ルナの住む森
すえのは
プロローグ 月降る夜の王邸
ヴァジエーニ王と影
王の寝室のバルコニーに、聖獣グリフォンが降り立った。体は大きく筋肉質で刃物のような硬い鱗に覆われており、力強い翼を大きく広げて月光を浴びている。翼の先端が微かに金色に染まっているのは、月の光のせいなのか、それとも、この聖獣と運命を共にするヴァジエーニ王の儚さのせいなのか、誰にも分からない。
部屋の中で椅子に座っていたヴァジエーニ王はグリフォンの姿を認めて立ち上がり、バルコニーへの硝子扉を開けた。グリフォンは鼻筋を撫でてもらいたい一心で王の方へ首を伸ばす。それに応えてヴァジエーニ王は鼻筋を撫でる。グリフォンが何を訴えているのかはすぐに分かった。
「散歩に行きたいのだね。いいよ。行っておいで。気を付けるんだよ」
こんなに月の綺麗な夜、聖獣の散歩を禁じるのは野暮である。
グリフォンは翼をはためかせ、夜空へ飛んでいった。
――私も聖獣に生まれていたならあんなふうに自由に飛んで月夜の散歩を楽しんでいたかもしれない。
ヴァジエーニ王はグリフォンを見送ると痩せた体を引き摺って部屋へ戻り、再び椅子に座り込んだ。立ち上がる力も歩く力も弱まっている。
「陛下」
と、セレティ妃が薬瓶と水瓶を乗せた盆を抱えて王の背中に呼び掛けた。首を反らして妻を見る。
「セレティ、まだ起きてたのかい? 私のことは気にせず、休めばいいのだよ」
王妃は盆をテーブルに置くとヴァジエーニ王の傍らに座り、薬瓶の蓋を開けた。
「痛み止めの薬です。体が楽になりますよ」
「ルナが作ってくれたものかい」
「そうです。毒味も済んでおります」
「ルナの薬なら毒味などいらないのに」
「大切なお体です。何かあってはいけないのでくれぐれも慎重に願いますと、ルナ達ての願いです」
「しっかり者だね、あの子は」
微笑みながらそう言う王の言葉に頷きながら、セレティ妃はグラスに水を注ぐ。薬は小さな器に一口分だけ注いだ。ルナの薬には助けられている。何しろ体が痛い。この痛み止めがなければベッドから起き上がることもままならない。
「ありがたくいただくよ」
セレティ妃の注いだ薬と水を、ヴァジエーニ王は喉に注いだ。喉仏がごくりと動く。森で採れた薬草から作られた薬。体にあまねく染み渡る。
「いい薬だ。ルナは立派な子になったね。嬉しいよ」
喉に残る苦みを味わいながらヴァジエーニ王は呟く。
「みんな、頑張ってやってくれていますよ」
「うん。本当に助かっている」
そう言って王はグラスを盆に戻し目を閉じた。王妃は病に蝕まれた王の腕を優しく撫でる。病んだ体にはこうした心遣いもまた薬であった。
「セレティ、ありがとう。心地がいいよ」
「陛下、くれぐれもお体をお大事に。みんな心配しますから」
「私は大丈夫だよ。心配はいらない」
ヴァジエーニ王は目を開けて、王妃に気付かれぬよう、そっと部屋の隅に目をやった。そこには妖しい闇がわだかまっている。
――あの闇は、私の心の闇そのものだ。
そう分かっていながらも、弱り切った病身では何もできなかった。
ヴァジエーニ王の憂慮も知らず、セレティ妃は王の腕を擦り続ける。
この優しい妃に対して、今、口が動くうちに伝えるべきことを伝えておかなければ、口が利けなくなった時に後悔するだろう。そんな思いから、ヴァジエーニ王は毎晩王妃にこう伝えていた。
「セレティ、愛しているよ」
「わたくしも同じように思っております」
王の意を汲んでセレティ妃もそう応える。
「君には何もしてあげられなくてすまないね」
「十分幸せにしていただいております」
二人が話している間にも、部屋の隅の闇は渦巻いて蠢く。
――私が胸に抱いている呪い。後々災いにならなければいいが。
そう思いながらヴァジエーニ王は再び目を閉じた。
「……みんな、幸せに生きてくれるだろうか……」
ふと、そんな呟きが洩れた。
――みんな、どうか幸せに生きておくれ。私と、約束だよ。
蠢く闇の気配を感じながら、ヴァジエーニ王はそう願った。
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