第25話 サヨナラの言葉

 ねえ黒猫。

 きょうはとっても身体の調子がいいの。

 きっとあなたが会いに来てくれるって約束してくれていたからね。


 街はお祭りなんでしょう?

 私も行きたいな……。


 え?

 連れていってくれるの?

 でも――。


 分かったわ。

 すぐに着替えるからすこし待っていて。


 ええ、うれしいわ。

 だってやっとこのお部屋から解放されるんですもの――。

 後悔なんてしない。


 ありがとう――黒猫――。




「クソっ! サラ! 待ちなってば!」


 ニュールブラン市、上空。

 いまひとりの魔女が杖に乗って、人類史上おそらく初となる低空での高速飛行を実現としている。

 次第に暖かくなる春の陽気に包まれた陸上とは違い、空はいまだ冷たい世界だ。

 亜麻色のローブをなびかせて、魔女は必死に杖にしがみついている。


 人間が空を飛ぶということの不自然さは、いまだに飛行装置の開発にめどが立たないことからも分かるよう非常に困難を極める。


 安定しない速度。

 ときおり「ガクン」と高度が落ちて、あやうく地上まで真っ逆さまだ。


「ええええい! ルツが足らん! こんなんじゃすぐに落っこっちまうよ!」


 追っているのは漆黒の魔獣と化した愛娘サラである。

 ようやく会えた文通相手『白猫』の死をきっかけとして絶望に吞み込まれた。

 いつものであればメイルゥと共有されている意識もぷっつりと途絶え、ただひとえに「怒り」の本能のみで街中を駆けている。


 奇しくもきょうは公国初の自動車レース『シエナ・グランプリ』が開催されている。

 幸か不幸か、多くの人々がシエナ駅を中心とする公道サーキット付近に集中しているのでまだ犠牲者は皆無といえた。

 しかし被害がゼロというわけにもいかず、サラはそこらじゅうで公共物を破壊しながら一心不乱に走っている。


「まずいな……コースに近づいている……ん?」


 安心しているのも束の間、サラは確実にコース周辺へと近づいていた。

 さすがにここまでくると目撃者も増えてきたようで、地上からはレースへの熱狂的な歓声とはまた違う、恐怖の叫び声が聞こえてきた。


 メイルゥは陸上にとあるものを見つけると、急速下降の舵を切った。

 ただでさえルツも切れかけているのでこのまま飛行を続けるのは限界だ。緊急時のためいつも懐に忍ばせているりんごサイズの精霊石もすでに輝きを失いかけている。


「シーシー!」


 空から落ちてきた魔女は、シエナ公道サーキットでもっともバンピーとされる、ガタついた石畳で構成された連続コーナー付近を走行中の一台のレーシングカーへと頭から突っ込んだ。


 激しい衝撃を受けた深緑のボディが揺れ、あわや転倒というところをギリギリで回避するあたりシーシーも流石である。


「うおおおおおおお! ちょ! なにやってんだよ、バカぁ!」


「シーシー、緊急事態だっ。すぐそこ曲がれ!」


 狭いコクピットのなか、若い肢体を器用に折り曲げてメイルゥが叫ぶ。

 肉体が若返ったのは、自動車の燃料室にある精霊石のおかげである。

 一方、シーシーは強烈なアンダーステアと戦いながら、石畳の道路にタイヤを切りつけていた。足回りが悲鳴をあげている。


「逆方向じゃねえか! コースの外に出ちまうぞ!」


「知ってる!」


「ファイナルラップまであと10周待てねえのかっ。いま二位なんだぞ!」


「サー・チャールズ!」


「――ぅわあったよぉおっ!」


 デッドヒートを続ける先頭集団。

 一瞬の操作ミスが大事故につながる猛スピードのなかで、シーシーはひとりライバルたちとは逆方向にハンドルを切った。

 流れるテール。

 沈むサスペンション。

 軋む車体がひどいロールで踊っている。


 急減速に伴うシリンダーの空回り。

 各配管のダメージを最小限に抑えるため脱圧バルブから「バシュン」と高圧スチームが抜けていく。

 ダークグリーンの長い車体は、たちまち蒸気で包まれる。

 だがそのつぎの瞬間。

 純白のカーテンのなかからクレージーなスピードで、ダークグリーンの長い車体が飛び出してきた。

 まるで騎士の放つ大槍の一撃。

 ふたりを乗せたシーシーの愛車は、あっという間にサーキットから離脱していった。


「もっとスピードは出ないのかい!」


「無茶いうな! さっき最後の給水を済ませて車体が重くなってんだよ!」


「捨てな!」


「マジでいってんのか!」


「見ろ!」


 シーシーの剣幕もよそにメイルゥが杖で指示したその先。

 そこには二階建ての一軒家にも相当する巨大な生き物が駆け回っていた。

 まるで身体中から黒い炎を噴き出しているかのような逆立った毛並みと、丸太のような二本の尾が、遠く後塵を拝しているはずのシーシーにも確認できた。


「あれに追い付けばいい! あとはなんとかする!」


「なんだありゃ? 例のうちの祖父さんの名を騙った錬金術のなんとかか?」


「違う。あれは――あたしの大切な娘さ!」


 メイルゥの必死な眼差し。

 ゴーグル越しにシーシーの表情も覚悟の色で染まっていく。ぎゅうっとステアリングホイールを握りしめたかと思うと、床から伸びたレバーに手を掛けた。


「メイルゥ! シートのしたに赤いバルブがある。左回りに四秒間だけ全開にしろ!」


 メイルゥは指示に従い、いま自分が尻を乗せているシートのしたへと頭を潜らせた。

 すると目の前には軽量化のために大きなサービスホール(穴)が開けられており、車体の腹下がすっかり見えている。

 シーシーのいう赤いバルブはシートの真下にあった。それは金属製の酒樽のようなものに連結していた。


「四秒だね?」


「そうだ! それ以上は水が抜けすぎる! 途中で止まるぞ!」


「分かった!」


 バルブをひねると貯水タンクからドバドバと水が抜けていった。

 未舗装の道路に、綺麗な一本線が引かれていく。


「シーシー! 閉めたよ!」


 メイルゥの合図とともに、シーシーは握りしめたレバーを引いた。

 すると車内パネルに取り付けられた複数の圧力メーターが、一気にレッドゾーンへと振り切れていく。

 シリンダーには内部の圧力差を意図的に落として、機関を安全に使用するためレギュレーターという装置が組み込まれている。

 シーシーはいまそれを強制的に解除したのである。


「ほんとはゴール間際の駆け引きに使うはずだった切り札だ! 長くはもたんぞ!」


「なんだい、何事だいっ?」


「つかまってろぉおおおおおおおおおおお!」


 ドンっと。

 一気に加速度をあげたシーシーのマシンは、強烈なGを発生させて魔獣サラへとカッ飛んでいった。

 車体のなかで伏せているメイルゥはともかく、実際に運転しているシーシーの身体への負担は相当なものだ。

 ほんのすこしの気のゆるみでステアリングホイールから引き剝がされる。

 強烈な向かい風に、防風用のフロントシールドも役に立たない。

 むき出しになった頬肉が尋常ではなく波を打つ。


「よし! いいぞシーシー! よくやった!」


 いつの間にかふたりは魔獣の背中をとらえていた。

 あとすこしで追い付くというところだが、魔獣サラもまた怒りの進撃を止める様子はなかった。


「メイルゥ! もうダメだ! 機関がブローする!」


「十分だ! ふんっ!」


 掛け声とともに、魔女は愛用の杖を魔獣へと投擲した。

 時速150キロオーバーという埒外のスピードのさらにその先へ。

 運動物理学のエキスパートが涙しそうな現象を横目にしながら、いよいよ危険領域にまで達したシーシーの愛車は、見事にエンジンフードを吹き飛ばしてブローした。

 破壊されたシリンダーのパーツをまき散らしながら、次第にスピードを緩めていく深緑のレーシングカー。すでにタイヤもボロボロで、見る影もない。

 いつしか激しい水蒸気を吐き出しながら、完璧に停止してしまった。


「サラ!」


 一方、車体から飛び出したメイルゥは、目の前に広がる大火炎の檻に囚われているサラに向かって駆け出していた。

 投げ飛ばした杖が一瞬にしてサラを追い抜き、大地に刺さって炎をあげたのだ。

 ルツの枯渇に影響され、メイルゥの姿もいまや壮年にまで衰えている。


 炎のなかで荒れ狂うサラ。

 天を呪うかのような激しい慟哭をあげている。


「サラ、こっちへおいで……誰もおまえを傷つけないから……」


 しかしいまのサラにはメイルゥの言葉が届かない。

 ばかりかフルカネリを一撃のもとに粉砕したあの巨大な爪で、最愛の家族であるはずのメイルゥに襲い掛かった。


「ぐ――」


 すんでのところでかわしたが一歩及ばす。

 くすみ始めた頬にざっくりとした深い傷を負う。

 赤黒い血がしたたり落ち、首筋から胸元へと伝い流れていった。


「サラ」


 真っ赤に染まった魔女の顔。そして優しい瞳。

 一瞬、ひるんだ魔獣サラは、ようやく激しい怒りを鎮めて動きを止める。

 だが一向に、その姿をいつもの愛らしい黒猫へと変じさせることはなかった。


「自分でちからを操れていないね。よし……」


 メイルゥが手をかざすと、地面へと突き刺さっていた杖がひとりでに動いて彼女のもとへと戻った。

 それをパシンっと受け取ると、メイルゥは精神を統一する。


「メイルゥ!」


 シーシーだ。

 沈黙した愛車を安全な場所にまでどかしてから追いかけてきた。

 ケガはないらしいと確認すると、メイルゥは「近づくんじゃないよ」と叫んだ。


「サラ。もとに戻してあげる――」


 メイルゥがそう言い放ったつぎの瞬間。

 突如してサラを囲っていた炎の壁が、その激しさを増した。

 天高くあがる巨大な火柱が、何本も何本も、魔獣のまわりに噴き出している。

 さながら地獄絵図だ。


 炎にさえぎられて周りからは内部が見えない。

 陽炎が景色をゆがめている。

 すでに多くの野次馬が集まってきているが、誰も近づくことさえできなかった。


「さ……ら……」


 炎の輪のなかで急速に老いていくメイルゥ。

 次第に光を失っていく視界には、横たわる黒猫の姿が見えた。

 腹部からはジワリと血がにじんでいく。

 その場所には『夜会』においてノートン伯爵に斬られた傷がある。


 やがて炎はその勢いを失った。

 魔女が使役した魔法の火は、周囲に存在するありったけのルツを使い尽くしたのだ。


 そしてメイルゥは――崩れ落ちた。


「メイルゥ!」


 炎の壁が消失し、シーシーは魔女へと駆け寄る。

 だがすでにこと切れており、いっかな呼び掛けに反応しない。


「おい! 嘘だろっ! メイルゥ! おいっ!」


 精霊サラマンダーとしてこの世に生を受け、人間メイルゥの魂と融合しこのかた200年と少し。誰よりもひとを愛した偉大なる魔女の旅がいまここに終わろうとしている。

 見届けるのは誰あろう、かつて愛したダニエルの孫だ。

 ミナス村から贈られたローブに包まれ、シエナの名を冠した地に没する。


 いい人生じゃないか――。


「メイルゥ……マジかよ……」


 ついさっきまで冗談交じりの丁々発止をしたばかりじゃないか。

 あまりの現実感のなさ。

 そしてじんわりと襲ってくる絶望感に、シーシーは顔を覆った。

 ほんとうにこれで終わりなのか――。

 そんなせんないことを考えていたときだった。



 ――ほほぅ。騒がしいと思ったら、おまえじゃったかサラマンダー。



「な、なんだ?」


 いずこからか声がする。

 聞き覚えのない老夫の声だ。

 驚いたシーシーは顔をあげるが、どこにも姿をとらえることができない。


 しかし横たわるメイルゥの身体のそば。

 よくよく目を凝らしてみると、うっすらとなにかが見えた。

 それは小さなひとの姿をしていた。

 大きさにして15センチほど。親指と人差し指とをグッと伸ばしたぐらい。


 たしかに老人の顔だ。

 目元以外はびっしりと髭で覆われているが、たしかにひとのそれだ。


 しかも一体ではない。

 どこから沸いてきたのか、いつの間にか自分の周囲にも何十体とそれが存在していることが知覚できた。


「うぉぉぉっ。なんだこいつらっ」


 驚いて尻もちをつくと、気が付けば彼の肩に乗っていた一体が「ほっほっほ」と好々爺然とした声で笑うのである。


「われが見えるか小僧。その顔は覚えているぞ。ローゼンクロイツの眷属であろう」


「な――」


「よいよい。いまはそれよりもコレをなんとかせねばならん。おい見つかったか?」


 小人たちは、メイルゥの懐をまさぐると、光を失ったりんごサイズの精霊石を見つけた。

 メイルゥが非常用に持ち歩いているものである。

 それを4~5人で持ち上げると、彼女の胸のうえへと置いた。衣服は腹からの出血で真っ赤に染まっていた。


「まあ20体ほどでよいか。ほれ急げ」


 シーシーの肩口に乗る一体が号令をかけると、そこらじゅうにいた小人たちが一斉に精霊石へと飛び込んでいった。

 消えていく。

 精霊石のなかへと吸収されていくのだ。


 すると一度光を失ったはずのメイルゥの精霊石が、煌々とした紺碧の輝きを取り戻したのである。


「ど、どうなってる? メイルゥは助かるのかっ?」


「コレはそう簡単にくたばりゃせんよ。この程度で死ぬぐらいなら、かの戦いのおりにどれだけ楽だったことか」


 小人がパイプたばこを吹かしながら悪態をついていると「悪かったね」と、かすれた老婆の声がした。


「メイルゥ!」


「シーシー……サラは……黒い猫はどう……した……」


「黒い猫? あ、ああ、あれか、大丈夫だ。寝てるだけみたいだ」


 気を失って倒れているが、腹が呼吸で上下している。

 シーシーはメイルゥの言いつけでサラを抱き上げると、彼女のそばへと寝かせた。


「コーレル……どうして……」


「さにあらず。コーレルなるは、われの個体のひとつでしかない」


 小人は――大地の精霊ノームはいつものように意見した。

 かれこれ数千年はおなじやりとりをしている。


「どうでも……いいさね」


「ふむ。急速にルツが失っていく場所を感知したと思えば、おぬしといつぞやの使い魔がやりおうておるではないか。こんな面白いものを見逃す手はなかろ」


「おまえさんらしいよ……」


 震える手でサラの背をなでる。

 ちょっとやせたか――死にかけた自分のことは棚に置いて、そんなことを考えていた。


「ワットソンとかいう蒸気屋に……ちからを貸したのはおまえだね……」


「ヘンリーのことかの。ウンディーネの頼みでな」


「おまえは……むかしから……アンディに甘い……よ」


 ようやくメイルゥが上体を起こせるほどに回復した頃、天高く色とりどりの花火が打ち上がった。


「ゴールしたか――」


 シーシーが名残惜しそうにそうつぶやくと、メイルゥは節ばった指でトンと彼の胸元を叩いてやった。


「お疲れさん……わがまま聞いてもらって悪かったね」


 シーシーは「ふぅ」とため息をひとつ。

 自慢の金髪を両手で後ろへとなでつけると、メイルゥにウィンクを飛ばした。


「お安い御用さ、マイ・レディ」


 お安い御用さ――マイ・レディ――。

 よくダニエルも言っていた。


 終わったよ、ダニー。

 メイルゥはほどよい疲労感を覚えながら、遠きあの日に思いをはせた。







「なにがあったかは存じませんが、勝負は勝負ですぞ閣下」


 騒動からほどなくして。

 メイルゥの姿は、公国初の自動車レース『シエナ・グランプリ』表彰式の場にあった。


 表彰台の一番高いところでは、カーナンバー1のアーサー・シエナ姫の燃えるような深紅の髪がなびいていた。

 終わってみればポール・トゥ・ウィン。

 二位以下に20秒以上のタイム差をつけての完全勝利だった。

 優勝杯を笑顔で掲げ、怒涛のような祝福の拍手をその身に浴びている。


 しかし公営ギャンブルとしてのレースは荒れていた。

 いかに姫騎士といえども、鉄火場の勝負師たちの目は甘くない。

 国の内外から招集された一流のレーサーたち相手に、王室の小娘が勝ち抜けるとは思っていなかったのである。

 ポールポジションを獲ったとはいえ、オッズは13枠中の9番人気。

 ハッキリいえば大穴だった。


 そして勝負といえばもうひとつ。

 メイルゥとボーモント侯爵ウォルター公とのサシウマである。


 紺碧のローブを羽織った老名士は、テカテカに火照った顔でメイルゥに勝ち名乗りをするのであった。


「もちろん。心得ているよ。あたしの資産の三分の一を早いうちに銀行を通して現金化しよう。陛下預かりになっている領地も入れれば、けっこうな額になるはずだ。十や二十の会社の焦げ付きくらいはそれでなんとかなるだろう」


「か、閣下。いまなんと――」


「おまえさんが損しようとそんなことは知ったこっちゃないがね。おまえさんが相手も考えずに商売した結果、多くの社員が路頭に迷おうとしている。そんなことサムザの母たるこのメイルゥが許すとお思いかい」


「閣下……」


「ウォルター公!」


「は、はいっ」


「よくもあたしにさんざん説教してくれたね。しかも畏れ多くも桑樹王陛下の名をうたってまでだ」


 カンっと。

 愛用の杖を石畳へと突き付けて、加齢で塞がったまぶたから鋭い眼光を送っている。


 ウォルター公は年甲斐もなくビクついた。

 それは遠い昔、幼少のみぎりに、兄王子とのいたずらを叱られたときのように。


「ボーモント侯爵。今後は貴族連中をあまり甘やかすな。つぎはない。いいね」


 勝負に勝ったはずのウォルター公は、ほうほうの体で去っていく。

 なにやら一回り身体も縮んだような印象を周囲に与えた。


「あ、そうだ!」


 いますぐにでも逃げ帰りたい。

 そんな老侯爵の気持ちを知ってか知らずか、メイルゥはわざわざすこし間をあけてから追い打ちをかけるように声をかける。

 ウォルター公は青白くなった顔をゆっくりと彼女のほうへ向けた。


「紳士録を早いとこ改訂しておくれ、ウォルター公。よしなに頼む」


 一体なにを言われるものかと身を引き締めていたらしい。

 いひひと笑うメイルゥを見て、ドッと緊張が緩んだ。

 腰を抜かせる一歩手前。

 彼はいつもの物々しい警護たちに支えられ、やっとのことでその場をあとにする。


「姐さん」


 ウォルター公が帰ったあと、すぐにジョニーがやってきた。

 着衣に乱れもなく、どうやら無事、興行の治安を保ったらしい。盛り場には、警察では手の出せない不埒者がいるのが常。彼らのようなヤクザものが抑止力となる。


「ご苦労だったね。助かったよ」


「いえ。それで姐さん、勝負のほうは?」


「うん?」


 メイルゥは懐から一枚の紙を取り出すと不敵に笑った。

 それはかなりの掛け金で購入された『カーナンバー1』の勝ち車投票券である。


「もちろん、あたしの大勝ちさ」


 自分にとって不必要な財産をウォルター公に半ば押し付け、さらにレースでは大穴であるシエナに賭ける。

 これがメイルゥの計画だった。


 実際、レースも残り10周になるまで、シーシーに三位以下の後続をブロックさせ続けていたのでシエナは一位たり得たのである。


 計画ではそのままシーシーは二位でレースを終えて、最初からシエナに優勝させるつもりであった。


 しかしサラの暴走があり、勝負は諦めかけていたのだが、意外にもシエナの実力は本物だったようである。

 試合に負けて勝負に勝つ。終わりよければすべて良しだ。


「なぁあん」


 足元では元気になった黒猫のサラが頭をこすり付けていた。

 首にはヴィンセントが拾っておいてくれた精霊石のペンダントが提げられている。


「さ、うちへ帰ろう」


 気が付けば日も陰ろうかという時刻だった。

 しかしレースの後夜祭は、まだまだこれからが本番である。

 街の賑わいは次第に高まっていき、メイルゥとサラの姿はいつの間にか喧噪のなかへと消えていった。







 なあ祖父ちゃん。

 ほんとにこの別荘、俺にくれんの?

 やったね!


 え?

 二階の部屋かい?

 べつにいいけど……じゃあ終わったころにまたくるよ。

 したにいるから、なにかあったら呼んで――。


 今年16歳になる孫に連れられ、ダニエルは高原地帯にある別荘へとやってきた。

 もはや余命いくばくもないことは自分でも気づいていた。

 だからこそ、意識のあるうちにやっておかねばならないことがある。


 車いすに座ったダニエルは、枯れ枝のような指を伸ばして、蓄音機に蝋管をセットすると、ギリギリと丁寧にゼンマイを巻く。

 この頃はそれだけでも十分に重労働だ。息が切れる。


 そしてセットした蝋管をゼンマイの動力で回転させ、ゆっくりとラッパ付きの鉄針をその表面に落とした。


「メイルゥ。この蝋管が無事、君のもとへと届くことを信じて、このメッセージを残す。すまないがあまり時間がないんだ。ふふ。ユーモアに欠けるが許しておくれ」


 それからおよそ三分間。

 彼は、自らの過ちと後悔とを訥々と語ったのである。


「こんなことを頼めるのは、君だけだメイルゥ――」


 最後のちからをふり絞り思いのたけを吹き込むと、ダニエルは蝋管から鉄針を外し、一息ついた。だが、しばらくしてもう一度だけ鉄針を蝋管へ落とすと、なんともいえない優しい表情を浮かべるのだった。



 メイルゥ。

 きみと出会えた奇跡に、私は心から感謝しよう。


 とりあえずのサヨナラだ。

 愛するきみへ。

 マイ・レディ――ふたりが精霊になったときにまた会おう。




『精霊物語りⅡ/完』

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