田圃一本道【短編】

疑わしいホッキョクギツネ

田圃一本道【短編】


 黄昏時である。太陽は西の彼方に沈んだが、空はまだ少しだけ橙色を残している。


 貴子は佐々木と並んで、沈んでしまった太陽に向かって田圃道を歩く。貴子の家までは十五分程度かかる。佐々木の家はどこにあるのか知らない。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


 放課後、学校の近くに猫の轢死体が道の端に横たわっていた。貴子が途方にくれていたら、後ろから佐々木が声を掛けきた。


「それ、猫? 死んでんの?」


「うん。たぶん……」


 佐々木は死体の近くにしゃがみ、顔を近づけた。


「うお。虫が湧いてる。貴子は見ない方がいいよ。グロいから」


「ちょっと見えたし」


「ああ、そう。俺一回学校戻ってタオルとか持ってくるから貴子はここで待ってて」


 佐々木は振り向いて貴子の目を見て言った。


 佐々木はそのまま踵を返し学校に戻ろうとする。


「待って。私が行ってくるよ」


 貴子が引きとめると、佐々木は笑顔で言った。


「いいって。貴子は現場保存よろしく。くれぐれも部外者を立ち入らせないでくれよ」


 貴子はその笑顔に安堵を感じた。佐々木はそのまま学生鞄を置いて学校に走っていった。そんなにスピード出さなくてもいいのにと思うぐらい佐々木は速かった。


 佐々木は五分ほどで戻ってきた。手にはタオルと大きいレジ袋と小型のシャベルを持っていた。


 佐々木は猫を器用にレジ袋の中に入れた。そして学校の裏の林の中に埋めた。佐々木は穴を掘るのも速かった。


 辺りはすっかり暗くなっていた。


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 前方に見える山並は遠い。隣を歩いている佐々木の影が徐々に薄くなってゆく。


 貴子はあの山までどのくらいの距離があるのだろうかと思案する。近いように見えて結構遠いんだよな。


「貴子は偉いよな」


 貴子は急に声を掛けられてビクっとなる。佐々木は貴子の目を真っ直ぐ見てくる。佐々木は人と話すときに相手の目を見て話す。貴子はそれが苦手だった。


「あそこで立ち止まっていたのは貴子だけだっただろ。よくある光景なのに。立ち止まってた」


「でも何もしてないよ。どうすればいいのか分からなかった。正直触りたくなかったし。佐々木が来てくれて助かった」


 佐々木は少しの間、腕を組みながら思案して、言った。


「俺は、準備してたから」


「準備?」


「そう。準備。次に猫が轢かれて死んでるのを発見したら埋めてやろうって。前から思ってた」


 貴子にはその準備の意味が理解できなかったが、詳しくは訊かなかった。


「でも私は偉くないよ。なにもしてないから。私よりも佐々木のほうが偉いと思う」


「俺は。偉くないよ。準備してたんだから。やっぱり貴子が偉いよ」


「私は偉くない。やっぱり佐々木が偉い」


 いったい私たちは何を譲り合っているんだろう。偉いってなんだ。猫の死体の前で途方に暮れていたのには理由がある。触りたくなかったというのは嘘だ。本当は猫の死体を介抱しようとしているところを誰かに見られるのが怖かったのだ。どうにかしたいという気持ちはあったのだけれど、どうにも恥ずかしくて身体が動かなかった。佐々木が声を掛けてくれたときにはホッとした。


 佐々木は遠くの空を見ている。貴子には佐々木が何を考えているのかは分からない。もしかしたら佐々木は空の彼方を見ているのかもしれない。


 貴子も釣られて前方に拡がる山の彼方に視線を据える。空はまだ少し明るい。山並みのシルエットの後方で黒が藍を押しつぶそうとしている。その奥の方で宵の明星が小さく小さく光輝いている。


 佐々木は前方の空に視線を据えたまま、淡々と歩いている。その歩幅は貴子に合わせてくれている。佐々木の身長は百八十センチ程度だ。貴子に歩幅を合わせているとすごく小股に見える。それが少し可笑しい。


 佐々木は神妙な面持ちで貴子に言った。


「さっきの猫だけどさ。貴子はかわいそうだと思う?」


 貴子には質問の意図が分からない。なにか試されているのであろうか。正直に答えることにした。


「私は、かわいそうだと思う。だって轢かれちゃったんだし……」


「俺もそうだと思ったんだけど。今考えてたらそれはちょっと違うのかもなって思うんだよ。かわいそうだけど、それはその猫の運命っていうか、なんていうか、なんとなくかわいそうって思いたくないんだよね」


「分かる気がするけれど、きっと分からないと思う。でも準備してたんでしょう?」


「ああ。うん。でもそれとこれとは別なんだよね」


 貴子が佐々木のほうに首を向けると、佐々木と目があった。とっさに目を逸らしたいと思ったけれど、逸らせなかった。


 佐々木は貴子に何かしらの答えを求めていた。


 しっとりとした風が吹く。風は田んぼの水面を揺らした。水音を意識するとともに、木のこすれたような音が貴子の耳の中でぐるぐる回っている。


「例えばさ。俺たちは牛とか豚を食べるでしょう。でもその牛とか豚に対してかわいそうなんて思わない。むしろ美味しいからもっと食べたいって思う。黒毛和牛の霜降りとかイベリコ豚とか言われたら涎だって出てくる。かわいそうなんて、これっぽっちも思わない」


 貴子は大仰にため息をついて、言った。


「あのさ、佐々木」


「うん?」


「あんた意外と面倒くさいね。そんなことどっちだっていいんじゃない? 私は佐々木が何を考えているのかは分からない。でも、あのとき佐々木が声を掛けてくれてすごい嬉しかったんだ。いいじゃん、別に。猫のことなんて。あの猫はかわいそうだった。でもかわいそうでもなかった。それでいいんだよ。佐々木が牛とか豚に対して罪悪感みたいなものを抱く気持ちは分からなくはないけど。だったら食べなきゃいいんだよ。いいじゃん牛も豚も鳥もそれに類するものも美味しいんだよ。もしかしたら猫だって美味しいかもしれないよ。てかどっかの国では猫を食べてるかもしれないしね」


 貴子は自分の饒舌ぶりに驚いていた。思ってもないことをこうもスラスラと言えたものである。思ってはいないけれど言葉としてどんどん口から排出されていった。


 佐々木は笑顔だった。すごく嬉しそうだった。


「そうだよなー。貴子の言うとおりだ」


「ごめん」


「なんで謝るんだよ」


「なんでだろうね。でもなんかごめん」


 貴子は謝ってしまった自分が情けなくなってきた。


 佐々木は遠慮気味に上目遣いで貴子の目を見ながら言った。


「例えばさ、また猫がああやって死んでたとするじゃん」


「うん」


「そのときは俺、今日みたいに埋めるか分からないから」


「どうして?」


「だってそのときは気分じゃないかもしれないじゃん」


 佐々木は笑っていた。その笑顔は綺麗ではなかったけど、とても可愛かった。愛おしかった。


「それでいいんじゃない」


「そうだよな。毎回なんてプレッシャーだもんな」


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 辺りはすっかり暗くなっていた。佐々木とは貴子の家の前で別れた。佐々木の家は貴子の家からもう少し道を進んだところにあるらしい。


 家に着いたのは七時を少し過ぎた時間だった。貴子は家の臭いを肺に満たすように、深呼吸をした。


 リビングに行くと食卓には料理が並べられていた。四人掛けのテーブルで両親と弟はもう席について、食べ始めていた。貴子も自分の席に座る。母が味噌汁と白米を貴子の前に用意してくれた。今日のおかずは豚の生姜焼きだった。


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 貴子は二階の自室で佐々木のことを思った。放課後の出来事を反芻する。佐々木が居てくれて良かったと改めて思った。


 貴子は佐々木と話していると、何も飾らないでいることができる。特別仲が良いわけではない。たまに偶然に会って、一緒に下校する。貴子にとって大切な時間である。


 窓の外を眺めると、ひときわ光る丸い星に見られているような気がして、心が落ち着いてゆく。


 佐々木の可愛い笑顔が頭から離れない。

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田圃一本道【短編】 疑わしいホッキョクギツネ @utagawasiihokkyokugitune

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