相対的年齢効果

 私が年齢相対的効果を知ったのは、高校時代のとある友人がきっかけだった。その友人は成績があまり芳しくなく、私は何度か彼女に勉強を教えることがあった。その友人がある時、言い出したのだ。

「私が成績悪かったりする理由はさ、別に私だけの所為じゃないと思うんだよね」

「というと?」

「私って、三月生まれじゃん?」

「知らない」

 私は、ただ首を振る。しかしなんとなく、その時点で彼女が話したいことは分かった。

「三月生まれだとさ、じゃあ柊よりも三か月も成長していない状態で、早い子誰いたっけ、四月生まれの美佳ちゃんとかと比べたらほぼ一年間違うわけ。私は、ほぼ一年年下の状態でみんなと同じ勉強だったり部活をしなきゃなんないわけ。ね?」

 そこまで聞いたあたりから、私は彼女の話を聞き流している。彼女のように、断片的な知恵だけを手に入れた人間が一番厄介だ。

 そうだね、とだけは答えただろうか。あまり、そのあとの記憶はない。ただ、馬鹿な彼女が知っている事象を知らなかった自分が少しだけ悔しかったから、その会話が存在したこと自体はよく覚えている。その日、帰ってすぐに調べた。相対的年齢効果、というらしい。


 私は中高一貫校であったから、六年間同じ人間と一緒にいた。卒業まで六年間仲の良かった人間の一人は、東大に現役で合格していった。頭の良い人間だった。要領がよく、努力を欠かさなかった。彼は二月生まれだった。もちろんそれはただの一例で、それにより相対的年齢効果を否定する気はないが、九月生まれの私は二月生まれの彼よりも有利なはずで、もっと私もできたのかもしれないと考えてしまうと、より今の、そして過去の自分が惨めに感じてしまう。

 そのために私自身は、相対的年齢効果について考えないようにしている。そして、自分の都合のいい言い訳として使っている。


 考えれば、同じ学年には一年近く生きている年数が違う人間がいる。四月に入学した時、すでにほぼ六歳の人間とまだ五歳になったばかりの人間がいる。小さな頃なら特に、その差が大きく影響する可能性はある。それを問題視する声も一部ではあるようだが、そこまで違いを受け入れないような世の中になってしまったのだろうか、と考えてしまうと私は少しげんなりする。


 小学校の国語の時間に暗唱させられた金子みすゞさんの詩を私は思い出す。みんな違って、みんないい。あの詩は、我々と種の違うものを詠っているが、それはなにも他の生き物、というだけでない。横を見れば存在している隣の人間についてもいえることだ。お互いに長所はあり、そして短所があるはずでその差異を認め合って個性となりうるのではないのだろうか。みんな違って、みんないい。ただ平等を訴えるのではなくそれぞれの個性をよりお互いが捉えられるよう、私は祈るばかりである。そして、都合の悪い時には言い訳として相対的年齢効果を思い出すのだ。

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