★化け物バックパッカー、五月人形の舞いを見る。

強くなれと願いを込められたこいのぼりは、ヒモに繋ぎ止められて泳げない。



 空という名のオレンジ色の水面には、主に雲が浮かんでいる。


 時々飛行機が通るが、地上から見れば小さすぎて小魚に見える。


 それならば、風に吹かれるこいのぼりは深海魚なのだろうか。




 子供に強く育ってほしいと願いを込められ、ポールにつなぎ止められたこいのぼり。


 彼らは期待に応えようとして、一生懸命に空を泳ぐ。


 しかし、ポールにつなぎ止めるヒモははずれず、


 空に浮かび上がるところが、横にすらも動けない。


 それでも、ただひたすら泳ぎ続ける。


 強くなるために。





 川沿いの芝生に、ふたりの人影があった。


 川を背に立っている人影のひとりは、付近の民家から見えるこいのぼりを眺めていた。


 その人影は黒いローブで身をつつみ、顔はフードでよく見えない。

 わかるのは、女性らしい体つきに、背中に背負った黒いバックパックを背負っていることだけだ。


「“タビアゲハ”、なにか気になるものがあるのか?」


 その隣で川に向かって腰掛けている人影が、振り向きもせずにたずねる。

 その人影はショートヘアーにショッキングピンクのヘアバンドを付けており、黄色いダウンジャケットを羽織っている。その背中には、ローブの人影と同じものであるバックパックが背負われている。


「坂春サン……アレッテ、コイノボリ?」

 タビアゲハと呼ばれたローブの人影は、どこか人間ではない声で民家のこいのぼりを指さした。その指も鋭く、肌は影のように黒かった。

 それをまるで異様と思わないように、もうひとりが振り返る。

 その人物は老人で、顔が怖い。

「ああ、こどもの日が近くなったからな」

 坂春と呼ばれた老人はタビアゲハの指の先のこいのぼりを見つめてうなずいた。

「コドモノ日ッテ、コイノボリ以外ニハナニガアルンダロウ……」

「こどもの日といえば真っ先に思いつくのがこいのぼりだが、かしわ餅などもこどもの日ならではだな……」

 坂春の左手には水筒が、右手にはプラスチックの容器があった。口元にはあんこのかけらが付着している。

 その話を聞いたタビアゲハは納得したようにうなずく。

「ダカラ坂春サン、カシワ餅ヲオ店デ見タ時、ウキウキシテイタンダネ」

 唇に右手を近づけて笑うタビアゲハに対して、坂春は怖い顔を赤くした。

「ごほん、あれはこどもの日に安売りをしていたから喜んでいたのであってな……えー、こどもの日は食べ物だけじゃないぞ。こどもの日には、家の中に……」


 坂春は説明を止めた。


 フードからはみ出て見えるタビアゲハの口から笑みが消えていたからだ。


「坂春サン……アレ……」


 タビアゲハが指さしたのは、川だった。


 坂春が振り返ると、川に黒い液体が水に溶けた墨汁のように浮かんでいる。


 その中に、1本の腕が浮かんでいた。





 タビアゲハは川の上流の方向に向かって走り始めた。


 その先には、川と川をつなぐ橋。


 橋の下には、舞い踊るひとりの人影があった。


 人影は全身がオレンジ色の五月人形のよろいの姿をしている。それは本物の鎧ではなく、鎧の形をした肉体というべきか。表面は皮膚呼吸をしているかのように脈動していた。

 その右手には刀を握っており、左手は……なかった。舞いとともに、墨汁のように黒い液体をまき散らしている。




「タ……タビアゲハ、やっぱりもう少し遅く走ってくれないか……」


 舞う五月人形を見ていたタビアゲハの後ろから、坂春が息を切らしながらやって来た。

「……!!」

 ふたりに気がついた五月人形は舞いを止めて刀を構える。鋭い視線をふたりに向けるその目玉は、かぶとの中のひとつしかなかった。

 まるでふたりを警戒しているかのような五月人形の構えに対して、坂春は顔を上げるも表情を変えることはなく、タビアゲハは不思議そうに口を開けるだけだった。


「ネエ、アナタッテ……“変異体”デショ?」


 タビアゲハの奇妙な声に、五月人形の構えが緩くなった。


「ソノ声ハ……」

 タビアゲハよりも低くくぐもった奇妙な声に対して、タビアゲハはうなずいた。

「ウン、私モ変異体」

「……隣ノジイサンハ?」

「一緒ニ旅ヲシテイルノ」

 息を整え終えた坂春は、何も言わずにうなずいた。

 五月人形はゆっくりと刀を府所のさやに仕舞うと、ふたりに向かって手招きをした。




「拙者ニナニカヨウカ?」

 橋の下に入ってきたふたりに対して、五月人形は右手を腰にあててたずねた。

 ……左腕なき左肩から、黒い液体をまき散らしながら。

「あ……特に用はないんだがな……さっき川に変異体の腕が流れていたから、慌てて来たんだ」

「本当カ!? ナラバ、早ク助ケニイキタイノダガ……コノ格好デハ……」

「ネエ……左腕、ドウシタノ?」


 タビアゲハに指摘されて、五月人形は目を丸くし、自身の左手にようやく目を向けた。




「……舞ッテイルウチニ、ウッカリ切ッタミタイダ……」




「……」「……」


 橋の下で、沈黙が続いた。




 左腕からあふれていた黒い液体が止まると、タビアゲハが話しかけ始めた。


「ネエ、ドウシテ刀ヲ持ッテ踊ッテイタノ?」

 タビアゲハは五月人形の腰の刀に目線のようなものを向けて首をかしげた。

「……強クナルタメニ、刀ノ修行ヲシテイル」

「ドウシテココデ修行スルノ?」

 五月人形はまぶたを閉じ、橋を見上げる。

「拙者ハ元々、人間ダッタ。シカシ、アル日コノヨウナ姿……変異体ノ姿ニナッテシマッタノダ」

「それじゃあ、人目につかないようにここで修行しているわけか」

 坂春の推測に対して、五月人形は首を振る。

「イヤ、カツテハ家族トトモニ逃亡ノ旅ヲ送ッテイタ。シカシ、ソノ家族トモハグレテシマッテ……コウヤッテ、家族の元ヘ戻レル機会ヲウカガッテイル」

「そうか。しかし、その機会とやらは訪れるのか?」

「アア、ソロソロ近イヨウナ気ガスル。コノママ風ガヨリ強クナレバ、ソノ時ダ」




 まぶたを開き、「巻キ込マレルンジャナイゾ」と五月人形は再び躍り始めた。


 納得したように立ち去ろうとする坂春のバックパックを、タビアゲハは呼び止めるようにつかんだ。

「ネエ、モウ少シ見テイコウヨ」

「そうは言っても、さっきの腕が川を流れていたらいずれは人が来てしまう。騒ぎが起きる前に立ち去った方が賢明だと思うぞ」

「大丈夫ダヨ。コノ人ノ言ッテイル通リ、モウスグ立チ去リソウダシ。ソレニ万ガ一騒ギニナッテモ、コノ人ニ驚イテ逃ゲルフリヲスレバ、私ト坂春サンハ騒ギニ巻キ込マレナイ」


 舞い降りながら話を聞いていた五月人形は、一瞬だけバランスを崩した。


「……おまえ、そんなことを言う性格だったか?」

 眉を潜める坂春に対して、タビアゲハはクスクスと口に手を当てて笑った。

「マンガイチノ話。デキレバアノ人モ無事ニ逃ゲテ欲シイカラ」




 舞いに巻き込まれない位置にふたりは座り込み、五月人形の舞いを観察し始めた。


 タビアゲハは舞いの一瞬一瞬を見逃さないように、視線のようなものを五月人形に向け続けていた。その視線のようなものは、見るというより感じるといった方が近い。

 一方、坂春は最初こそは見ていたものの、次第にまぶたが下がりはじめ、あくびをするようになり、ついに居眠りをしてしまった。


 


「ソコノ変異体、ソノローブハドウヤッテ手ニ入レタ?」


 五月人形は舞い踊りながら、目線を向けずにタビアゲハにたずねた。


「コレ? 隣ノオジイサン……坂春サンニモラッタノ」


「ソレマデハドウシテイタ?」


「路地裏デ、ズット1人デイタ」


「ソウカ……ヤハリ、強インダナ」


「ヨクワカラナイケド……ソウイエバ、ドウシテ強クナロウトシテイルノ?」


「ドウシテ強クナルノカ、拙者ハ、諦メズ時ガクルマデ待ツコトダト思ウノダ。弱ケレバ、諦メテシマウカラナ」




 そこまでいって、五月人形は目を見開いた。


 地面の草が舞い上がり、川の流れにそって舞い上がる。


 タビアゲハのローブの裾が揺れ、坂春はダウンジャケットの揺れによって目が覚める。




 それでも五月人形は舞いを止めず、


 しかし、明らかに踊り方は変わっている。




「先ホドマデハ、舞ウコトヲ辞メヨウト思ッテイタノダガ……」




 五月人形は刀を鞘にしまい、構える形で停止した。




「オマエノローブヲ見テ、ヤル気ガ出タヨ」




 その鞘から、居合い切りが放たれた。




 刀の先から、1本の衝撃波が飛び出す。




 その衝撃波は複数に分裂したかと思うと、それぞれ別方向に進行方向を変えた。




 衝撃波たちが向かうのは、民家のこいのぼりをつなぎ止めるヒモだ。






 つなぎ止められたヒモから解放され、




 こいのぼりたちは、風に乗って舞い上がる。




 それに向かって五月人形は走り出し、橋の下から抜け出す。





 足に力を込めると、




 空高く飛び上がり、




 体をこいのぼりの形に変形させた。





 人々が集まり出す直前、こいのぼりに変形した五月人形は、



 


 自身より一回り大きいこいのぼりに入り込み、姿を擬態した。






 子供に強く育ってほしいと願いを込められ、ポールにつなぎ止められていたこいのぼり。


 彼らは期待に応えようとして、一生懸命に空を泳ぐ。


 つなぎ止めるヒモは、もう断ち切られている。


 川の流れにそって、それでいて自身の力を振り絞る。


 まだ海面は遠い。それでも、ただひたすら泳ぎ続ける。


 強くなるために。







 橋の下で見物した坂春とタビアゲハは、




 こいのぼりの大群が見えなくなると、川の上流の方向へと歩き始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る