まだ届きません。



 部屋に戻って、雨に濡れた髪の毛をタオルで拭く。……シャワーでも浴びようかと思っていたけど、そこまで濡れた訳じゃなかったからタオルで拭くだけで充分、髪は乾いた。


「…………」


 軽く息を吐いて、唇に指を当てる。まだそこに、天川さんの唇の感触が残っている。あの濡れた冷たい唇の感触が、どうしても消えてくれない。


「ちゃんと、考えないとな……。姉さんのことだけじゃなくて、他の皆んなのことも。姉さんの記憶が戻った時にちゃんと笑っていられるよう、俺が頑張らないと」


 そう独りごちて、部屋を出る。今日は、姉さんが夕飯を作ってくれると言っていた。だから、その手伝いでもしようか。そんなことを考えながら階段を降りるけど、台所に姉さんの姿は無かった。


「……まだ、部屋にいるのかな……」


 まだ時間も早いし、部屋で休んでいるのかもしれない。そう考えて自分の部屋に引き返そうとする……けど、まるでそれを止めるように、背後から声が響く。


「お兄ちゃん。晩御飯作るの? じゃあ私も、手伝うね? 久しぶりに、2人で一緒にご飯作ろ?」


 エプロンを身につけた摩夜が、俺に視線を向けてニコリと笑う。


「……気持ちは嬉しいけど、でも今日は姉さんが作ってくれるって言ってたんだよ。だから俺は、その手伝いをしようと思ってるんだ」


「…………へぇ。あの人、お兄ちゃんのことは忘れてるのに、料理の作り方は覚えてるんだね。……なんか気に食わないよね、それ。まるでお兄ちゃんのことなんてどうでもいいって言ってるみたいで、どうしても……気に食わないよ……」


「……それは、仕方ないことなんだよ。記憶喪失っていうのは、そういうものらしいから……」


「それでも私は、絶対に忘れないよ。たとえ他の全てを忘れたとしても、お兄ちゃんのことだけは絶対に忘れない。私の愛情は、姉さんみたいに半端なものじゃ無いから」


 摩夜は真っ直ぐに、俺を見る。俺は……俺はその瞳にさっきの天川さんの姿を重ねてしまって、思わず一歩後ずさる。


「……まあ、とりあえず姉さんを呼んでくるよ。今日は久しぶりに、3人で料理しようぜ?」


 俺はそう言って、逃げるように摩夜に背を向ける。




 ……けど摩夜は、そう簡単に離してくれない。





「……お兄ちゃん。行かないで……」



 摩夜はそう言って、背後から俺を抱きしめる。まるで溶け込むように、優しく柔らかな感触が、俺の背中に押し付けられる。


「摩夜。……俺は摩夜を選ばなかった。だから、ダメだよ。こういうことをしちゃ……」


 俺はできるだけ優しく、摩夜の手を振りほどく。……けど摩夜は強く強く腕に力を込めているから、振りほどくことができない。


「……最近のお兄ちゃんは本当に辛そうで、見てられないよ。……姉さんのことが、心配なの? それとも、忘れられたのが悲しいの? ……どっちにしろ、無茶しちゃダメだよ ……。辛い時くらい、私に甘えて欲しい……」


 摩夜の吐息が耳にかかる。そこは、前のデートの時に摩夜が傷をつけた場所。その傷は、最近になってようやく塞がった。でも摩夜はそれが気に食わないと言うように、そこにまた傷を付ける。



 ずきりと、耳が痛む。



「……摩夜、ダメだ。ダメなんだよ、そんなことをしちゃ」


 俺は語気を強めてそう言って、摩夜の腕を無理やり振り払う。


「側に居るからね、お兄ちゃん。私はいつだって、お兄ちゃんの側に居る。だから……本当に辛くなったら、私のところに来てね? 私はどんなお兄ちゃんだって、ちゃんと受け入れるから……」


 摩夜は艶めかしい声でそう告げで、こちらを誘うように自分の唇を舌でなぞる。その姿を見ていると、ズキズキと耳が痛む。


「……姉さんを、呼んでくるよ」


 俺はもう一度そう言って、今度こそ摩夜に背を向ける。……摩夜はそれ以上、俺を引き止めることはしなかった。


 ただ静かな笑い声が、背後から響き続けた。



 ◇



 大きく息を吐いて、思考を切り替える。そして軽く拳を握って、姉さんの部屋の扉をノックする。……しかしいくら待っても、返事が返ってくる気配は無い。


「……姉さん。入るよ?」


 なので俺はそう告げで、姉さんの部屋に踏み入る。


「…………なんだ。寝てるのか、姉さん」


 姉さんはベッドの上で、小さく丸まって寝息を立てている。


「……なら、夕飯は俺と摩夜とで作るか」


 俺は起こしちゃ悪いと思って、そのまま部屋を立ち去ろうとする。けど、この時期は夕方になると冷える。だから一応、布団をかけておいた方がいいだろう。



 そう思って、姉さんに布団をかけてやる。


「…………」


 姉さんは変わらず、寝息を立てている。……けど、その表情はとても苦しそうだ。まるで凄く辛い悪夢でも見ているようで、思わず俺の手は姉さんの頬に伸びてしまう。




「……姉さん」



 俺の手が、姉さんの頬に触れる。……その直後、姉さんが目が開いた。


「…………」


「…………」


「……おはよう、真昼くん」


「…………ああ、おはよう。姉さん」


 俺は少し気まずく思いながら、姉さんから手を離す。けど姉さんは特に気にした風もなく、言葉を続ける。


「真昼くん。今さ、寝てる私に触れてた?」


「うん、ごめん。ちょっと、夢見が悪そうだったから、思わず手が伸びちゃった……」


「……そうなんだ」


 姉さんは何かを確かめる様に、自分の頬に手を当てる。……ドキドキと、なぜか俺の心臓が早鐘を打つ。


「私ね……今、真昼くんの夢を見てたの。2人で一緒に出かけて、そして……その…………エッチなこととかする夢……」


「…………そう、なんだ」


 その言葉は、少しショックだった。だって姉さんは俺の夢を見て、あんな辛そうな顔をしてたんだ。



 ……もしかして姉さんは、本当は俺のことが……。



「あ、違うよ? それがその……嫌だったとかじゃなくてね。なんていうか……その、凄く納得しちゃったの。まだ何も思い出せて無いのに、まるで全部解決したみたいに、凄く心地よかったの。……でもだからこそ、寂しくなっちゃった……。これが夢だって、気がついちゃったから」


「…………」


「あ、ごめんね。変なこと言っちゃって。その……私、まだ寝ぼけてるみたいだね。私たちは家族なのに、そんなの……変だよね?」


「姉さん。俺は……」


 俺はもう一度、姉さんに手を伸ばす。姉さんはそれを……拒絶しない。


「……真昼くんの手、温かいね」


「姉さんの頬も、温かいよ」


 姉さんは俺の手に、自分の掌を重ねる。姉さんの頬の上で、俺たちは優しく繋がる。


「……変だよ、やっぱり。おかしいことだって分かってるのに、こうしてると凄く落ち着く。ずっとこうしていたいって、そう思っちゃうくらい……」


「…………」


「……ねぇ、真昼くん。私たちって、もしかして──」






「お兄ちゃん! 遅いから様子を見に来たよ!」



 そこで、唐突に摩夜の声が響く。姉さんはその声を聞いて、まるで俺が触れていたのを隠すように、勢いよく俺の手を振り払う。


「あ、そうだ! 今日は私がお夕飯を作るって言ってたんだ。……ごめんね。真昼くん、摩夜ちゃん。今からちゃんと、作るから」


 姉さんは顔を真っ赤にして、そのまま部屋から出て行ってしまう。


「……あの女、発情した顔してた。忘れたとか言ってたくせに、お兄ちゃんの顔がいいからってすぐに尻尾を振る。……気持ち悪い。最低だよ、あの女は……」


 摩夜はそんな姉さんの後ろ姿を、心底から見下すような目で見つめる。


「……俺たちも行こうか? 摩夜」


「うん。でも、お兄ちゃん……」


「なんだ?」


「私は待ってるからね? ……お兄ちゃんもすぐに、あの女の本性に気がつくと思う。そしたらその時は、遠慮なんかしないで……いつでも私のところに来ていいからね」


 摩夜はそう最後に可愛らしい笑顔を浮かべて、早足に部屋から立ち去る。俺は何の言葉も返せず、ただその後ろ姿を見送った。


「…………まだまだ、時間がかかりそうだな」


 軽く息を吐いて、2人の背中を追う。……その間ずっと、耳の傷がズキズキと痛み続けた。


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