春風ひとつ、想いを揺らして~ニルバナ~
猫柳蝉丸
本編
――私、お兄ちゃんの事が大好きなの!
蓮華が咲き誇る中、君が僕に伝えてくれた言葉。
君と同じ名前の花に包まれ、僕はどんな表情を浮かべていたのだろう。
分からないし、これから先も分かる事は無いだろう。
だけど、いや、だからこそ、僕は――
☆
すっかり陽が暮れてしまった。
春先とは言え、陽が沈むのはまだまだ早い。
もっと早く帰るつもりではあったけれど、ド田舎と称しても差し支えない僕の故郷に向かうバスは相変わらず日に三本しかなくて、僕は夕方のバスに腰を落ち着けるしかなかった。運転手さんは見覚えがある人のような気もしたけれど、声は掛けなかったしあちらから掛けられたりもしなかった。まるで僕と故郷の距離感を表しているような、なんて何となく冷笑的に思う。
自宅まで最寄りのバス停に降りると、僕の大好きなあの子が待ってくれていた。
この春先に帰るかもしれないって連絡しかしていなかったのに。
君は、毎日待ってくれていたのかい?
「お帰りなさい、卓くん」
君は半年前と変わらない姿で、ううん、ずっと綺麗になっていた。
長い黒髪、清楚な雰囲気、普通はマイナス要素にしかならないはずの眼鏡までよく似合っていて、その魅力を更に増している。僕に恋してくれているからだ。恋する想いが君をずっとずっと美しくしたんだ。その事実は喜ぶべき事であるはずなのに、今はどうしても気が重く、辛い。
「ただいま、れんげちゃん」
わざとらしいかもしれないけれど、僕はどうにか笑顔を浮かべてみせる。僕は君の前では笑顔であり続ける。それがあの日、自分自身に誓った事なんだ。僕は笑顔でいなくちゃならない。だから問おう、笑顔のままでずっと綺麗になった君に。
「ひょっとして、毎日、待っててくれたのかい?」
「そうだよ。だって卓くん、帰る正確な日付を教えてくれなかったじゃない」
「ごめん、いつ帰れるか予定がはっきりしなかったんだ。期待だけさせといて結局帰れないなんて、れんげちゃんに悪いだろう?」
「それならそれでよかったんだよ。卓くんを待てるって事が嬉しかったんだもん」
「それで毎日バス停で待っててくれたの?」
「夕方の便だけだけどね。それならそんなに負担も無いし、卓くんをびっくりさせたかったんだ。びっくりしたでしょ?」
「うん、びっくりした」
笑顔で返したけれど、それは嘘だった。
僕は知っている。れんげちゃんはそういう一途な子なんだって知っている。だから僕はれんげちゃんの事を好きになったんだから。何事にも一途でまっすぐなれんげちゃんの姿を傍で見ていたくて。
「それじゃ、一緒に帰ろう?」
言い様、れんげちゃんが僕の腕を引いて歩き出した。
優しい香りが僕の鼻孔をくすぐる。その香りは懐かしい蓮華の香りだった。れんげちゃんが意識して纏っている香水じゃない。僕達の家までの帰路には、誰が植えたのかたくさんの蓮華が咲き誇っている。れんげちゃんはいつもその蓮華を愛でているから、自然と蓮華の香りを漂わせる女の子になったんだ。
宵闇の中、僕とれんげちゃんは蓮華に包まれて歩を進めていく。
蓮華――、花言葉は『あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ』。
皮肉な花言葉だと自嘲してしまいたくなる。
確かに苦痛はやわらいでいる。僕達は一緒にいる事で苦痛をやわらげている。
僕が、じゃないけれど。
「卓くんはどれくらいこっちに居られるの?」
「一週間くらい、かな。取らなくちゃいけない休みが溜まっていたから、今の内に取っておこうと思ってね」
「ずっと一緒に居られそう?」
「れんげちゃんがよければ」
「やったあ」
宵闇の中でも輝くれんげちゃんの笑顔。
僕のずっと見たかった笑顔。見たくなかった笑顔でもあるけれど。
「一週間、こんな田舎で何が出来るのかなって思ったりもするけどね」
「私が居るじゃない、卓くん。私と一緒なら一週間なんてあっという間だよ」
「そうだね。れんげちゃんと一緒ならあっという間だね。昔を思い出して子供みたいに鬼ごっこなんかするのもいいかもしれない。もうとっくに成人しちゃってる身だけどさ」
「昔みたいに……か」
れんげちゃんの笑顔が少し沈む。
失言だった。れんげちゃんが昔を思い出したくないのは分かっていたはずなのに。
でも、駄目だ、どうしても思い出してしまう。蓮華の香りを嗅いで、蓮華の咲く道を歩いて、れんげちゃんの存在を感じていると、思い出さずにはいられないんだ。僕があの日、れんげちゃんに告白して振られてしまった事を。
――私、お兄ちゃんの事が大好きなの!
僕の告白に、れんげちゃんは半泣きで素直な気持ちを教えてくれた。
そんな事を僕に教える必要性なんて一切無いのに、一途で真摯なれんげちゃんだから、僕の恋心にまっすぐ向き合ってくれたんだ。
れんげちゃんのお兄ちゃん――僕より三つ年上の幼なじみの和郎兄さん。和郎兄さんは僕から見ても魅力的な人だった。背が高く、運動も勉強も出来て、誰にでも優しかった僕達の憧れ。実の妹のれんげちゃんが和郎兄さんに恋してしまうのも仕方ないって思えるほどだったし、僕もそれには薄々気が付いてはいた。
それでも、僕はれんげちゃんに告白したんだ。僕の想いだけでも知っていてほしかったから、なんて殊勝な気持ちがあったわけじゃない。れんげちゃんの恋心は所詮許されない禁断の恋だから、僕と恋する方が正しいだなんて浅ましい気持ちを持っていたからだ。れんげちゃんだって僕に恋した方が幸せに生きられるのは間違いないはずだった。
勿論、そんな事を面と向かっては言えなかった。少しずつ少しずつ説得して、僕に恋してもらおうと思っていた。何せ倫理的には僕の方が正しいんだ。時間を掛ければ最終的には分かってもらえるはずだった。
そんな浅ましい考えに囚われて幾月か過ごした頃、和郎兄さんが亡くなった。
癌だった。いつも強い人だったから、逆に誰も気付かなかったんだ。いつの間にか和郎兄さんの身体が病魔に蝕まれている事に。僕は泣いた。心の底から泣いた。和郎兄さんは僕の恋の障害物ではあったけれど、嫌いなわけでも死んでほしいわけでもなかった。むしろ僕の憧れで理想像だった。和郎兄さんを失って途方に暮れる気分だった。
それ以上に喪失感に囚われていたのはれんげちゃんだった。当然だ。誰よりも好きで禁断の恋でも構わないと考えているほどの相手が亡くなってしまったんだ。僕の喪失感なんて比べ物にならない。
僕はせめて……、浅ましい考えを抱いてしまっていた贖罪のためにもせめて、れんげちゃんを支えようと思った。もう恋人とか、恋愛とか、そういう事はどうでもよかった。大切なお隣の幼なじみを支えてあげたかった。
れんげちゃんが立ち直るまで長い時間が掛かった。本当に長い時間が掛かった。僕の前に顔を見せてくれるだけでもどれだけの時間が掛かっただろう。構わなかった。僕は和郎兄さんの分までれんげちゃんを支えてあげる事を、蓮華の中で自分に誓ったのだから。
れんげちゃんの様子がおかしい事に気付いたのはしばらく経ってからだった。
また少しずつ笑顔を見せてくれるようになったのは嬉しいけれど、前まで僕に見せてくれていた笑顔とは何処か違うような気がしたんだ。そして、すぐに気付いた。そのれんげちゃんの笑顔は、僕ではなく和郎兄さんに向けていた笑顔にそっくりなんだって。
れんげちゃんは見つけたんだ、和郎兄さんの代わりに好きになるべき相手を。
素直には喜べなかった。喜べるはずもなかった。
だって、そうだろう?
僕は僕としてれんげちゃんに好かれたかった。恋人になりたかった。和郎兄さんの代わりになりたかったわけじゃ断じてない。誰かの代わりに愛されるのなんて、そんなに虚しい事があるわけないじゃないか……!
それでも……、僕はれんげちゃんを突き放す事も出来なかった。れんげちゃんはどうにか限界の所で踏み止まっている。ここで僕が突き放してしまったらそれこそ自らの命を絶ってしまっても不思議じゃない。
だから僕は決めた。決めるしかなかった。
れんげちゃんに愛され続けるに足る男であるしかないって。
それだけが下らない浅ましい考えを持ってしまった僕の贖罪なんだって。
不意に。
強い春の風が僕とれんげちゃんを揺らした。強い強い、春風だった。
「すごい風だったね、卓くん」
「うん、びっくりしたよ、やっぱりこっちの風は強いね」
「あっ、ちょっと見てみて、卓くん」
そう言いながら、れんげちゃんが僕の肩に手を伸ばす。
風に飛ばされて来たらしい蓮華が、僕の肩に乗っていたらしかった。
突然、本当に突然、手に入れてしまった、蓮華。
まるで、れんげちゃんみたいに――
手に取るな やはり野に置け 蓮華草
誰が詠んだ句だっただろう。
それは思い出せないけれど、
不意に思い出したその句がどうしようもなく胸に沁みて、
僕はれんげちゃんに見られないよう静かに、
少しだけ、
涙を流した。
春風ひとつ、想いを揺らして~ニルバナ~ 猫柳蝉丸 @necosemimaru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます