たそがれ晩夏

もけ太郎

第1話


木々の枝がこすれる音がさながらさざなみのように窓の外でざわめいている。

橙色の夕焼けの中、秋虫の物悲しい合唱を運ぶ涼しい風が頬を撫ぜた。

「これで法的には八百静香は死人になったわけや」

「残念、けっこう気に入ってた名前なんだけどな」

八百静香と呼ばれた少女は平然として自分の名が書かれた死亡診断書に老医師の署名がなされる様子を見つめていた。

老医師は書面に目を落としたまま少女に尋ねる。

「次はどうするんや」

「名前のこと?りゅう君が決めていいよ」

りゅう君、という名前を耳にした老医師は顔を上げて眉間にしわを寄せた。

「俺には柳田いう立派な苗字があるねん」

「昔からりゅう君はりゅう君じゃない、やなぎは音読みしたらりゅうでしょ」

「そういう話と違う」

「ああそうそう、私の名前ね」

椅子を左右に揺らして楽しげに笑う少女の顔を見て柳田医師は一瞬真剣な表情をしたあと、ぽつりとつぶやいた。

「絶対なし」


「りゅう君がやってくれるのもこれで最後かな」

どこか遠いところを見つめながら、誰に言うでもなく少女が独りごちた。

柳田医師の手がふと止まる。

「思い返せば長いねえ、私たちも」

「ずいぶんへんてこな女に捕まったもんや」

「そのわりにはだいぶ協力的じゃん」

「逆らったら何されるかわからん」

「酷いなあ、妖怪かなにかだと思ってるでしょ」

「妖怪そのものやろ」

からからと白い歯を見せて笑う少女とは対照的に柳田医師の表情は暗かった。

少女が椅子から身を乗り出して顔を覗き込む。

「なになに?もしかして心配してくれてる?」

「やかましいわ」

「じゃあなにさ」

「誰がお前の諸々を引き継ぐんか考えとったんや」

「お友達にいっぱいいるんじゃないの?そういう人」

「お前を好事家に売らんと断言できるほど信頼できる奴はおらん」

「ほほう、さすがは私が一から育てた世話人」

誇らしげに胸を張る少女を柳田医師は苦々しい顔で見つめる。

「一から十まで計算づくの魔女め」

「なにを、学校に行けたのも医者先生になれたのも私のおかげでしょうが」

「そこいらの餓鬼捕まえて勉強教えたろういうのも自分が生きてくためだったんやろ」

「いつの間にそんなこと言うようになって、子供のころはあんなにかわいかったのに」

わざとらしく嘘泣きする少女に向き直った柳田医師は古ぼけた眼鏡を外すと、ぽつりぽつりと真剣な目つきで語りはじめた。


「でもな、拾ってくれてほんまに感謝しとる」

「戦争でみんな焼けて、親兄弟もどっか行って……あのままやったら飢え死にしとったかもしれん」

「十年経っても老けんのはおかしい思うたけど、恩人にそんなこと言うのも悪いから言わんかった」

長く空から地を焼いていた太陽はいよいよ山の背中に隠れ、夕闇が迫ってきていた。

部屋の隅々にまで入り込んだ影が二人の姿を黒く包んでいく。

柳田医師の途切れ途切れの言葉を少女はうつむいたまま受け止めている。

「医者になってから打ち明けられたときはほんまに驚いたけどな」

「不老不死が実在して、しかも医者の勉強教えてくれた女の人がそうやなんて言われても想像つかへん」

「おとぎ話の中だけの生き物だと思ってたから?」

「いいや、老いず死なずなんやったら人と関わらず山籠りでもして暮らすもんやと思ってたからや」

「聞きたいねんけど、どうして人の世で、社会で生きようと思ったんや?わざわざ定期的に死んだことにして戸籍を作り直してまで」


長い沈黙。

木々のさざめきは少しずつ大きくなり、目を閉じれば浜辺にいるような錯覚さえ覚えるほどに達していた。

「寂しいからだよ」

「いつ生まれて初めはどこの誰だったかは覚えてないけど、でもそのときから周りには人がいたんだ」

「前の名前のときも、二つ前の名前のときも、もっと前にも普通の人間として接してくれる人がいた」

「でも私の秘密を知ってからも普段通り接してくれる人はいなかった、あんまりね」

「酷い目に遭わされたことだって何回もあったよ」

「ほんとに山籠りでもしてやろうかって思ったこともあるけど、結局は寂しくて里や街に降りてきちゃうんだ」

数百年、数千年分の孤独がとめどなく吐き出される間、柳田医師は顔を伏せただ聞き入っていた。

「いっそ心まで妖怪ならどんなによかっただろうって、そう思ってたときにりゅう君を見つけたんだ」

「もしかしたら最初は子育ての真似事がしたかっただけだったかもしれないけど、りゅう君は私の秘密を知っても変わらず接してくれた」

「いくら命を救った恩があるとはいえ、ここまで親切にしてくれるのはりゅう君が優しい人だからだよ」

「普通の女の子じゃないから今まで内緒にしてたんだけど、私りゅう君のこと好きだったんだ」

はっとした様子で柳田医師が顔を上げる。

「今までで四番目ぐらいにね」

虚をつかれて全身の動きを止めた老医師の姿を見た瞬間、少女は無邪気な笑みを浮かべた。

「ひっかかった」

「やっぱり何考えとるかわからん」

「当たり前だよ、理解したかったらあと何百年か長生きしなきゃ」

白い歯を見せてにんまりと笑っている少女から目を逸らした柳田医師はきまりの悪そうな顔をしていた。

「次の名前、決まったんか」

「とっくに決まってるよ、りゅうこ!柳の子で柳子りゅうこ……いい名前でしょ」

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たそがれ晩夏 もけ太郎 @moke_taro

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