第三話 ハイパーソムニア
いつも通りの時刻にドアチャイムが鳴り、皿を洗う母さんが二階に向かって叫んだが、今朝は二度目が鳴っても三度目が鳴っても妹が降りてこない。
「テッちゃん、ちょっとネムを呼んできて」
「うん」
食卓から立ち上がって階段へ向かう。
ドアノブを押してしまったあとでノックしなかったことに気づき、着替え中だったら殴られるかな、と思ったが、ベッドの中のネムは二度寝した形跡もなく、目覚まし時計のアラームさえ鳴らしっぱなしでぐっすり眠っていた。枕元に近寄り、アラームを止める。
「ネム、遅刻だぞ」
「ふにゃ……」
「友達来てるぞ」
ベッドカバーを
「ほら、遅刻ー!」
「んぅー……なにすんだクソ兄貴!!」
俺はみぞおちに強烈なのを一撃もらって呻いた。
時計を見るや大慌てで支度を始めた妹のことは放っておいて、俺は俺の身支度を済ませると玄関を出た。一応、玄関先でネムを待っている後輩に「あいつはすぐ来るから」と声をかけておく。アマテラ・カガミ……。妹は「カガミん」と呼んでいるが、週末には必ず遊びに来るし、どこへ出掛けるときもネムと手を繋ぎ、普通の友達にしては、なんだかベタベタしすぎな気がする。可愛い子に限ってそっちの
カガミは少し困ったような顔で会釈した。
昼休みの俺は弁当を急いで掻き込み、眠気に負けないうちに……と、図書室の端末で単語検索をした。哲学の本がヒットしたので、夢で見た単語がドイツ語と分かり、独和辞典からメモを取っていると、コージがやってきた。「珍しいな。校庭に行かねーの?」と言いつつ、俺の手元のメモを覗き込む。
「ヴォ、ヴォル……?」
「フォアシュテルング。こないだ夢で見たんだ。表象って意味らしいけど、それが分かっても今度は“表象”がどういうことなのかがよく分からない」
「こっちは?」
「ソムヌス。ドイツ語じゃなくて、ローマ神話に出てくる眠りの神」
「……なーんだ、俺が遊んでるあいだに受験勉強してんのかと思ってビビったじゃねーか。ドイツ語ってカッコイイのは分かるけどさ、中二までにしとけよ?そういうの」
「うるせー。ほっとけ」
普段から哲学や神話に関心があったわけじゃない。巨大ロボットだって、そりゃあ男の子の例に漏れず日曜の朝とかはテレビに釘付けだったものだけど、ダイキャストのおもちゃをクリスマスにねだったのも昔のことで、アニメも特撮もとっくに興味の外だった。夢の世界はどんなに荒唐無稽でも記憶を素材にして組み立てられているそうだが、俺の場合、明らかに記憶にも経験にもないはずのものが登場している。フォアシュテルング……表象という名前のロボットに乗って、俺は眠りの神と戦っている。フォアシュテルングは俺の意思と関係なく、ソムヌスを倒せと言ってくる。なんで俺なんだ?いくら考えても夢の意味が分からない。フォアシュテルングって、ソムヌスって、何なんだ?
その日の午後の授業では教室の空気がなんだか妙に澱んでいて、俺より先に居眠りを始めた奴が何人もいた。先生はときどきクラスメートを指名したりして喝を入れていたが、先生自身、必死に眠気をこらえている様子だ。そんな中で遠慮なく眠りに落ちてみれば、今回は夢の舞台も学校だった。
妹のクラスメートのはずのカガミがなぜか俺のクラスにいて、休み時間なのか、いつも妹にやっているようにじゃれついてくる。後ろから抱きつかれると、制服越しに膨らみかけのおっぱいの柔らかさが感じられて(もちろん実物の感触など知るはずもない)恥ずかしいやら嬉しいやらだが、予想外の好意を一方的に寄せられながらも、不用意な言動でカガミにそっぽを向かれはしないかと心配でたまらなかった。恋愛感情なんてものは、しょせん恋する側の妄想だ。生身の俺が好きなんじゃなくて、カガミが頭の中に作り上げた理想の俺を好きになっただけだから、もしも俺が理想と違うことを言ったりやったりしたら、カガミは冷めて離れてゆくだろう。ただ離れてゆくだけでなく、ホシヅキヨ先輩はひどい男だと友達に言いふらすかもしれない。勝手に期待したあげく勝手に幻滅されても困るのだが、そういうことが何度かあったせいで、俺は誰かに好かれるのが、嫌われるのと同じぐらい怖かった。
カガミにまとわりつかれながら、ふと窓の外を見ると太陽があった。しかし変な感じがする。遮光グラスを着けてもいないのに太陽の輪郭がくっきり見える。太陽は欠けているが、日蝕というわけでもなく、虫食いみたいな不自然な形。少なくとも見た目にはそうだったが、欠けた部分にでこぼこした巨大な宇宙船がいるのだと直感した。ソムヌスの宇宙船……?ともかく、今回の夢では目覚めるまで敵に襲われることはなく、フォアシュテルングも現れなかった。
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