ここから動きます。



 あの電車に揺られるだけの静かなデートを終えて、俺と姉さんは日が暮れる前に家に帰って来た。そして今も、特に何をするわけでも無くソファに腰掛けて、ただ肩を寄せ合う。


「…………」


「…………」


 本当は姉さんと行きたい所が、いっぱいあった。でも今日は水族館以外、どこにも行くことができなかった。



 なのに、とても幸福だった。



 ただ黙って、肩を寄せ合う。姉さんの温かさが、ゆっくりと俺に溶け込む。そうしているだけで、幸せだった。姉さんと一緒に居ると、胸にわだかまった不安を忘れる事ができる。



 だから俺は、とても幸福だった。



 ……そして多分、姉さんも同じ気持ちなのだろう。


「……ふふっ」


 姉さんは俺の顔を見つめて、優しく微笑む。とても幸福そうで、安心しきった顔。多分きっと、俺も同じような笑顔を浮かべているのだろう。



 だから俺たちは、ずっと永遠に肩を寄せ合い続けた。





 ……かったのだけれど、流石にそういうわけにもいかない。


「姉さん」


「……なに? 真昼くん」


「いや、そろそろ夕飯を作ろうと思うんだけど、何か食べたいものある?」


「真昼くん。真昼くんが食べたい。……ふふっ。なんて、冗談だよ。そんな驚いた顔しないで」


「……いや、分かってるけど。今の姉さんがそんな冗談を言うとは思わなかったから、ちょっと驚いた」


「……そうかな? でも私だって、その……真昼くんとなら、そういうことしたいって……思うよ?」


「…………」


 俺は思わず、言葉に詰まる。……って、いやいや一体なんの話をしてるんだ。俺は確か、夕飯に何が食べたいかを尋ねた筈だろ? なのにどうしてそこから、こんな話になるんだ?


「黙り込まないでよ……。恥ずかしくなる……」


 姉さんは顔を真っ赤にして、そっぽを向いてしまう。


「いや、ごめん。でも俺は姉さんが──」


「チャーハン」


「うん?」


「チャーハン食べたいな」


 姉さんは俺から顔を背けたまま、誤魔化すようにそう告げる。……その姿を見ていると、俺は思わず笑ってしまう。


「分かった。じゃあ今から、チャーハン作るよ。……摩夜もそろそろ帰ってくるだろうし、あんまりちんたらしてられないしな」


 俺はそう言って、ゆっくりと立ち上がる。すると姉さんはなぜか、俺の足を軽く蹴飛ばす。


「いたっ。……なんで蹴るんだよ? 姉さん」


「……真昼くんがバカだから」


「バカ? なんで?」


「…………知らない。それより、私も夕飯作るの手伝うよ。だから、早く行こ?」


 姉さんはそう早口で言って、逃げるように台所に向かう。……俺はイマイチ、姉さんが何に怒っているのか理解できなかった。……けど、それでも何故か嬉しくて、俺は1人笑みを浮かべる。


「……行くか」


 そう小さく呟いて、台所に向かう。……と、その途中、ふと玄関の方から音が響いた。



 摩夜が帰って来たのかな?



 そう思って、俺は何となく玄関の方に足を向ける。わざわざ出迎える必要なんて無いのだけれど、でも今はとても幸福だったから、何となく摩夜を出迎えてやりたいと思った。



「おかえり、摩夜」



 だから俺は、笑顔でそう言葉を告げる。





 ……けれど摩夜は、まるで俺を侮蔑するように、そんな言葉を口にする。


「……わざわざ出迎えないでよ。気持ち悪い……」


「……え?」


 俺は驚きに目を見開いて、摩夜を見る。


「え、じゃなくて。邪魔」


 摩夜はそう冷たい声で言い捨てて、俺を押しのけて自分の部屋に向かう。


「いや、摩夜……何かあったのか?」


「……別に。というか、もう夕飯も済ませてきたから、わざわざ部屋に呼びに来ないでね? ……面倒だから」


 摩夜はこっちを見ないでそう言って、早足に俺の前から立ち去る。


「…………」


 摩夜は、とても冷たい目をしていた。まる少し前の……俺を目の敵にしていたあの頃の摩夜みたいな、冷たい目。



 それを思い出すと、俺は思わずその背中を追ってしまいそうなる。……でも今の俺に、その資格は無い。俺は、摩夜を選ばなかった。なのに少し辛辣な態度をとられたからって、必死になってその真偽を問いただす。それはどう考えても、最低な行為だ。



「……摩夜も、頑張ってるのかもな……」



 あの告白から、しばらくの時間が流れた。だから摩夜も、いつまでも俺に拘るのは良く無いの思って、俺から距離をとろうとしているのかもしれない。



 それなら俺が、あの背中を追う訳にはいかない。



「……戻ろう」


 俺は軽く息を吐いて、台所に向かう。俺は、姉さんを選んだ。なら俺は、その姉さんの側に居なくちゃならない。……いや俺が、姉さんの側に居たいと思ってる。



 だから俺は摩夜に背を向けて、姉さんの方へと向かう。



 ……摩夜も頑張っているんだって、そう自分に言い訳をし続けながら。



 ◇



 そしてそれから、摩夜はずっと俺に辛辣な態度をとり続けた。……いや、摩夜だけじゃ無い。桃花と天川さんも、突然、俺に辛辣な態度をとるようになった。



 まるで示し合わせたみたいに、皆んなが急に俺から距離をとる。



 昼休みに生徒会室を訪ねたら、もう来ないでくれと言われた。学校の帰りに天川さんを見かけて声をかけても、もう話しかけないでくれと言われた。



 ……ただ唯一、芽衣子だけが俺の話を聞いてくれた。……けど、芽衣子もどこか迷惑そうで、だから俺は……気がつけば1人になっていた。






「お帰り! 真昼くん」


 ……いや、俺には姉さんがいる。姉さんしか、居なくなった。でもそれだけで、十分だ。それだけで、幸福なんだ。


「……ただいま、姉さん」


 姉さんは元々、交友関係が狭い人だった。そしてその上、記憶喪失になって大学も休学している。となると姉さんは、俺なんかよりずっと1人で居る時間が長い。


 姉さんはあの日から、記憶を取り戻そうとはしなくなった。だから自然と、俺たちはずっと一緒に居るようになった。


「真昼くん。今日は、この映画を見ようよ」


「そうだな。この監督の作品は面白いの多いし、これも楽しみだな」


「うん。でも……私は真昼くんと一緒なら、どんな映画でも楽しいよ?」


「……俺もだよ、姉さん」


 部屋の電気を消して、肩を寄せ合う。そうやって2人で、ぼーっと映画を眺める。それだけの時間。


「……ふふっ」


 姉さんは時折、甘えるように俺の腕を抱きしめたり、太ももに指を這わせたりする。そして俺も、そんな姉さんを抱きしめたり……キスしたりする。



 ただ甘くて、どこか退廃的な時間。



 俺たちはそんな風に、一緒に居続けた。



「…………」



 ……けど、どうしても一線は越えられない。



 今の俺には、姉さんしか居ない。そして姉さんにも、俺しか居ない。そんな中で一線を越えてしまったら、俺たちはずっとその行為に没頭してしまうかもしれない



 それがとても、怖かった。




「真昼くん、好きだよ」


 姉さんは映画のキスシーンに被せるようにそう言って、俺の唇にキスをする。とても激しく、深いキス。映画なんて見えなくなるくらい、姉さんは激しく俺を求める。


 ……でも姉さんも、そこから先の一線を越えようとはしない。きっと姉さんも、俺と同じ事を考えているのだろう。



 だから俺たちは、ただ静かな時間を過ごし続けた。



 蕩けるように、甘えるように、依存するように、逃避するように、俺たちは互いを求め合った。



 そうして、一月近くの時間が流れて、運命は唐突に動き出す。



 ◇



 その日は、雨が降っていた。季節は夏直前のジメジメとした梅雨。毎日のように雨が降り続けるそんな時期に、摩夜が久しぶりに俺に話しかけてくれた。



「…………ねえ、お兄ちゃん。話したいことがあるから、部屋に来て」



 摩夜は俺と視線を合わせること無くそう言って、早足に自分の部屋に戻って行く。


「…………」


 ……或いはもう少し前の摩夜なら、俺も何か警戒したのかもしれない。でも今の摩夜は、俺に変な事なんてしないだろう。寧ろその逆に、彼氏でもできたと言われるのかもしれない。


「……行くか」


 俺はそんな風に、どこかズレた事を考えながら摩夜の部屋に踏み入る。


「……摩夜?」


 しかし何故か摩夜の部屋の電気は消えていて、しかもカーテンも閉めきっているから真っ暗で何も見えない。摩夜が何を思って、こんな事をしているのか分からない。だから俺は、ただ摩夜の名前を呼ぶ。


「摩夜。……どうか、したのか?」


「……お兄ちゃん」


 ガチャンと、背後から扉に鍵が掛かる音が聴こえる。すると部屋が完全に真っ暗になって、何も見えなくなってしまう。


「おい、摩夜。これ……何がしたい──」


 唐突に、耳が痛んだ。昔、摩夜がつけた傷。その傷はもうとっくに治っている筈なのに、今頃になってズキズキと痛みがぶり返す。


 だから俺は無意識に、耳を抑える。



 ……しかしまるでそれを遮るように、耳元で声が聴こえた。



「…………お兄ちゃん。大切な話があるんだけど、いい?」



 摩夜はただ、艶っぽい声でそんな言葉をこぼした。



 俺の心臓は、まるで逃げろというようにドクドクと早鐘を打つ。











 だからだろうか? その声が、俺の耳に届かなかったのは……。






「真昼くん? 摩夜ちゃん? なに……してるの?」



 部屋の外で、困惑するような姉さんの声が響く。でもその声は、俺の耳には届かなかった。



 そうしてここから、物語は加速する。


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