第6話 エンゼルケア。
私は、この5年と半年ほど、ほとんど休まず、看護師の仕事をしてきた。
忌引き明けからの数週間、涙で満タンの心に張った表面張力は、絶えず揺らぎ、頼りないく、今にも崩れそうな状態であった。
子の死亡の場合は、5日間の忌引き休暇。親は7日間だという。
子の方が精神的なダメージは大きいのに…そう感じたものの、仕事をしている方が紛れるのではとの上司の言葉にも押され、葛藤しながらも、私は社則に従う事にした。
辛い思いと並走しながらの仕事は、感情のコントロールが出来るはずもなく、度々、控室にこもっては泣いてた日々。
忌引き明けから、2か月ほど経った頃だろうか、担当師長を講師として、病棟で10名ほどの参加で、エンゼルケアの簡単な学習会があった。
こんな時期に…。
私にとって、なんてタイムリーでしんどいテーマ…。
私は迷いに迷ったが、これからの仕事には必要な情報もあり参加することとした。
エンゼルケアとは、患者さんが亡くなったあと、故人、遺族への尊厳という思いのもと、きれいに身支度をし、できる限り元気だったころの姿で送り出すものである。また、遺族が患者の死を受け入れるケアという意味も含んでいるため、とても重要な看護処置の一つであった。装着していた医療機器のライン類を外し、身体を拭き、髪を洗い、遺族の意向にも沿うように、時には一緒に、エンゼルメイク、いわゆる死化粧を施し、衣服を整え、手を胸元で組む。
これまで、私は、何人もの患者さんのお看取りをし、エンゼルケアをさせていただき、見送ってきた。
私が看護師なりたての頃、つまり、30年ほど前のエンゼルケアは、遺体から出る体液を止めるため、灰色がかった青梅綿という綿を、鼻、口、肛門に割りばしで詰め、クレゾールという消毒液で清拭し、化粧も、本人が化粧品を持っていないことがほとんどであり、お菓子の缶などに入れた誰が使ったものかわからない化粧品を使いまわしていた。
今思えば、尊厳という言葉とは遠く、どこか流れ作業的で、粗雑で、殺伐としたものであったように思えた。
現在は、排泄物に対しては、紙おむつのみの対応で十分であり、口や鼻から体液が出たとしても拭けばいいわけで、詰め物をしなくても不都合なことは一切ない。綿を詰めることは、見た目も悪く、今は必要とはしないのが常識になっている。
また、エンゼルメイクは、ご遺族の希望があれば、ご本人の化粧品を使用することもあるが、死後の血流のない乾燥した肌に化粧をするため、エンゼルケア専用の製品がある。
この学習会では、そのエンゼルメイクの新製品を導入するにあたって、使い方の伝達も含まれていた。
紹介された製品は、ディスポーザブルで、クレンジング、マッサージクリームの他に、下地クリーム、チーク、眉墨、口紅、ファンデーションも何色かがセットされたものがあり、患者さんの肌に合わせてエンゼルメイクを施すのものであった。
同僚が、エンゼルケアのセットを手に取りながらエンゼルメイクの説明を聞く傍らで、静かに下を向いていた私に、師長が声をかけてくれた。
「里田さん、大丈夫?しんどい時に参加してくれてありがとね。娘さんの時は、お化粧どうしたの?」
「あの…娘の場合は、病院で亡くなってないので、エンゼルケアはなくて。大学病院で解剖のあと警察署に運ばれて、そこから葬儀屋さんが実家まで連れてきてくれたので、実家で、私が娘の化粧品を使って、お化粧してあげました。」
「そう、最近の葬儀屋さんはお化粧はしないみたいね。里田さん、辛かったね。でもお母さんにしてもらって、娘さん、嬉しかったと思うよ。」
そう言った師長の声に、涙をこらえながら、私は学習会で交わされる声々を聞いていた。
しかし、気が付くと私の頭の中は、目の前の学習会の景色はしだいに薄れ、映像が上書きされるように、5年前の実家の光景が支配していた。
9月12日の夕方の実家。
畳の上に、白い着物を着せられ、目を閉じ、まっすぐ横たわっている娘。地模様の光沢のある白い布団が被せてあり、顔に掛ける布は、顔の横に添えられていた。
私は、香里の髪をそっと撫でた。
すると、香里の後頭部の下あたり、枕にかけてある白いタオルが血で滲んでいるのが目に入った。
死体検案書の文字が浮かんだ。
そういうこと…なんだよね。そういうこと。頭も、開いたんだよね…。
きついな…。
恐るおそる、後頭部の髪も撫でた。
「痛かったね。辛かったね。」
そして香里の頬を摩った。
冷たい…。
「寒いよね。可哀そうに。風邪ひいちゃうね。」
私は、涙をぽろぽろ流しながら、そう香里に声をかけた。
香里の顔を見ると、浮腫みや、うっ血した紫色の肌、額の血腫が少し引いて、私は、香里の本来の顔に近づいていたことに少し安堵した。
「香里、腫れ引いて良かったね…。お化粧、しようか。」
香里のポーチから化粧品を取り出した。
私は、香里の冷たい肌に、丁寧に化粧をした。少しでも紫の肌を隠したくて何度も何度もファンデーションを塗りこんだ。
そして、慣れない化粧道具を手に取った。
「香里、ごめんね。ビューラーとかマスカラなんて、お母さん付けないから、下手だけど許してね。口紅ピンクがいいかな。」
そう話しかけながら化粧をしていると、着物の胸元から、ぐるぐると晒が巻いてあるの見えた。布団が少し盛り上がっており、組まれた手だけではなく、ドライアイスを腹部と胸に置き、晒で固定してあるとのことだった。
腐敗を防ぐため…。
生命がもう香里の身体に宿ってないことを示していた。
人としての姿を保つための処置。
分かっている。分かっているが…。
目の前のするべき事をこなしながらも、香里の死を受け入れがたく、私の中には強い否定も混在していた。
ポーチの中には、マニキュアも。
そうか、爪も…。
布団をそっとめくった。
蒼白の上に紫色を重ねたような爪の色。
香里はこんなんじゃない。
とにかく、死の印象を隠したかった。
「これも、ごめんね。マニキュア上手く塗れるかな。香里怒らないでね。」
返事のない香里に、そう声をかけながら、冷たく硬くなった指をほどき、サーモンピンクのマニキュアを塗った。
香里、きれいになったよ…。
香里の血色のいいきれいな頬は、まるで眠っているようだった。
そうこうしていると、綾が、神妙な面持ちで来てくれた。
言葉もなく、私の顔を見て泣きながら、抱きしめてくれた。
綾は、横たわっている香里の枕元に座った。
「眠ってるみたい。なんか信じられないわ。二十歳なんて、早すぎる。こんな急に。美恵、食事食べてないんでしょ。少しは食べないと。」
「ありがと。でも、今は無理。食べたら吐いてしいそうで。」
「そう思って、これ、いつも店で飲んでる珈琲持ってきたから、せめてこれ飲んで。」
綾が淹れたペットボトルの珈琲を渡してくれた。
「ありがとう。綾。飲ませてもらうね。」
「里田さん。」
師長の声で、スタッフの顔が視界に広がった。
当時の映像が鮮やかに蘇っていた私の涙の表面張力は決壊、とうとう大泣きしてしまった。
私は、参加メンバーに謝りながら、学習会を途中退席した。
周囲のスタッフは、私が控室で泣いていると、そっとお茶を差し出してくれたりと、気を遣ってくれている日々。
また、看護業務の中で、高熱の前駆症状である悪寒戦慄とともに、手足のチアノーゼの症状を呈した患者を目の当たりにした時、香里を発見した時の光景がフラッシュバックしてしまうこともあった。
この状態で、私は看護師の仕事を続けられるのだろうか。
自分の娘を救えなかったのに、赤の他人を救っている。そんな娘への罪悪感に苛まれると同時に、そんな考えでいる自分が看護の仕事をするのは間違っているのでは。目の前の患者に対しても、酷いことしているのではないかと、悩みながら仕事をしてきた。
それでも、奥底に煮え切らない思いを抱えたまま、医療現場の多忙さの急速な流れに逆らうこともできず、あっという間の5年。
目の前の命を救うことに、自然と体は動いてしまうという看護師としての使命感みたいなものがある。もちろん、それは誇れるものではある。
ただ、今でも、患者の点滴処置をしながら、『娘を救えなかったのに、私はこうやって、他人の患者を救おうとしている』と頭を過ってしまうのである。
ナイチンゲールの言葉でもあるように、『子を失う親のような気持ちで患者に接することができない、そのような共感性のない人がいるとしたら、今すぐこの場を去りなさい。』
肉親だろうが、他人だろうが、命に差別をすることは決してあってはならないこと。
私の考えは汚れているのかもしれない。
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