小さな衝動【短編】
疑わしいホッキョクギツネ
小さな衝動【短編】
なんとなく。本当になんとなく。いつもとは反対方向の電車に乗ってしまった。寒い朝だ。
会社に出勤したくなかったわけではない。いや、会社には毎日のように出勤したくないと思っているのだが、いつもならば思っているだけでしっかりと電車に乗って出勤する。
毎朝並んでいるのとは反対側のホームに電車が到着したのを確認したときに、僕は本来の電車待ちの列を離れて、反対側の電車に乗った。
理由はいろいろあるのだと思う。寒かったとか。髪型がいまいち決まっていないとか。衝動的に反対方面の電車に乗ることに憧れていたとか。しかしどの理由もしっくりこない。けれど間違ってはいないと思う。
車内は空いていた。いつもの東京方面の電車は東京まで急行で50分かかる。その50分間ずっと満員である。しかし反対方面の電車内の人はまばらで、座席にも余裕をもって座ることができる。座席が空いているのをいいことに、ビジネス鞄を座席の横に雑に置く。
どうしようか。まだ、途中駅で引き返せば会社の始業時間には間に合う。
どうでもよくなってきた。今日、僕が一人欠勤したところで大した影響はない。そうだ、僕が毎日働かないといけない理由なんてないのだ。
少し胃の調子が悪い。朝食は摂っていないはずなのに。
スマホを開き、時間を確認する。6時50分。まだ誰も出勤していないだろう。始業時刻の9時前ぐらいに電話で欠勤の連絡をしよう。風邪でもひいたことにすればいい。それよりも、眠い。
僕は、瞼を、強く閉じた。じーっと目がほぐれていく。指先で閉じた瞼に触れると、冷たかった。電車内はいつも乗っている電車よりも寒かった。
眠っていたようだ。口の中が粘ついている。舌で歯についている粘つきを丹念にこそげ落とす。
喉が渇いていたが、飲みものを持っていない。口を数回すぼめて、唾液を口中に集める。一気に飲み下す。常温の唾液が喉を通って胃にむかっていくのを感じることができるが、その先のことは分からない。
スマホで時間を確認すると8時を少し過ぎたところである。もう引き返しても始業時刻には間にあわない。間にあわないことがわかると、開き直ることができた。僕が一人欠勤しても影響はないなどと考えていたことを情けなく思ってきた。本当はそれでも不安だったのだ。僕が欠勤したことによって誰かに迷惑がかかってしまうことがあるかもしれない。しかし時間的に引き返しても間にあわないことがわかると、どうでもよくなってくる。
辺りを見まわすと、あいかわらず人はまばらで、スーツを着ているのは僕だけである。あとは中年の女性ばかりが目を閉じて座っている。学生風の男が上を向いて、大口を開けて、眠っている。
窓外には高い建物などは一切建っておらず、田舎の様相を呈してきた。その景色に感傷に浸りたい気分ではあるが、うまくいかない。
僕はいったいなにをしているのだろう。
反対方面の電車に乗ったときは、不安があった。しかしその不安を認めようとしない自分がいた。なにに対して見栄を張っているのだろうか。僕にはそういうところがある。僕の心は僕だけしか見ることができない。それでも僕は僕の心を客観的に見てしまい、自分の心に対して、自分に見栄を張る。自分に格好悪いやつだと思われたくないのかもしれない。
溜息をつく。ああ、情けない。そんなことを自覚したところで、なにも変わらない。
ただ自覚しただけだ。それで満足だ。
僕は本当に自分が大好きなんだ。満員電車で僕の前に立っている高齢者がいたとして、僕は席を譲ることがどうしてもできない。断られて自分の心が傷つくのが怖い。『よかったらお席どうですか』なんて大勢が見ている中でなんて言えない。席を譲るだけなのに、僕は善人ですよ、とアピールしているようで恥ずかしい。それから例えば僕の隣に座っている人からしたら、僕が席を譲ったことによって、その隣の人は席を譲らなかった人になってしまう。よけいなことをするんじゃあない、と思われてしまうのではないだろうか。
そんなことを気にする必要がないのは重々承知しているのだが、気になってしまうのだから、しようがない。
僕は思考のなかで何回『僕』というのだろう。そんなところに自己愛の強さが隠されているのではないか。
僕は僕のなかから僕を消してしまいたい。
物思いに耽っていると、電車のアナウンスで終点の駅についたことがわかった。海が近い。
ゆっくりと席を立ち、ホームに出る。日差しが強く、コートを着ていると少し暑い。
改札を出るとロータリーの奥には土産物屋が軒を連ねていた。土産物屋を横目で冷やかしながら、自動販売機で水を買った。5分ほど歩けば海に出られるらしい。そんなに期待はしていないが、遠くまできたら海だろうと納得して海岸までの道を歩く。
ふいに、駅前にマクドナルドがあったことを思いだしたら、無性にハンバーガーが食べたくなってきた。
一度、来た道を戻り、駅前のマクドナルドに入る。ビックマックを食べたかったが、まだ時間が9時半過ぎだったので、朝マックのセットをテイクアウトした。
会社に連絡しなくてはいけないと思いたるが、静かな場所が見当たらない。まあ、あとでも大丈夫だろう。
右手にマクドナルドの袋を下げて、海にむかう。
不安はなく、わくわくしている。
僕はそんな自分が大好きだ。
小さな衝動【短編】 疑わしいホッキョクギツネ @utagawasiihokkyokugitune
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