1-6 始まり
この物語は、のどかな田舎の一幕から始まる。
ときは2016年、9月の下旬。ここは山に囲まれた盆地で、見渡す限り田園が広がっている。ちょうど稲刈りの時期で、
時刻は明け方。空は、明るくも暗い青を帯びている。冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、俺は車を走らせる。今日は俺が鍵の当番なのだ。誰よりも早く学校へ行って、門や校舎の鍵を開けなければならない。
しばらく車を走らせれば、俺の勤務先が見えてくる。「
門を開錠し終えたら、次は校舎へ向かう。まずは、職員室に最も近い入り口へ向かい、カードキーで鍵を開ける。これは最近導入したばかりで、とてもハイテクだ。
誰もいない校舎へと入る。暗く、青い空気で満たされた廊下は、どこか神秘的なものを感じさせた。普段の明るい様子とは違う。まるで、別の世界に迷い込んだような錯覚。
靴を脱いで、上履きに履き替える。そのまま真っ直ぐ職員室へ向かい、鍵を開ける。もちろん、職員室には誰もいない。
俺は電気をつけて、自分のデスクへと向かう。自分の荷物を置いて、簡単に机上を整理する。それから、空気を入れ替えるために、職員室の窓を開ける。
ガチャリ。ガラガラガラ。やけにかたい鍵と、滑りの悪いサッシに少しの苦戦を強いられながら、窓を解放する。
ふわり。とたんに、鼻腔をくすぐる甘い匂いがした。思わず、息が詰まる。
目に眩しい黄色の花。甘すぎる匂い。職員室前にある金木犀の匂いだ。もうすっかり満開のようで、息苦しくなるほどの甘い匂いが漂ってくる。
俺は、においのあるものが苦手だ。それは香水だとか、体臭だとか、果ては果物味の歯磨き粉だとか。匂いの強い花もまた例外ではない。
金木犀のことは、嫌いではない。綺麗で、良い匂いのする花を咲かせる。そして、この学校のシンボルだ。日常において切り離すことのできない存在。ただ、満開の時期だけは、どうにも受け入れがたいものを感じる。頭を溶かされてしまうような甘い香りが、俺にとっては敵意を含んでいるように感じられてしまうのだ。
金木犀の強い匂いに、少し眉をひそめたところで、俺は気づく。金木犀の影に、誰かがいる。ここからだと、枝葉で姿が隠れてしまっているが、おおよそのシルエットから、誰かは推測できた。
「…
人影は動きを止める。そして、こちらへと顔を出した。
「あ!
少女は快活な笑みを浮かべて、手を振る。やや茶色よりの、短く切った髪が揺れる。
「こんな時間に来るなんて、早いですね。」
「そう!美化委員の仕事でさ。お花の水やりしにきたんだ。えらいっしょ!」
「へえ。えらいね。」
「思ってないよね!」
「思ってますよ。ああ、そうだ。ちょっと待ってて。」
藤岡さんを引き留めて、俺はデスクへと戻る。彼女は何やら察したのか、期待に満ちた表情で待っていた。
「お仕事頑張ってるご褒美に、いいものあげますから。手だして。」
彼女は満面の笑みで両手を出す。俺は彼女の手のひらに、お菓子の個包装をひとつ置いた。
「それ、美味しかったので。おすそわけです。」
他県へ旅行に行った先生が、お土産で買ってきてくれたものだ。職員室には、教員用のお菓子ボックスがあるのだが、やたらみんながお土産を買ってくるもので、お菓子ボックスの底が見えたことはほとんどない。
一部の教員は、こうやってこっそり生徒にお菓子をあげている。
「やったー!ありがと先生!今食べてもいい?」
「じゃあ、ぱぱっと食べちゃって。ゴミはもらうから。」
「おっけー!いただきまーす。」
藤岡さんは、嬉しそうにお菓子を頬張る。咀嚼しながらも、手元では包装紙を小さく丸めて、俺に手渡した。
「あひはとー!(ありがとー!)はーね!(じゃーね!)」
「口に入れたまま喋らない!喉に詰めますよ!」
藤岡さんは、水やりの道具であるじょうろを持って、走り去っていった。朝からずいぶん元気なものだ。
彼女が去ったあと、びゅう、と強い風が吹き込む。金木犀の香りが職員室に充満した。俺は思わず、匂いにむせた。
そうだ。引き続き、校舎の鍵を開けて回らねば。まずは、藤岡さんの使うであろう靴箱からだ。それからどの順番で巡るかを考えつつ、鍵束を右手に職員室を出た。
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