第8話 教育係になった魔女の弟子

 姫と初めて会った時のことは、今もはっきり覚えている。

 三年の学院生活を終え、主席での卒業を果たした俺は、お師匠様もとい大魔術師の後見のもと、宮廷魔術師として採用されることが決まった。次席のフィリップも一緒だ。

 ピートとは卒業後は一度も会わずじまいだが、手紙で近況を知らせたら喜んでくれた。

 彼から学院内の部屋ごと譲り受けた膨大な文献は、結局王宮内に丸ごと移設した。ピートが手配してくれたおかげだ。

 新米の宮廷魔術師は忙しい。

 上司や先輩から押し付けられた雑務に奔走させられて、研究の時間なんか取れやしない。

 それでも一年が過ぎて次の新米が入ると、俺たちは正式に部署に配置され、王子たちの教育係となった。

 腰の曲がった前任者によると、年寄りでは歯が立たないほどの悪ガキだそうだ。曲がりなりにも大魔術師の弟子だから、ということで任命された。

 王子たちとの顔合わせを済ませた直後、お師匠様は予定通りに表舞台から姿を消した。

 後見のいなくなった俺は、他の宮廷魔術師たちから疎まれたが、そんなものは学院時代で慣れっこだ。

 翌年、親のコネで宮廷入りしてきた弟に王子の教育係を乳母され、その代わりに弟がやるはずだった新米の雑事に奔走させられた。

 フィリップは起こってくれたが、起こったところで仕方がない。

 俺には実績も必要だが信頼も人望も必要なのだ。しかもなるべく早く。でなければ、姫のお傍には上がれない。

 だから、どんな瑣末事でも手を抜かなかった。

 そして、姫の十歳の生誕祭もそんな瑣末時に振り回される中で気が付けば終わっていたある日。

 朝いきなり筆頭宮廷魔術師に呼ばれ、何の説明もなく城の一角にある古びた塔の入口に連れてこられた。

 そこは、教育係をしていた王子の塔とよく似た場所だった。


『お前は今日から姫付きの教育係じゃ。粗相のないようにせよ』


 それだけ言い置いて、筆頭宮廷魔術師はいなくなった。護衛の兵士たちも、俺を気の毒そうな顔で見るだけで、何の説明もない。

 王子たちの教育係をしていたのが評価されたのかとも思った。

 だが、それなら元のポストに戻すのが筋だ。弟がいるからできなくて、仕方なく他の姫にあてがわれたのだろうか。

 ともあれ、誰か侍女が降りてくれば、侍女を聞けばいい。そう思っていたのだが、誰一人塔から降りてくることはない。

 兵士に聞けば、上に侍女はいないという。

 姫の居室なのに侍女が待機していないなどと、普通ありえない。

 仕方なく門を開けてもらうと、俺が入った途端に兵士は外側から閂をかけた。

 中から叩いても、許可がなければ開けられないという。許可をもらうには、姫に会うしかないのだとも。


 階段を上がり、扉をたたいたが応答はない。

 侍女がいないのであれば、姫自らが応答するのだろうか。三度叩いて取っ手に手をかければ、鍵がかかっていなかった。


『今日は馬鹿に早いの……』


 凛と通る声が響いて顔を向けると、ソファに少女が座っていた。

 流れ落ちる黒い髪、黒曜石のごとき瞳。日に当たらず透き通る白い肌。バラ色の頬にサクランボの唇。

 人形だと、思った。


『誰』


 だが、その瞳は鋭い。

 警戒しているのだろう、射殺さんばかりに睨みつけてくる。全身から迸る気配も魔力も、尋常ではなかった。

 指一本動かしただけで、俺は扉に縫い付けられていた。学院主席の俺が、なすすべもなく。

 何とか姫の教育係だと伝えれば、ようやく解放された。折れに向けられた殺気も消えている。


『そう、教育係が変わったの。……みんな、逃げるのが早いのね』


 姫は暗い目でつぶやく。

 前任者からは何一つ引き継いでいない。そもそも、この姫が誰なのかも知らない。

 だが、あの目は気になった。――家から放り出されたばかりの俺と、同じ目。彼女は、人を信用していない。


『それで、あなたは誰』


 クロード、と名乗ると眉根を潜めた。貴族であれば普通は家名を名乗る者だ。が、俺には名乗るべき家名はない。

 だからだろうか、平民上がりと思われたらしい。


『だからこんなところに飛ばされたのね』


 姫の教育係はそれほどひどい立場ではないだろう。むしろこぞって立候補するに違いないのに。こんなところ、とはどういう意味だ。


『下がって。二度とこんなところに来てはだめ』


 俺の態度が気に入らなかったのか、姫は不機嫌そうにそう言い放つと伏せてあった本を取り上げた。

 帰れと言われても帰るわけにはいかない。何より、姫の言葉が気になった。

 二度とこんなところに来るな、と言った。

 二度と来るな、ではない。こんなところに、と言ったのだ。

 十ほどにも見えない少女が言う言葉ではない。

 何より、俺を屈服させた者は、今まで誰一人いなかったのだ。

 もしかして、とはやる心を抑え込んで、俺は彼女に歩み寄った。

 彼女が手にしている本を見て、思わずくすりと笑うと彼女は唇を尖らせて本から顔を上げた。


『まだいたの』

『その本、文献にしか残っていない古い魔法陣についての論文ですね』


 微笑を浮かべてそう告げると、姫は目を丸くした。


『知っているの? こんな本、読んでいる人なんてめったにいないのに』

『ええ。――だってそれ、俺が写本したものだから』


 途端に目が見開かれた。


『うそっ! これ、王宮内の秘密の図書館から持ち出したのに?!』

『秘密の?』

『ええ。去年だったかしら、兄様から鍵と部屋の場所が送られてきたのよ』


 引っ張り出して見せてくれたものは、俺も持っている、あの部屋の鍵だった。

 彼女が目の前にいなければきっと、俺は大声を上げていたことだろう。表情が緩みそうになるのをどうにか取り繕う。

 もしかして、俺をここに配置したのはピートの采配なのかも知れない。今度何か贈ろう。


『あなたが写本したものってことは、兄様とはお知り合いなの?』

『一方ならぬお世話になった方です。――でも、授業では手心は加えませんよ』

『呆れた。……まだわたしの教育係をするつもりなの?』


 言葉とは裏腹に、彼女は眉根を寄せて申し訳なさそうに俺を見る。俺を『こんなところ』に引きとどめることが心苦しいのだろう。

 それこそ本望だ。ようやくたどり着いた。


『弟君たちの相手をするよりは楽しめそうです』

『……知らないわよ』


 そう呟いてうつむいた彼女は、少し嬉しそうに見えた。

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