物好き短編集

方波見

ぽろりん、こりこり。(気持ち悪いかも 2300字)



 ジイジイとうるさい蝉をよそに、彼は噴き出る額の汗をびっしょりと重たくなった半そでシャツで拭った。

 全身汗みどろで、今にも蒸気が立ち上ってきそうである。


 「あ」

 

 彼の口から、吐息のような小さな声が漏れ出た。


 作業の手を止め、床を見る。

 そこには、何かが落ちていた。ちっちゃい何かであるが、何であるのかは確信が持てない。


 彼はしゃがんで、それを間近で観察してみた。


 そうして、はたと気が付く。


 指先についた木くずを気にもせずに、彼は長いこと着て首元がゆるゆるになっているお気に入りのシャツをつまみ、その中を覗いた。


 「やっぱり、そうだ」


 得心いった、という風に頷いて、彼は落ちているそれを手に取った。


 なるべく汚さないようにと配慮された慎重な動きは、彼にしては丁重なものである。


 ふうぅ、ふうぅと息を吹きかけ、できるだけの汚れを落とすと、彼はそれ――彼自身の右乳首――をいつのものかも分からないティッシュが収められた右ポケットにしまった。


 「おおい! なにサボってんだ!」 


 「あっ、すみません!」


 普段からやたらと息巻いているのであろう怒り慣れた上司の言葉を受け、彼は跳び上がり、いそいそと作業に戻った。



*****



 日雇いの肉体労働を終え、彼は一万円の入った封筒を片手に、入居した時点で既に建てつけの悪くなっていた扉をあけた。


 感覚的にもかしいでいるとわかるぼろい部屋が、帰宅した主人を招き入れた。


 常であればとりあえず全裸になるところなのだが、彼はいくぶん高揚しているようで、そのことすらも忘れているらしい。


 四畳半を少し超えるくらいの小さな空間の中をぐるぐると歩き回ってからピタリと止まると、満を持してというように、彼は右ポケットから右乳首を取り出した。


 幸い、潰れてはいないらしい。


 彼はほっと安堵すると、小汚い水道の蛇口をちょこっとひねり、乳首を改めてきれいに洗った。


 彼は、彼が所持する中においては最も清潔なタオルで乳首をやさしく包みこみ、水気をとった。


 そうしながら、出血や乳首がとれた跡などがまったくないというのは妙なことだと思ったが、何とはなしに「福笑いみたいだな」とおかしなイメージが膨らみ、にたにたと頬を緩めているうちに問題のことは頭からさっぱりと消えさった。


 彼はタオルをのけると、精密機械の最終点検をおこなうように乳首をしげしげと見て、「よし」と威厳ある顔つきで頷いた。


 それは、きれいなピンク色をしている。


 今では見る影もないが、彼がそこそこモテていたころは、彼女に指先で乳首をころころといじくられ、「かわいい」と囁かれたものだった。


 そういった経緯もあって、彼は密かに、自らの乳首を自慢にしているのだ。


 彼はおもむろに、自慢の右乳首を宙に放った。

 顔を上げ、口を開く。


 マシュマロと同じ要領で、乳首は吸い込まれるように口の中へすぽんと入った。


 彼はそれを舌で転がす。

 表面をなぞるとざらざらしていて、つまむように噛むとこりこりしている。


 彼はワインソムリエ顔負けの悩ましげな表情を浮かべ、しばらくしてから、うんうんと頷いた。


 そうしてひとしきり堪能すると、嚥下した。

 ごくんと、乳首が食道を通っていく。


 彼は喪失感を覚えたが、それで泣くようなことはしなかった。


 でも、明日は彼自身が休日と定めている日であるからあまり早く寝る必要はないのだけれど、彼はさっさと寝てしまいたい気分だった。


 くつ下とズボンとパンツと半そでシャツを脱ぐ。


 しかし、右乳首があった場所がどうにも気にかかり、彼は数少ない戸棚の中を目を皿にしてさがし、奥のほうでくしゃっとなっている、目当ての箱を見つけ出した。


 その中身をとりだし、ぴーっと紙をはがして、右乳首があったところにはっつけた。


 すると魔法のように不安はなくなって、彼はぐっすりと眠れそうだと思った。


 夏が終わるまで、彼は布団をつかわない。


 ずっと出しっぱなしにしてある敷布団に横になって、彼は深い眠りについた。



*****



 ドンドンドンドンドン。

 ドンドンドンドンドン。


 「江元さん、いませんかー!」


 昼下がりの殺人的な暑さに顔をしかめながも、芸術的な曲線美を描く背中をもった老人は、かれこれ五分ほどもこうしていた。


 パワフルに振るわれる枯れ枝のようにほそっこい腕は、いまにも折れてしまいそうだ。


 老人は、このアパートの大家であった。


 となりの部屋で暮らす貧乏学生は、辟易とした表情を隠しもせずに、だるような陽のなかへ出ていった。


 それを横目に、大家はふたたび扉をたたき、声をかける。


 このままでは、出てくるよりも扉が壊れるほうが早いような気がしてきて、大家はいったん落ち着きをとりもどした。


 「仕方ない、また出直すか」と呟いてみたものの、何とはなしにノブに手をかけ、回す。


 すると、鍵はかかっていないようだった。


 さすがの防犯意識の低さに大家はおどろいてしまったが、少しの躊躇ためらいののち、扉を薄くあけた。

 

 「江元さーん、家賃いただきに来ましたー。江元さーん、いますかー」


 返事がない。


 彼は大体この時間には部屋にいるはずだ、と大家はいまだ若い頭から記憶を掘り起こし、これはちょっとおかしいぞ、と思った。


 「江元さーん、入りますよー」

 

 おそるおそる部屋に入ると、碌に換気もしていないのか、むっとした気配が部屋中に漂っていた。


 大家は先ほどよりも険しく皺を刻みながら、玄関との仕切りになっている半開き状態のふすまをあけた。


 一瞬の硬直。


 「なんだ、これは…………」


 大家は、びくびくとしながらも敷布団にででんと乗っかる何かを足先でつつく。


 どうやら動くことはないようだと見て取って、大家はため息をついた。


 「はあ。やっぱり、出直すしかないか」


 大家はそそくさと部屋を出て、扉をしめた。


 

 

 敷布団の上にあるのは、巨大な物体であった。

 きれいなピンク色をしていて、中心に向かうにつれてわずかに盛り上がっている。


 中央より上のあたりには、なぜだか、絆創膏が張られていた。

 

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