第7話 初指名
初指名
本の形をした瀬戸物のボトルに、ナポレオンを連想する小さな帽子の栓が付いている。
泉ママがその帽子を勢いよく引っ張ると、コルクによって密閉されていたボトルの中の空気が引き出され「ポンッ」と言う小気味良い音が耳に届いた。
泉ママは横に寝かせたブランデーグラスの中にウォッカをほんの少しだけ注ぎ入れ、慣れた手つきでそのグラスの中に火をつける。
蒼白い炎が立ち上がった…。
その炎に照らされ、暗い照明のお店の中で泉ママの姿が浮かんだ。
神々しい者を見つめる信者の様に、私は溜め息を吐き出したい気持ちを堪えながら、ただ泉ママの一挙手一投足に見惚れていた。
グラスの中の炎はすぐに消え、寝かせたままのブランデーグラスに泉ママが本の形をしたボトルからブランデーを注いだ。
「ブランデーはね、香りを楽しむお酒なの…温めたグラスを掌で包み込んで、立ち上がる甘い香りと一緒に飲むのよ」
見習い実習生の私に泉ママが説明をしてくれた。
「素敵です…」
「あはは、これはいい」
間の抜けた私の返事にその席の主賓である、仕立ての良いスーツを着た年配の紳士が笑った。
私は笑われた事が恥ずかしくて、下を向いて赤い舌を出した。
「美和、はしたないわよ」
直ぐに泉ママの叱責が飛んだ。
「何も叱る事はないさ…ママのやる事はなんでもカッコよく見える…そうだろ?」
その紳士が優しく私に言った。
「はい!」
声を張り上げ私は言った。
「まったくアーさんは若い子に甘いんだから」
泉ママが芝居っ気の効いた拗ねた声で言った。
「美和ちゃん、今ママがやって見せたのはあんたへの教育だ。ママの姿に見惚れるのも良いけど、何をやったかをちゃんと覚えておきなさい」
アーさんと呼ばれた紳士が私に言った。
「次に私が来た時はあんたにやってもらうよ」
「あら、アーさんまた粋なことを言っちゃって…本当に人気取りなんだから、悔しいわ」
私は泉ママとアーさんと呼ばれた紳士の会話の意味がつかめず、呆気にとられた様にポカンと口を開けて二人を見つめた。
「本当にこの子は…次にアーさんが来た時は美和を指名するって約束してくれたのよ」
泉ママに言われ、私は「なるほど…」とようやく合点がいった。
このお店「will」で働く様になり、泉ママや太月姐さんのヘルプでお客さんの席に着く様になってから「今度からはお前を指名してやるから、今日はアフターを付き合え」と露骨に誘うお客さんは居たが、指名と言う言葉を使わず次の約束をしてくれたお客様は初めてのことだった。
そして私は…この店に勤める様になって、まだ指名を受けての接客をした事がなかった。
「美和の初めての指名のお客さんはアーさんかしらね」
いつもの様に「うふっ」と言う声が漏れ聞こえそうな口調で泉ママが言う。
「なんだ、まだ指名を受けた事がないのか」
アーさんが言った。
「場内指名は有りますけど…」
私は口ごもった。
「よし、取り敢えず今日は場内指名にして明日は本指名で来てあげよう」
「あらっ、お優しいこと…二日も続けてお出ましなんてアーさんにしてはお珍しい。よっぽど美和がお気に入りなのね」
「初めての本指名と聞いちゃ放っとけないだろ」
アーさんはそう言って豪快に笑った。
「ところで…何か面白い情報は無いのか?」
アーさんが話を切り替えた。
「まぁ、そんな直球を…今どきプロ野球の選手だって投げませんよ」
アーさんと泉ママの会話がまた見えなくなった。
「なんだ、また自分だけ美味しい思いしてるんじゃ無いのか」
「新人の女の子の前でする話じゃ有りませんよ」
泉ママがやんわりとかわす。
「新人の前だからなおさらさ」
アーさんが太巻きの葉巻で私を指差しながら言った。
「いいかいおねえちゃん…」
「美和よ」
泉ママのツッコミに再びアーさんが豪快に笑う。
「美和ちゃんよ、株を動かすには飲み屋のママの情報が一番なんだよ。金回りの良い客がどこの社員か…酔った勢いで漏らした会社の内部情報…そんなのが時々ホームランを打つんだ。酔客の話は聞き流すフリをしながらちゃんと覚えておくんだよ」
アーさんに言われ私は「はい」と返事をしたが、今の私にはとてもお客さんの会話を横耳で聞きながら、覚えていられる余裕など無かった。
「美和さん」
アーさんとの会話が途切れた時、突然マネージャーに名前を呼ばれた。
「ご指名です」
振り向いた私に、マネージャーがにこやかに言った。
「あらぁ、アーさん大役を逃したわね」
間髪入れず泉ママがアーさんを茶化す。
横を向き葉巻の煙を大量に吐き出し、アーさんはわざとらしい拗ねた顔を作った。
途端に私は居住まいが悪くなり、アーさんに深々と頭を下げた。
「行っておいで、明日は美和の為にカミュのブックを入れてやる」
「やきもちですか?明日の支払いは十万円は超えますよ」
泉ママの言葉にアーさんがまた豪快に笑った。
私はアーさんにもう一度頭を下げ、マネージャーの後について行った。
「ようっ」
マネージャーに案内されたその席に、優しい笑顔で座っていたのは今一番会いたい人…龍也だった。
「来てくれたんですか」
私は頬をあからめまるで
「まあな、親分も今日は早く帰ったからよ」
龍也もどこかぎこちない。
「昨日はご馳走様でした」
ありきたりな挨拶…。
「昨日って今朝じゃねぇかよ」
「ホント…」
そう言って初めて二人で笑った。
嬉しかった…今の二人の関係が、ニューハーフとヤクザの友情に過ぎないとしても、こうして冗談を言い合い隣にいられる事が、何より幸せだと感じる事ができた。
「いつもので良いですか?」
フレッシュライムを絞ったスミノフのvodkaリッキー…龍也の好みをちゃんと記憶していることを、私はアピールしたかった。
「わかってるねぇ、面倒だからボトルごと持ってこれないのか」
龍也がくだけた口調で言った。
10年の年月が…まるでなかったかの様に私たちは遠慮と言う言葉を片隅に押しやった。
「聞いてくる」
私の答えに龍也が満足そうに頷いた。
「あのね、新品は無いの…口を切ったやつでも良い?」
席に戻り、私はマネージャーに言われた通りを伝えた。
「中身が変わるわけじゃなし、なんだって良いよ」
龍也も如才がない。
「それでね、龍也さんはこの店では飲み放題だからなんでも好きなお酒を頼んで良いって」
「なんだそれ」
「ママから言われてるからって」
「ママから?」
龍也の返答に私は泉ママの居る方を指さした。
龍也がその指の先に視線を向けた。
泉ママがこちらを見て笑いながら手を振っている。
「参ったな…」
そう呟きながら龍也は泉ママに頭を下げた。
直ぐにスミノフと炭酸、それにカットライムがテーブルに並んだ。
私はvodkaリッキーを作り、龍也の前に置いた。
「お前もなんか飲めよ、乾杯も出来ないじゃないか」
龍也はvodkaリッキーには口を付けず、私にお酒を勧めた。
「同じものを」
龍也が好きなお酒を、私も飲んでみたいと思った。
「それじゃドリンクバックもないだろ」
「そんなの要らないもん」
「それじゃあ俺が指名で来る意味が無いじゃんかよ」
「ママの席にいるお客さんが、明日高いお酒入れてくれるって」
私はそう言って赤い舌を出して見せた。
『美和、はしたないわよ』
先程、泉ママから受けた叱責を思い出し、私は急いでその舌を引っ込めた。
「昨日はゆっくり話も出来なかったからよ」
「うん」
私は自分の分のvodkaリッキーを作り終え、そのグラスを龍也の前に差し出し「カンパイ」と甘えた声で言った。
龍也がそのグラスに自分のグラスをぶつける。
カチリと小さな音が鳴った。
初めてのvodkaリッキーは、甘酸っぱい爽やかな味がした。
「美味しい…」
それが素直な感想だ。
「飲み過ぎるなよ、強い酒だからな」
龍也の優しい声。
うるさいほどのBGM…そんな音さえも邪魔にはならない…息がかかるほどの距離で話す龍也の声…ただそれだけが心地よかった。
「それにしても泉ママはすげぇな…今朝はあれだけ酔い潰れてたのにあの爽やかさは何だよ」
龍也の言うのはよく分かる。
ママに比べればふた周りは歳の若い私でさえようやく起きて出勤したと言うのに、いったい何時に起きて身支度をしたのかと思えるほど一分の隙もなく結い上げられた日本髪、四角をきっちり摘んでたたんだ様に着られた和服、そのままステージに上がれそうな完璧なメイク…どれをとっても、到底私など足元にも及ばない仕上がりだ。
朝まで飲み続け、酔い潰れて寝てしまったことなど微塵も感じさせない。
ただ…。
「もっと凄い人が…」
私はそう言って太月姐さんの居るボックスを指さした。
「飲み方が足りないって言ってんだよ!ほらっ、飲め!」
太月姐さんがボックスにいる若い常連客の襟首を引き寄せ、口の中にビール瓶を押し込み無理やり飲ませている。
やられている客は、それはまた嬉しそうに涙を浮かべながら窒息しない様に必死にビールを飲み込んでいた。
太月姐さんを指名するお客さんは、虐められることが楽しい人が多い。
それだけに…絶対的人気と絶対的嫌悪感の両極端を人に与えてしまう。
龍也は太月姐さんをどう思っているのだろう…。
昨夜は一触即発の場面もあったが、それ以降は仲良く話している様にも見えた。
「ありゃ、やっぱ化け物だな」
龍也が呆気にとられた様に呟いた。
「誰が化け物だって?」
龍也の肩を抱き込む様に、背後から忍び寄ってきた泉ママがドスの効いた男の声で言った。
驚いた顔で龍也が振り向く。
その横顔に泉ママがキスをした。
龍也の頬にキスマークが残った。
「んなっ」
言葉にならない声を龍也が発した。
「よく来たわ龍ちゃん、一人で来れたのね」
頭を撫でられ、まるで子供扱いの龍也…。
私はおかしくて仕方が無かった。
「かんべんしてください…一応自分も新宿の相沢ですから」
ささやかな龍也の抵抗。
「龍ちゃん、実家に帰って来て虚勢なんて許しませんよ。太月ちゃんに告げ口して来ます。口紅は美和に取ってもらいなさい」
そう言って席を立つ泉ママ。
「ちょっ、まっ!姐さん!」
あわてる龍也。
「ママです!」
背中だけ振り返り泉ママは捨て台詞を吐いた。
「あちゃー」
龍也は両手を頭に乗せ、感嘆の声を上げた。
宣言通り泉ママが太月姐さんの席へ行き、耳元で何かを囁いている。
ものすごい勢いで太月姐さんがこちらへ振り向いた。
そしてどぎついメイクをくちゃくちゃに歪ませ、上機嫌でこちらの席へ向かって来る。
ドスドスという音が聞こえそうだ。
「龍ちゃんいらっしゃぁい」
太月姐さんが龍也に抱きつき、ママがつけたキスマークとは反対の頬へさらに大きなキスマークをつけた。
『来るんじゃ無かった…』おそらく、龍也はそう思っているはずだ。
「オジキ、ご苦労様です」
そう言って深々と頭を下げたのは、龍也のささやかな抵抗だったのかも知れない。
「何がオジキよ、お姉さまとお呼びなさい」
太月姐さんの目がつり上がった。
「先代の直参ですからオジキと呼ばせてください」
龍也が尚も食い下がる。
「ぶっ飛ばすわよ」
言った太月姐さんも目が笑っていた。
「さすがにお姉さまは…身内の呼び方ですから」
龍也もこの場の会話を楽しんでいる様だ。
「そうね、じゃあアンジーで手を打つわ」
太月姐さんが妥協点を切り出した。
「オバサン」
私は小声で呟いた。
「いちいち日本語にするんじゃないわよ」
太月姐さんの叱責に首をすくめながら、私は龍也の為にクレンジングクリームを取りに行くタイミングを探していた。
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