ドミナント・ストーリー

或狩征

ドミナント・ストーリー

 マキは映画を見始めたばかりだった。

 友達の綾乃から薦められた(というよりはむしろ押し付けられた)それを、彼氏のマンションで見るという行為。……マキの家には、規格にあった再生機器がなかったのだ。

 恋愛映画の始まりには、メインとなる男女の俳優二人が映っている。物語は、全く接点のない男と女がある日、自らの姿を、思い描く通りの自分へと変える力を手に入れるところから始まる。だが、思い描く姿を得ただけでは理想の生活は始まらない。それぞれに身近な人を誘惑し、手籠めに懸け、時に与え、時に奪い取りながら、そうして物語は、二年の歳月が流れたようだった……



 玄関の方から無造作にノブをひねる音が聞こえた。ただいま。誰かに言ったのではない、形式的な声が聞こえた。

「お邪魔してるよ」

 くぐもった返事が返る。どうやら靴を脱いでいるらしい。床を鳴らしながら、奥へと進み、その瞳がマキを捉えた。

「あぁ、どうぞどうぞ」

「お疲れ。――正(ただし)って今日仕事じゃなかったっけ?」

「ヘルプだよ。先月指を骨折したっていう同期の話、したよね? そいつがはやく復帰したいってんで、多めにもらった休みを返上してまで来てさ。まぁあっちはパートさんだから、生活も懸かってるだろうしさ。俺も休みを削ってまで働きたくはなかったし、水着も買っておかないとだったしさ」

 正の柔和な顔つきにマキはバツが悪くなった。綾乃は映画を一人で見るように言っていた。

「おっ、映画観てるんだ。俺も見ていい?」

 細々と拒絶の意志を示すマキの様子に、部屋の中を歩きまわりながら荷物を片付ける正は気づかない。整理が済むと、マキのとなりへ有無を言わさず座った。マキは正との距離の近さに嬉しさがこみ上げたが、わずかに隙間をあけて座っているのを見てとり、喜びは嘆息へと転じた。視線を正の体から目へ、そしてテレビへと流すとマキは思わず身を固くした。

 いつの間にか冒頭の男と女が出会い、交わろうとしていた。男は馬乗りになって、女のぷっくりとした唇を縁取るように舌でなぞり、円く空いた穴へと舌を差し込んだ。そして右手は女の体を撫でまわす。男の体からわずかに覗いた女の陰部にはモザイクが見える。

「ごごごごごごごごごごめん!!」

 正の素っ頓狂な声に我に返ると、マキは慌てて映像を切り、ディスクを取り出そうとする。

 正もまた立ち上がるとその場を離れるようにして冷蔵庫へと向かい、飲料を取り出しながらグラスに中身を移す。一気にそれをあおると、我に返った。

(今のって、チャンスだったじゃん……)

 今のはマキの方からそういうこと(・・・・・・)を期待していたというサインだったのかもしれない。いや、それともたんなる欲求不満か? まさかあんなものを見ていようとは。 

 胸元にまで掲げたグラスの底から覗く、人知れず自らが設けたズボンのテントのような張りを感じて、慌ててマキの方から背を向けた。

 マキはディスクを近くにおいていたケースに納めたところで、自分の頬がかっと熱くなっていたのを感じた。

 まさか帰って来るとは。今日が仕事で、明日水着を買ってくるはず……誤算だった。いやそれ以上に、こんな映像をなぜ綾乃は押しつけてきたのだろう。二人で見れば、初めてがうまくいくとでも思われていたのだろうか。私も彼もシャイなのを彼女は知っている。なぜ……

 眠ったように真っ皿な頭を叩き起こすように集中して、その日を思い出そうとしてみる。無造作にテレビわきのラックに置かれたそのディスクには、『ドミナント・ストーリー』と書かれていた。


 呆然としたマキの思考がたどったのは、つい昨日の出来事だった。

 目をぼんやり開けると、自宅のソファで微睡んでいた。傍らには、一緒にどこかへ行くはずだった綾乃が、ソファに上体だけもたれかかりながら、本を読んでいる。綾乃の脇にも何冊か本が置かれ、今読んでいるのも含めてマキの家から集めたものだった。

 微睡みを経ても消えない憂欝を、ため息にして吐き出した。

「最近ため息ばっかだねぇ」

 何度もついていたらしい。嘆息に聞き飽きたのか、傍らに居た綾乃の声音は、目だけは本に落としたま、何か聞いてやろうという様子である。

「ん~、あ~」

 マキは逡巡した。聞くべきか、聞かざるべきか。話すとなれば茶化されるだろう。彼女はそういう女だ。一方で、いつもヒントになることを与えてくれる存在でもある。

「そんなに言いたくないの?」

 何でも聞くよと念を押される。

 相談しようか迷っていたことは、正(ただし)とのことだ。これまでも、何度も彼のことで相談をしてもらっていた。今さら、なんだ。時間が経てば経つほど重くなりそうな口をモゴモゴと動かして言った。

「正に求められちゃってさ……」

 綾乃は口角を釣り上げて、意味ありげに笑いだした。

「ほうほうそれはそれは……して? ヤり方が分からないと」

「そういうんじゃないよ!」

 釣られてニヤケそうになる顔を努めて怒らせながら言う。

「じゃあどうしたってのさ? インポ?」

「そんなんじゃ……なんというか、彼が最近、したいっていうオーラを出してて……それは嬉しいんだけど、彼よりあたしの方が年上で、こういうのって、あたしから誘うべきかなって、そう思っちゃって……」

「人それぞれなんじゃないの? セイくんの方はどうなのさ?」

 セイというのは正のことだ。綾乃が真面目に聞いてくれるのを、心の内で安堵しながら、正のことを思い出す。

「正は……なんだか避けてるみたいでさ。こっちから来るのを待ってるみたい」

「そしたら、行くしかないねぇ」

「……そうだよねぇ――」

――でもキャラじゃないんだよなぁ。

 正との付き合いは、傍目から見ても清い関係のはずだとマキは思っている。お互いに依存して、ベタベタし合ったりなんかしない。そういうのが嫌いな二人でもある。

 しかし、こちらから誘うとなると彼にどう思われてしまうのだろう。そういうのが好きな子と思われるだろうか。いや、好きな方がいいに決まっているのだろうが、彼の場合は嫌いになるかもしれない。

 マキのなかの正の像は、女々しくて即物的な男たちとは違った。

 なるほどねぇ……と綾乃は言いながら、首を傾け、目だけは遠くを見ている。彼女が考え事をするときの仕草だった。

「うん。こっちからアタックするしかないね」

 確信めいて言う綾乃に不安が胸を掠めるが、綾乃に返す言葉は見当たらなかった。

「とはいっても、どうすれば……」

「マキって、明々後日(しあさって)まで休みだよね?そしたらいっしょに海に行こうよ!」

「海に行って、どうするの?」

「デートするの。ただし、おしゃれして、いつもとは違う自分を演じるの。一日だけね」

 綾乃の言うことの真意を反芻して飲み込んでから、

「それは例えば…誘惑するとか?」

 綾乃はそうそう、とにこやかに頷いてみせる。

 マンガやアニメじゃあるまいに……今回ばかりは少し、綾乃に期待しすぎたかもしれないと、マキはやや大袈裟に肩をすくめた。

 綾乃にとっては意外だったその反応は、彼女をマキの説得へと駆り立てた。

「なんだよぶうーぶうー。ちゃんと意味があるのですよ。今まででダメなら、新しい自分に変わってみるしかないじゃん」

「……そう簡単に変われるもんじゃないよ」

「別に変わらなきゃいけないとは言ってないよ。だけど、1日だけ、1日だけでいいから。いつもと違う自分を演じてみなよ。力は貸すからさ」

 優しい声音とは裏腹に、綾乃の表情は口を挟まれるのを拒んでいた。が、彼女の助言を聞いて、悪いことに転んだことはなかった。

「1日だけなら、頑張ってみるよ。その代わりサポートしてね?」

「もっちろん!」

 綾乃は大袈裟に頷いてみせた。


「海かぁ」

 自宅のベッドの上で足をブラブラさせながら、正は言った。

「なんだ?逢い引きか?」

 吉岡はテレビゲームで遊んだまま、後ろの正に聞く。

「いや、なんか行こうよって。お前も誘ってるぞ」

 うそ、と声を上げながら、吉岡はスマホを取り出して確認する。

「へえ、やるじゃん! んでもなぁ……こういうのって二人で行くもんじゃね?」

「確かに」、とは思うが、「…いや、心強いよ」という言葉が口から漏れた。

「心強い?」

 言ってしまった…とは思うものの、彼になら……話してもいいかもしれない。

「実はまださ、あいつとしてないんだよね……」

 ひそやかな声音で話すと吉岡は爆笑し始めた。

「ひっひひっ、お前、盛りのついたサルかよ」

 正の生真面目さを知っている吉岡は、心中ではまただ、としばらく笑い転げてから、ひゅっとコントローラーを手放すと、正に向き合う。

「そんなにしたいのか……?」

含み笑いと真剣さをないまぜにした奇妙な顔で、吉岡は覗き込むような視線を投げる。

「――したい」

 それは単に性的な、あるいは本能的な欲求ではなかった。というのは、正が気にしているのは、マキから飽きられることだったからだ。

「俺さ、マキと付き合って三年になるんだ……」

 吉岡は大学で、バレーボール部員だった頃のことを思い出していた。正とは一年生の頃からの付き合いであり、その頃から意気地なし……いや、そうじゃないな、シャイだったのを思い出した。吉岡と幼馴染である綾乃が学部でよく連れ歩いていた、マキに一目ぼれした正にセッティングしてあげてたな……。その後いつからかは知らないが、二人は気づくと付き合っていた。そうか、三年も経っていたのか。

「それで?」

「……それで、一通りのイベントっていうか、付き合いはしたからそろそろ先へ進みたいな、と」

「先へ先へって、それって彼女がそういうオーラでも出してたのか?」

 正はかぶりを振った。

「いや。でもさ、そういうことを考えてもいい頃に来たと思うんだ。恋愛ってのはテンポだろ? お互いが愛し愛されてることを示し合わないと、マキ自身も愛されてるか自信がもてない段階に来たと、そう思うんだよ」

正の気持ちは理解できないわけではなかったが、性急すぎはしないか? と思わないでもなかった。

「……焦ってるのか?」

 何かほの暗いものを感じて尋ねると、正は喉がひりついた感覚がした。言葉にする恐怖が声を捕らえようとするが、生唾と共に押さえこむ。それを振り払えたのは、吉岡の真面目なまなざしだった。

「実は俺さ、昔、マキの前に彼女いたんだよね。その子としたいって思ったんだけど、こっちが急ぎすぎたのか、向こうの心の準備ができていなくて。失敗しちゃったんだ」

 正はきっと、想いを形として残したいのだろう。それが彼なりの愛情の示しかたであると分かると、あとは正を押すか、あるいは引き留めるかしかない。……そうか、だから正は俺に相談したのかと、これまでのように助言を求めているのだと合点がいった。なれば……と、吉岡は、ふとメールを思い出した。

「大丈夫だ、答えは出てる。お前の彼女が誘ってくれたんだ、こっちだってセッティングしてやるさ」

「お前、マキの気持ちがどうか分かるのか?!」

(鈍いっ!)

 吉岡は呆れながらも、答えは提示しない。かわりに、

「いいか、よく聞けよ。次のデートの日、お前は別人のように振る舞うんだ。かっこよく、スマートに、彼女をエスコートしてみせろ。そして夜は狼になるんだ」

「おぉ! わかった」

 言葉とは裏腹に、正は疑念を払えなかった。これは彼女を喜ばすことに繋がるのだろうか。考えれば考えるほど、自信がなくなっていく。

「やってみるしかないか」

 渇を入れるようにつぶやくと、吉岡はそうだ、と言った。結局は試してみるしかないのだろう。


「あちぃ……」

駅の構内は暑かった。東の空に浮かぶ日差しは、ホームの日陰を横っ腹から食いつくように明るく照らし、地面と反射した熱は正の顔をじりじりと焼いた。

 隣を見ると、吉岡は涼しい顔で、汗をさっとタオルでぬぐいながら、ドリンクをまめに飲んでいる。

「こらこらそんなんじゃダメだろう? そんな顔見せたら、マキちゃん帰ろうとか言いだすぞ」

 もっともだった。無言でタオルを取り出し、頬をぬぐう。しかし暑い。はやくマキと綾乃ちゃんの二人と合流したい。あの二人はいつ来るのだろう。待つのが嫌なわけではないが、この暑さは苦痛だった。

「黙って待ってりゃいいんだよ。おしゃべりは男の美徳じゃないぞ」

 そのまましばしの沈黙が流れたが、ふと正の脳内を一昨日の出来事が過った。

「そういえばさ、一昨日、マキがピンク映画見てたんだよ。やっぱり向こうもそういうことなんだな」

吉岡の相槌は平淡であり、予想とは違っていた。吉岡の方はというと、正に当たり前じゃん、と心の中で毒づきながら、それでも正の心にかつてのトラウマがあることをぼんやりと思い出していた。

「やっほー」

声の方をたどると、階段を下ってホームへと降りてきたのは、綾乃とマキだった。

綾乃の服装は白地に黒い刺繍の入ったシャツに、七分丈でジーンズ地の青いサロペットを着ている。足先はサンダルで、こちらに気づいて顔を上げると、麦わらの帽子を被っており、快活な印象を受けた。マキの方は、いつものきっぱりとした色づかいではない、袖が肘までの長さのパステルブルーのシャツが一番に目に留まった。次に小ぶりなピンクのワンピースに、足先のサンダルに、手には先ほどまでさしていたらしい日傘を握っている。最後に色っぽい、朱い唇に視線が向かった。かわいいという雑感が、正の胸を占めた。

「すごくかわいいよ」

ストレートに言うと、マキは「似合ってるでしょ」と返した。

「あたしが見立てたの。かわいいでしょー」

綾乃は自分のセンスを褒めてといった様子で、正と吉岡は称賛した。

そうこうしているうちに列車のベルが聞こえ、ホームへと入って来る。四人を乗せると、再び走り出した。


 電車が止まり、たどり着いた先は、このあたりでもっとも近い海だ。森に囲まれた高台と高台の間で扇状に広がるその場所は、砂地も多く、海も少しずつ深くなっていく安全で快適な場所だ。県のパンフレットにもしばしば載り、半月浜ともよばれている。片方の高台を囲うようにして植えられている木陰にシートを敷き、近場のコテージに併設されている個室で着替えると、再びシートの側へ戻る。視界の先で、吉岡が腕を組みながら待っていた。

「すげぇ筋肉だな」

「だろ? 外回りの仕事してるからな。体が資本さ」

 正の白さと比べ、もともと浅黒い吉岡の肌は節々が黒くなっていた。それが一層彼の体をスリムに見せている。少し嫉妬した。

「前も言ったけど、今日はかっこよくキメろよな?」

 別人になる――そのための作戦を吉岡はわざわざ用意してくれた。水泳にビーチバレー、それにかき氷。その後にはバーベキューか、陸の方へ歩いたところにあるレストランか。定番ではあるが、水泳とバレーボールは経験者だ。彼女ともっと前に進むために、今日は優しい自分よりも、頼られる自分でいよう。彼女をリードしよう――そう改めて決心する。

 コテージの向こう側から、二人分の影が近づいてくる。正はその影を、頭から足先へと辿っていく。

 ビキニだった。オレンジ色をベースに、白い花の模様が入ったそれはマキの胸元で、遅れて顔を眺める。気恥ずかしそうだ。意外だった。シャイな彼女のことだから、ワンピース水着でも着てくるのだろうと思っていた。ビキニで隠せない華奢な肢体は妙に色気を帯びている。となりを歩んでいた綾乃のビキニすら、目に入っていなかった。

 吉岡がナンパよろしく近づいて褒めているのを、マキは適当に返しながらも呆けている正から視線を外さない。 ――服装は単純だが効果的だ。綾乃はそれを「服装は相手に対する礼儀」だと言っていたのを思い出す。目論見が思い通りに行き、内心の興奮を誰かにつぶやきたい気持ちになるのをどうにかこらえた。

 落ち着いたところで、吉岡が切り出した。

「それじゃ、まずはなにする?」

「まずは……海でしょ!」

 言いながら、綾乃はマキの手を引いて海へと引っ張っていく。正たちはそれを追いかけ、水の中へと入った。


ひとしきり水浴びをし合ったところで、

「なぁ、競争しないか? ここからあの岩まで」

 吉岡が指さしたのは、西にある岩場群からすこし手前にある岩だった。五十メートルぐらいの距離がある。マキと綾乃からいいよ、という返事が返ってきたところで、正の肩を引き寄せる。

「実はコイツ(正)さ、高校の時に県大会出てたんだよね」

「やめろよ、恥ずかしい……」と言おうとしたところで吉岡の気遣いに感づき「そうなんだよ」と慌てて言いなおす。

「六位の実力あるからな。簡単にゃ負けねぇよ」

「そこまで言うからには、誰か一人でも勝ったらなんかおごってくれる!? かき氷がいいなぁ」

「もちろん」と綾乃に返す。まぁ負けるはずがないだろう。


「嘘だろ……」

 岩に手をつけてよじ登ると、そこには既にマキがいた。

「私の勝ちぃ~~~」

 続けて吉岡と綾乃がほぼ同タイミングで到着すると、二人は目を見合わせてからマキに悟られないようにしながら呆れ顔をした。

「マキ、水泳得意なんだね」

「ごめん、実は中学の時水泳部で部長してて、泳ぎは得意だったの」

「ハハッ、やられたな。なっ」

 吉岡に肩を叩かれ正気に戻った正は、歩いてスタート地点の方へ向かう。

「ビーチボールでもしようぜ」

「いいね。ほら、マキもいこ」と抱きつき、小声でささやきかける。

「ありゃまずいよ。男にはカッコつけさせてあげなきゃ」

「あっ」

 マキが勝ったあとの正の様子は変だった。プライドを傷つけてしまったかもしれない。つい純粋に勝ち負けを楽しんでしまった。

「あんたは何事もフェアーだからねぇ。でも男をたてるのも大切だよー」

 マキの将来を案じて言う口ぶりは、ストレートに言われるよりもかえって胸が痛んだ。服装を褒められたうれしさで、つい浮かれすぎていたのかもしれない。ただ可愛げがあって無邪気であればいいという自分の理想像は、やはり間違いなのかもしれないと思わされる。

「気をつけるよ」

 髪についた滴を手櫛で振り払うと、彼らを追いかけた。

 扇状の砂地のほぼ中央には、四面のバレーコートが設けられている。その一番手前のコートで吉岡はネットのかかり具合を調整しながら、コテージで借りてきていたのだろう、ボールを持った正がやりきれない表情で歩いてくる。

「ハァ……」

 正はいら立ちを吐息に溶かした。いつもなら、競争なんてどうでもいいことでしかなかったが、良く魅せたいという思いが離れない。まだ今日は始まったばかりだ。気持ちを切り替えよう。

「編成はじゃんけんで決めるか」

 コートの調整が済んだところで吉岡が切り出すと、結果はマキと正、吉岡と綾乃に分かれた。

「あんまりこういうのやったことないから、教えね」とマキ。

「おう、任せて。まずはサーブから教えよう。オーバーサーブと、アンダーサーブの二種類があって、まぁこんな感じだ」

 向かいのコートの吉岡に一言頼んでから、正はボールを空中に飛ばす。重力にひかれて落下するタイミングを見計らって、右手を振り下ろすと、ボールが対面のコートへ飛ぶ。吉岡はそれをレシーブすると、綾乃が隣でトスをし、宙に上がったボールを吉岡が腕を振り下ろし、こちら側へとボールが戻って来る。

「もうひとつは」

 正はボールをキャッチすると、今度は腕を野球のバットに見立て、ボールを軽く投げてから横に振ると、相手コートへと進んでいく。吉岡たちは先ほどのようにそれを返した。

「サーブはこっちのほうがおすすめ。試合の流れは今、吉岡が実演してみせたように、レシーブ、トス、スパイクの順だ」

 マキはそのままレシーブやトスのやりかたから、最低限のルールなどを教わる。

「じゃあやるか。試合は先に二〇点先取したほうが勝ち。二マッチ制だ。いいな?」

 正の声に、ストレッチを済ませた吉岡がコート際へとやってくる。

 じゃんけんの結果、吉岡側の先行となった。

「そらよっと」

 流れてきたのは軽いオーバーサーブだった。

 声かけをして正が受けると、マキがトスを上げようとする。

「あっ」

 打ち上げたボールがネットを越え、中空で相手コートの側へともたれかかってしまう。

「任せ――ろ!」

 正はネット際でジャンプすると、ボールを押し込むように平手を振り出し、あわや相手へのチャンスボールへとなりそうになるのを攻撃へと転じる。

「おおっ!?」

 吉岡は予期していなかったのか、打ち出されたボールに対処できず、そのまま砂地に凹みをあけた。

「やる~~」

 体勢を立て直すと、対面から綾乃の声が聞こえた。

「あ、ありがとう……」

 上目遣いのマキに愛おしさがこみ上げ、ふと抱きしめたくなる、が、その仕草と衣装に目がいくと、急に気恥ずかしくなって、頭を手で撫でた。

「任せろよ」

 ぶっきらぼうな物言いだったが、その意思はマキに伝わった。綾乃が吉岡の後ろでこっそりと親指を立てている。

「次は負けんぞ」

「お前には負けんぞ」

 吉岡が打ち出したボールで、再び試合が始まる。そのまま試合が進み、二マッチ目の終盤にまで進んでいく。

 一八対一五か……

 正のほうが三点も有利しているが、まだ挽回できないわけではない。だがそれ以上に気になることがあった。

……マキちゃん怒ってないか?

 正は気づいていないが、隣のマキははやく終わってほしくて仕方がないといった表情だった。

(なぁ綾乃、マキちゃん怒ってない?)

(そりゃそうだよ。だってマキは二マッチ目から全然スパイクやらせてもらってないもん)

 それでか。合点がいくと、正の朴念仁ぶりに笑い出しそうになって、それが自分にも当たるのだということに気づいて閉口した。経験者ではないからと言って、綾乃にもあまりスパイクをさせてあげなかったからだ。

(なぁ、綾乃も怒ってる?)

「どう思う……?」

 他人行儀な口ぶりに、すみませんでした、とボールを差し出す。

「よろしい。セイくんより五〇点ましかな」

 綾乃に呼ばれたような気がしたのか、正は「いつでも来い!」なんてつぶやいている。恰好をつけろと言った反面、申し訳なさが立った。

 女の子は難しいな……

 正はそのまま二点を自分で入れると、満足げにマキに近づく。

「勝ったよ!!」

「うん、勝ったね」

 マキは正にそれ以上何も言わずに、綾乃の側へと駆け寄っていく。

 正は共有できない喜びを抱えたまま、どうしていいのか分からなかった。


「やっぱり男ってバカだよ」

 水泳とビーチボールでほてる体を休ませながら、マキは綾乃とかき氷を頬張っている。となりで聞いている綾乃は、どう答えるか少し逡巡した。

「あんたもね」

 想定外だったのか、綾乃を見返す。

「そりゃ気持ちは分かるけどさ。でも綾乃だって勝っちゃったでしょ? 相手の気持ちもくみ取らなきゃ」

「それは、そうだけど……なんだか今日はいつもの正と違って……勝ち負けじゃなくて、もっと純粋に、夏を楽しみたかったよ」

 話している間にも、綾乃の手はかき氷をせこせこと口の中へと入れている。

 ただ私は、彼にかわいいと、ただ愛してほしかった。いつもの彼とみんなで楽しみたかった。かわいいだけで男をおだてるような私は、私ではないのだと気づいた。

 一体、私の魅力とはなんなのだろう。彼とどうなりたいのだろう。自分の理想像が分からなくなり、演じようという気力が急速に薄れていく。

「なんだか疲れたよ…」

 具合が悪い。慣れないことをしたせいか、ふらふらと綾乃にもたれかかる。

「わ、ちょっと!」

 そのまま意識が濁っていき……



 少し早めの時間に乗ったためか、帰りの電車は空いていた。横一列のシートを四人で陣取りながら、マキを休ませる。

 失敗だったな……。

 コートの整理をしていた正と吉岡が異変に気付いて慌てて合流し、マキの気分が落ち着いてから、電車に乗ることになった。具合を悪くしたのは、慣れないことをしたためかもしれない。思えば変な一日だった。俺はつい勝ち負けに熱くなって、マキは異様におしゃれで――

――肩肘張ってたのは、マキもか?

 今更ながら、マキのやろうとしてたことに合点がいった。お互いに相手を気遣おうとして、慣れない自分を演じようとしていたのだろう。そういえば、一昨日もあんな映像を見ていた。どういう意図かは知れないが、彼女なりに何かを考えていたのかもしれない。

 椅子に座ったまま上体だけを背もたれから起こすと、マキはすやすやと寝ている。その視線に気づいて、綾乃がマキの側から立ち上がり、吉岡を越して、正の隣へとやってきた。

「いやぁ失敗しちゃったね」

「気づいてたのか」

「そりゃね」

 正と綾乃の意図にはやくから気づいていたようで、綾乃はごめんと言った。

「ごめんって?」

「いやぁマキにけしかけたのってあたしなんだよね……。相談もちかけられてさ。あんたともっと仲良くしたいって。それで変わりたいっていうから、彼好みになっちゃえば? って、いろいろアドバイスしたの」

「面白かったよなぁお前ら」

 正の右手でうとうとしていたはずの吉岡の目はいつの間にか冴えている。

「ぶきっちょで」「へたっぴ」

 吉岡の前口上に綾乃が続いた。正には返す言葉もなく、ただ自嘲気味に声を上げて頷いた。

「まったくだよ。変わろうなんて難しすぎた」

もっと近づこうとして、相手を傷つけるなんて馬鹿な行為だった。自惚れた男をただ演じればいいと思っていた自分がいよいよ恥ずかしくなってくる。

「で・も! 恋愛も失敗しないとね。成長はないから」

「そうだぞ」

「ハハ、そうだな」

 普段の自分のほうがやはりしっくりくる。マキにあとできちんと謝ろう。

 電車が駅に着くと、眠っていたマキを支えながら、改札を抜ける。

「それじゃあまたな」

「マキのこと頼むね」

 正たちとは別方向に二人が進もうとするのを、正はちょっと、と吉岡を手招きする。

「なんだ?」

と近づいてくるのに対して、

「恋愛も失敗しないとな。綾乃ちゃん待ってるぞ」

 虚を突かれた吉岡は、しどろもどろになりながら、

「どういう意味だよ」

「ずっと綾乃ちゃんを視線で追いかけてただろ。それくらい分かる」

 それだけ聞くと「へいへい、早く行け」と言いながら、吉岡は手で正を追い払った。

「あの二人うまくいくかもね」

 戻ってきた吉岡に綾乃が言う。

「なんで? 借してた映画、うまく演じてたから。マキは見てないって言ってたのに」

「映画?」

「『ドミナント・ストーリー』ってやつ」

「あぁ知ってる。面白かったよな」

「――で、さっきの話はなんだったの?」

「なんでもない」

言えるかよ……と思いながら、正とマキをダシにして、次に綾乃を誘う機会を練り始めた。


「んんっ……」

 どこかから扉を開閉する音がして、マキは目を覚ました。壁の時計を見ると八時を回っている。そういえば、正の家のベッドで眠っていたことを思い出した。疲れていたのだろう。

「大丈夫? 貧血だったみたいだから、そっとしておいたけど」

 上体を起こすと、今まででかけていたのだろう、買い物袋をテーブルに乗せながら、正が荷物を置いて、整理し始めたところだった。

 マキは自分の体を動かしながら、体調を確認する。充分に睡眠をとったおかげで体は調子を取り戻していた。

「……ごめん」

 昨日の夜から、なんだか浮足立って寝付けなかったことを思い出す。ちょっとした体調管理のミスが体に出やすいクセを自覚していながら、そのせいでみんなとの楽しみを奪ってしまったことが少しやるせなかった。

「いいよ、いいよ。連休で疲れが出たんでしょ。それより、シャワー浴びてきたら?」

 正の恰好をまじまじと見つめると、どうやら家に戻ってすぐでかけたようで、洋服を着替えていないようだった。

「……先に入っていいよ。私、もう少しゆっくりしたいから」

「わかった。浴びたら料理作るよ」

 正は風呂へと進んだ。ちょっと塩臭かったかな? コテージの着替えの個室にはシャワー室が備えられており、マキ以外は浴びていたのだが、身体をこすったわけではなかった。浴室のドアを開いて、そのままシャワーを浴びる。

 マキはどう思っているのだろうか。体調のおかげか、気さくに話しかけられはしたが、内心は怒っているのかもしれない。とにかく、今日は失敗だった。あんな自分は自分ではないし、彼女を喜ばすことはできない。

 そんなことを考えながら、浴室を上がり、「風呂どうぞ」と一声かける。かえってきたマキの声音はちょっぴり元気で、怒っていないことに安堵した。

「さて、やるか」

 洗っていたキャベツやトマトを小鉢に盛り付けて、サラダを作る。汁物は作り置きしていた味噌汁で、中にはナスが入れてある。主菜は、海に行ったせいかアジが食べたくなったのでそれにする。開き焼きにしよう。小鉢を冷蔵庫に入れてから、さぁ、アジに手を付け――

「正正正ッ!!」

 濡れた髪にバスタオルで体を覆いながら、マキがしかめっ面で駆け寄って来る。

「G! G!」

 意図を察し、慌てて浴室に駆け込む。

「窓際っ!」

 見ると、へばりつくように小さなGがいる。正も苦手だが、やるしかない。浴室の壁掛けラックにあった、殺虫剤を取り出して狙いをしぼる。直撃コースで振り撒き、タイルの上に落ち、動かなくなるのを待って、ティッシュでくるんでゴミ箱に放り込む。

「もう大丈夫だよ」

「ありがとうーーー!」

 英雄歓待といったふうに、大仰に手を振りながら抱き着かれると、バスタオル越しに彼女のカラダの線がありありと分かる。

「お、おう……」

 正も抱きしめるが、すぐに照れくさくなって、手を彼女から離そうとする。

彼女は無邪気に笑っている。そこには、取り繕っていた彼女ではなく、自分が確かに愛した、

 普段はしっかりしていて、でも時々臆病で、そして自分と似て恥ずかしがりやで、守ってあげたくなるような彼女がそこにいた。

 急速に愛したいという気持ちが強くなってくる。

――まだ、私たちには早いよ――

 昔の彼女の声音が脳裏で警鐘を鳴らしている。

 やめよう。

 いや、先へ進みたい。

 やめよう。

 思考の間隙のなかで交差する思いはしかし、向けられた彼女の上目遣いの前には一切の意味を成さなかった。

「マキ……」

 取り繕った自分ではなく、取り繕った彼女でもなく、今こうしている二人がこそ愛おしい。正は躊躇なくその唇を奪った。

「したい」

 正は思うままに口にした。嫌われてもいい。でも好かれたい。脈拍する鼓動はそのどちらの感情の先に震えた。

「………………………………………うん」

 正とマキは抱き着いたまま、ベッドへと向かった。


 ベッドから返る心地よい反発と鳥のさえずりが透き通って聞こえるようになって、正は目を開いた。隣を見ると、マキが寝ている。けだるげな幸福感がだんだん輪郭をもってくると、昨夜の事を思い出し、のたうちまわりたいような喜びを口元の笑みで閉じこんだ。酒で酔っていたわけでもないから、仔細に何度も思い出してしまう。紛らわすように、辺りを見回して、中途半端に済ませた料理に気づいてから、キッチンに向かう。幸い魚は冷蔵庫に入れてたようで、食材も傷みはなく、ただまな板だけが中途半端に置かれていた。

 キッチンから聞こえる音で、マキも目を覚ました。ほぼ二度寝のような形になったためか、頭が妙にすっきりしている。正の様子に気づいて、「おはよう」といいながら、衣服を整える。

「あっ」

 テレビをつけようとして、傍らのラックに置かれていたディスクに気がつく。そういえば見ていなかった。映画の内容を思い出すと、昨夜の情事が頭を過ぎると、顔が急速にほてった顔がした。

「はい、朝食。ごはんと味噌汁」

 テーブルに食器を乗せつつ、視線はマキの手元から離れない。もう恥ずかしくはなかった。

「いっしょに見ない?」

 マキの問いかけにやや遅れて、

「見よっか」

 という声が返った。


 二人は映画を見始めた。

 恋愛映画の始まりには、メインとなる男女の俳優二人が映っている。物語は、全く接点のない男と女が、ある日、自らの姿を思い描く通りの自分へと変える力を手に入れるところから始まる。だが、思い描く姿を得ただけでは理想の生活は始まらない。それぞれに身近な人を誘惑し、手籠めに懸け、時に与え、時に奪い取りながら、そうして物語は、二年の歳月が流れたようだった……


 思い描く姿は、二人を最初は近づけたけれども、後ろめたさを伴った。それは自分に対してだけではなくて、自分に対してもである。偽った自分が永遠に続くことは無い。

 だから二人は素面で会った。自分や誰かから課される(ドミナントの)自分ではなく、自分が自分に望む自分になった。失敗したっていい、ただ己を試すために出会った……



正は、変わってよかったと思った。

マキは、変わらない方がよかったと思った。

 どちらも失敗ではない。自分を支配するドミナントは、もう必要ない。

 必要なのは、臆病な勇ましさで、とりあえず歩み出してみることだけだ。


                                  了

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ドミナント・ストーリー 或狩征 @aysha01

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