-274点の世界

朝倉神社

第一章 森の少女と元男爵令嬢

第1話 森の生活

 瞼の上をくすぐる様な光に瞼を押し上げる。


 樹々の隙間からこぼれる光が顔に降りかかっている。キトリーは体にかけていた毛皮の毛布を引きはがし、半身起こした。冷たい空気にぶるっと身を震わせる。


-上がったみたいね。


 2日間降り続けていた雨を思い心の中で言葉にする。目覚めてしまえば行動は早い。光の差し込んできた洞窟の入り口へと向かっていく。ごつごつとした岩肌の大地を指先で確かめる。長いこと裸足で過ごしたおかげで、足の裏の皮は厚くなり多少の小石程度では痛みをおぼえることもない。


 着ているものも服とは呼べない代物だ。毛布にしていたものとは獣の種類は違うが、それが動物の皮で作られた簡素な、大事な部分を隠すだけのしろもの。腰の周りと胸の周りに巻きつけて、落下しないように留めてあるだけ。


-別に誰もいないんだけどね。


 そう思うけども、なんとなく服のようなものを身に着けるのはこれまでの習慣なのか、女であるがゆえの羞恥心なのか本人にもわからない。


 洞窟の先で日光を全身で受け止めて、光を味わうようにゆっくりと深呼吸をする。たっぷりと時間をかけて三回。それが終わると、体をゆっくりと動かす。カメの歩みあゆみよりも遅く、全身の筋肉と関節の状態を一つ一つチェックしていく。それが朝の日課だ。


 自然の中の生活に、彼女を急き立てるものは何もない。日が昇れば起きて、日が沈めば眠る。日中の予定もとくにはない。思いついたことを思いついたときにやるだけだ。


 だから、朝の日課もたっぷりと時間をかける。


 体が温まってきたところで、彼女は洞窟の中に戻ってくる。洞窟はかなり深い。奥に行くには明かりを必要とするため、彼女が自分の「部屋」としているのは、光の届く入り口付近だけだ。そして光の届かないエリアを倉庫と呼ぶ。


 彼女は部屋の中の一角にある、食在庫の前で腰を下ろす。黒色をした半球状のボールが5つ並び、上に木の板の蓋がしてある。その横には同じ半球状のものがいくらか重ねておいてあった。キトリーがヘルメットアントと呼ぶ体の大きさが彼女の腰あたりまである蟻型の魔蟲のものだ。頭の上にヘルメットのようなものをかぶっているので彼女がそう名付けたのだが、彼女はこれを重宝していた。


 保存容器としてもすぐれているし、火にも強いため鍋代わりにもなる。個体差はあるが20~30回は使用可能だ。それに、さほど強い魔蟲でもないし、一度に10匹くらい狩れるのもいいと彼女は思う。


 左の保存容器の中に入っていた燻製肉を取り出して犬歯で噛み千切る。


-やっぱりそろそろ追加がほしいところね。


 容器の中に残っている分はあと数日で無くなってしまいそうである。ほかの容器に入っているのは、保存の利く木の実や薬草のたぐいだ。冬が明け、森の中にも春の恵みが増えてきているので、獣を狩るのも難しくはないだろうとキトリーは考える。獣がいなくても、木の実や春の山菜が生えている場所には見当がついている。


 この森に、洞窟に、住み着いてからすでに3度の冬を越していた。どこに何があるかは脳内の地図に刻まれている。


-今日はあそこに行こう


 雨上がりの日に地面から顔を出す山菜の群生地を思い浮かべる。収穫物を持ち帰れるように蔓を編んで作った籠を手にとり、狩りに行くための準備も行う。携帯食料に水筒に薬草、獲物を仕留めるためのお手製のナイフに短槍。いざとなればそれで魔物や魔蟲とも戦う。


 森に住むようになってから覚えた狩りの技術だが、今ではそれなりに手慣れてきた。体中に傷跡はあるが、そのどれもが古いものだ。腕が上がってきたことを意味することに他ならない。もちろん、17歳の女の子の体に傷跡が無数残っているというのは、古い新しいにかかわらず問題だが、本人はまったく気にしていなかった。


 洞窟を出ると、真っすぐ北へと向かう。ほとんどは鬱蒼とした森だけれども、彼女が歩いているところだけは、道らしきものになっている。毎日ではないが何度も通った場所は草が踏みつけられて通路を形成する。抜けた先にあるのは一足飛びに飛び越えられる程度の小川。二日分の雨で増水しているものの、危険を感じるほどでもない。中が空洞になったユルの木に穴をあけて作った手作り水筒に水を補充する。ついでに口を潤して顔を洗う。


 冷たい水が気持ちいい。


 川を飛び越えてその先へと歩を進める。


 冬の残滓は朝の冷え込みと、木陰に残る僅かばかりの白い結晶。それも昨日の雨であらかた流されている。ぬかるんだ大地を踏みしめながら進む足取りは軽い。


 春は好きだ。

 気温が暖かなのもいい。

 森からいなくなっていた動物や虫たちが戻ってきてにぎやかになるのもいい。

 何よりも新緑の香りが気に入っている。


 森のあちらこちらに白や黄色、紫、ピンクといった小さな花が顔を出し始めているけども、キトリーは若い芽の力強く瑞々しい緑がお気に入りだった。人の高さくらいの低木の新芽をいくつか摘み取る。鼻先にくっつけるとほのかに甘い香りが感じられる。


-帰ったらこれでお茶を入れよう。


 自然とほほが緩んでいる。


 これはいい、これはだめ。これはもうそろそろかなと。鼻歌交じりに森の中を歩きながら木の実や果実の大きさや色付き、葉っぱの成長具合を確かめながら摘み取れる時期や、その味を想像しているとウキウキとした気分になる。


 森で暮らし始めたころは、食べられるものと食べられないものと、それらの仕分けで必死だった。何度お腹を下して死にそうになったのか、数えられないほどである。それが今では、初めて見る植物でも、舌先に乗せるだけである程度は毒性を判断できるようになっている。どんな場所にも人は適応できるのだなと感心する。


 小さな黄色と黒の縞のようになった花の下、白いラインが地面に引かれていた。しゃがみこんでみてみると、白い線は小さなオレンジ色のアリが背負った白い粒だとわかる。一定の間隔をあけてずっと続いている。


-今日はついてる


 彼女は無意識に右の太ももを一撫でする。

 列をなす塩蟻の群れから一匹摘まみ上げると、キトリーは口に放り込んだ。塩気を感じる。間違いない。これは塩蟻だ。味を確認したところで、蟻は口から吐き出した。食べられなくはないが蟻自体はかなりの苦みがあるし、それほど強いわけではないが毒性があるのがわかっている。


 塩蟻の経路を逆にたどっていくと、一本の木が森の中に浮かび上がった。キトリーの太もも程度の幹がまっすぐに伸び、はるか頭上に一枚だけ大きな葉っぱをつけている。正確には木ではなく、大きな葉っぱなのかもしれない。


 幹か茎かはわからないけども、青みがかった深い緑色の一部に水滴がつき、白い斑点のようなものが出来ていた。


 それが塩なのだ。


 山で暮らしていて困ったのが塩分の補給だった。人は塩と水があれば2週間でも3週間でも生きられるというが、肝心の塩がなかった。海辺であれば海水から塩を取り出すこともできただろうけども、森の中ではそれもままならなかった。そんなときに見つけたのがこの塩の木だった。


 どういう仕組みかキトリーも知らない。ただ、木の幹が汗をかき、乾いた後には白い結晶が生まれる。それが純粋な塩なのだ。塩蟻はこの塩を求めて森の中を群れを成して行軍する。塩の影響なのか、この木の周りにはほかの植物は生えない。だから、一本だけ森から切り離されたように忽然と現れる。


 キトリーは他に2本、塩の木の生息場所を把握している。これは三本目の発見だった。毎日歩いている森の中でも知らない場所はまだまだあるのだと思う。新たな発見に心を躍らせながら、かごの中から小さな目のトニの木の空容器を取り出して、塩を必要な分だけ詰めていく。必要な分だけあればいい。この塩はきっとこの森の生態系に影響を与えている。取りすぎれば、最終的には自分に返ってくるということを理解している。それが森に生きるということ。


 塩の木を離れたキトリーはもう少しだけこの先を散策してみようと思う。また新たな発見があるかもしれない。


 浮足立っても、彼女は決して油断はしない。それもまた森の中で生きる掟のようなもの。最初のころはそれで何度も足元をすくわれている。


 数日ぶりの食料となる木の実を発見して気持ちが高ぶり我を忘れて食べているところを、ツノトカゲに襲われたのだ。彼女はそれ以来、いいことがあると右足の太ももをそっとなぞる癖を作った。自分自身への戒めだ。


 しばらく歩いたところで、お目当てのものを発見した。


 ぬかるんだ地面からひょこひょこと顔を出す、小さな葉っぱが何層にも重なって、丸いボール状になったトボという葉だ。表の葉を数枚はがして、内側のまだ柔らかい部分をちぎり取る。


 一つ、二つ、三つ。


 塩を振って炒めるとほろ苦さが癖になるのだ。残っている燻製肉と混ぜてもいいかもしれない。それに、触感のいい木の実をいくつか混ぜてみようか。森の中では料理と呼べるほどちゃんとしたものを作ることはできない。でも、産地直送の取れたて新鮮な食べ物に余計な手間をかける必要などないのだと思う。素材の味を楽しむ贅沢がここにはある。


 日持ちのするものでもないし、摘んだ瞬間から鮮度が落ちて苦みが増していくことを知っているので、今夜の食事に十分な量で採集を終わらせる。


 と、先客がいたらしいことに気づいた。


 少し離れた場所にある地面から顔を出すトボの葉のいくつかが食いちぎられている。慎重に忍び寄ると、食いちぎられた葉っぱの表面をなぞった。葉っぱについた唾液を指先で確かめる。朝の気温で急速に冷やされているけども、唾液と葉っぱではほんの僅かな温度の違いがある。ここで食事した獣はまだ遠くにはいっていないことの証にほかならない。


 雨でぬかるんでいるおかげで、足跡もくっきりと残っている。二股に分かれた蹄の足跡。右足と左足の間隔から、獣の幅を。前足と後ろ脚の間隔から、体長を。足跡の深さから体重を推し量る。


 おそらく体高がキトリーの腰あたり、体重は3倍以上はあるかなと推測する。蹄の形から、長い鼻と短い牙、二等頭のずんぐりとした体形が特徴のエイプルという野獣だと思う。農村で飼育されることもある一般的な肉用の獣。飼われているエイプルと比較すれば、多少の獣臭さはあるものの、かなりおいしい部類に入ると思う。


 -今日は本当についている。


 右足の太ももを軽く撫で、左手のかごを地面に置く。右手に持っていた短槍を順手から逆手に持ち替える。姿勢を低くしたまま地面の感触を確かめつつ足跡をたどる。気配の殺し方も、音を立てない走り方も両親から学んだものだ。教えられた理由と森で暮らし始めた理由の皮肉さは笑うしかない。


 木々の隙間に目標を捉えた。予想通りエイプルだ。大きさも想像通り。一撃で仕留めるには少々大きいとは思うが、決して届かないとは思わない。


 低木の陰に隠れるキトリーにエイプルは気づかない。鼻先を地面にぐりぐりと押し付けて、地面を掘っているように見える。土中の虫か何かを食べているのだろう。


 まだ、距離が遠い。


 ギリギリ射程圏内ではあるものの、命中精度を考えるともう少し距離を縮めたいと思う。慎重に動く。キトリーの足の裏は、目で物を見るように地面の様子をキトリーに伝えてくれる。地面の湿り気、土の性質、落ち葉や枯れ木、小石、虫、すべての情報を感じ取りながら一歩ずつ、森と同化して近づいていく。


 この辺が限界かなとキトリーは短槍を肩の上に担ぐようにして構える。足は前後に肩幅大きく開く。森の呼吸に合わせて、”狩る”という気持ちはまだ心の奥深くにしまい込む。呼吸は決して止めない。あくまでも森の一部になることを優先する。


 自分の鼓動、鳥の声、虫のざわめき、風の歌。


 全にして一。


 しばらくすると、体が森の一部として溶けていく感覚を覚え、そして完全に沈み込む。全身を鞭のようにしならせて、引き絞った弓が矢を発射するように、鋭く短槍を放った。振りぬいた後の右手が近くにあった葉っぱをほんのわずかに叩く。


 小さな小さな音。


 だけど、それは確かにエイプルの耳に届く。視線を向け、慌てて走り出す。 短槍はすでに放たれている。


 エイプルが動き出すとほぼ同時に、鋭い切っ先が横腹に突き刺さった。


 ギュイィーと悲鳴が上がる。


-ごめん


 即死させてあげられなかったことを心の中で謝罪する。絶命には至らなくても、十二分に致命傷を与えている。いずれは力尽きるだろう。だったら、一刻も早く楽にしてあげるべきだ。彼女は腰につけていた紫紺のナイフを抜き、駆け出した。


 エイプルは腰をくねらせて、体に刺さった槍をへし折ると、痛みに無我夢中で森の奥へと走り出す。致命的な攻撃を受けていても、まだ生存本能は残っている。


 ずんぐりとした体形からは想像がつかないほど早い。小さな足をちょこちょこと動かし、木々の間を走り抜けていく。時折苦しそうな声を上げるのを耳にして、キトリーはますます申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ナイフを腰の後ろに戻し、革ひもで作ったスリングを取り出す。


 走りながら足元の小石を拾い上げ、セットするとくるくると回し始めた。槍を投擲したときと比較すれば距離は縮まっているが、それでもまだ遠い。スリングの一撃は小石といえども馬鹿にできないが、エイプルのサイズを思えば、胴体に当てたところで大したダメージを与えられるとも思えない。


 ゆえにキトリーは足元を狙って小石を放った。スリングの遠心力を生かした小石の弾丸は、十二分の破壊力を込めてエイプルの胴体を直撃する。小さな悲鳴が上がる


 一瞬の停滞。


 しかし、エイプルの走りは止まらない。走りながらという点を踏まえると、当てただけでもキトリーのスリングの技術の高さがうかがえるが、それでも足りない。キトリーはさらなる小石をセットして、木々が邪魔にならない間隙を狙って投石する。2度、3度、徐々に距離をつめていきながら、投石を繰り返す。


 都合6度目の投石がついに後ろ脚を強打し、エイプルの体が転がった。立ち上がるよりも早くキトリーはエイプルに接近し、後ろのナイフで首の下を切り裂いた。


コポコポと血が拍動に合わせてあふれ出てくる。


-ごめんね


 次第に力を失っていくエイプルの目を見ながら、キトリーは二度目の詫びをする。時間をかけすぎた。余計な苦しみを与えてしまった。生きるために獣の命を絶つことを悪いとは思わない。でも、苦しみを与えることは別の話だ。


 もっと練習をしないと、と思う。


 近くの木に絡みついているツタを切り落とし、引っ張って必要な強度があることを確認する。エイプルの足首に結び付けて木の幹に引っ掛けるようにして、全体重をかける。倍以上の重さがあるので、持ち上げることはかなわないけども、ほんの少しだけ位置をずらして頭が下に来ればそれで十分である。


 ナイフで切り裂いた部分からどんどん血が流れ出ていく。


 だいぶ離れてしまったなと思う。血抜きして内臓をすべて捨てたとしても洞窟まで運ぶのは易々とはいかないだろう。食べるところの少ない頭部を切り落としてしまうか、それとも、ここである程度バラした方がいいだろうか。


 逡巡していると、キトリーの耳は微かな人の声を捉えた。


 彼女の生活圏は森の中とはいえ、それほど人の領域から離れているわけではない。森は奥に行けば行くほど、凶暴で大型の魔物が生息している。なので人里からある程度の離れていて、且つ凶暴な魔物のいないエリアから出ることはない。


 エイプルを追いかけているうちに随分と人の領域に近づいてしまっていたらしい。失策に頭を抱え込みたくなるが、問題は無いと考える。


 しかし、それは微かにしか聞こえなかった声に女性の甲高い悲鳴が混じったことで大きな後悔に変わる。獲物をあきらめてでもこの場を離れておくべきだった。


 ちっと舌打ちする。


 悲鳴と認識してしまった以上、無視することはできない。

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