸せ。
「元気出た?」
「うん。唇完全に回復した」
これが飴と鞭ですか……最高ですね。うん。やばいわ……幸せすぎる。
「じゃあ、合奏がんばろ」
「うん。がんばる」
「あのさ……私も……ずっと吹いてて疲れたから……癒して欲しい」
春香はもじもじしながら、僕に近づいてキスをして、と言うように僕を抱きしめて顔を近づけた。かわいすぎるでしょ…
「わかった」
僕は、春香に返事をして春香にキスをしてあげた。春香は嬉しそうな表情でありがとう。これで合奏頑張れる。と言ってくれた。かわいいなぁ……
そんなやり取りをした後、僕と春香はチューバと楽譜、譜面台を持ってホールの舞台に向かう。舞台にはすでに結構な人が集まっていて、合奏が始まるのを待っていた。音出ししたりチューニングしたり精神統一したり、と合奏前の過ごし方は人それぞれ違う。僕は…合奏前は必ず。チューニングや音出しをする春香の音を聴いて過ごす。憧れの春香の音をイメージするために、春香の音に…春香に少しでも近づくために……
春香はこのことを知らない。照れくさいから全体に本人には言えない。言ったらたぶん、やめて。と言われるから言いたくない。
合奏前のこの時間が、僕は大好きだ。ほんとうに大好きだ。すごく心地が良い。僕は、大好きな人の、憧れの音を、ゆっくり聴いて頭にインプットする。
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